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短編集  作者: 雨咲はな
25/26

姉の兄



 私の兄は、昔から大変よく出来た人だった。

 成績優秀、スポーツ万能、眉目秀麗、性格温厚。ありとあらゆる賞賛の言葉を浴びてもなお、傲慢にならない謙虚な性格。小学生の頃から学級委員も委員長も生徒会長も務めあげ、教師からの信頼も厚く、生徒からは頼りにされて、それでも本人は決して出しゃばらず、「みんなのおかげだよ」と、周りを立てることも忘れなかった。

 真面目で誠実で優しくて。そんな人間、いるわきゃないと思うでしょう? でも、いるんです。最も身近で見てきた妹が言うのだから間違いはない。

 とにかく、どこもかしこも完璧な、超優等生。

 それが、私の兄の樹である。


 ──その兄が、先日、姉になった。



          ***



 私とは三つ違いの兄は、一年前、高校を首席で卒業し、難関を突破して名門と呼ばれる大学に現役合格した。

 それに伴い、地方から東京へ出て、アパートで一人暮らしをはじめた。もちろん、何もかもがよく出来る人だったので、私も両親も、特に心配はしなかった。

 なにしろ、家具や家電を揃えるのも、それどころか住むところまで、さっさと自分一人で見て決めて、あとは親がハンコを押すだけ、というところまできちんと整えられてしまうくらいなのだ。料理も掃除も洗濯も、放っておいたってちゃんとやれるに決まっている。

 そういう信頼と油断もあって、両親は、兄が一人で暮らすアパートに頻繁に様子を見に行く、という過保護な真似をしなかった。大学が長期の休みに入れば兄はきっちり帰省していたし、そういう時の兄の態度や見た目に、これといった変化もなかったのだから、それで安心していた、というのもある。

 それが、だ。

 大学生活の一年を終えて、無事二年生に進級できる目途もついた春休み、家に帰ってきた兄は、ガラリと人が変わっていた。


 ……いや、正確に言うと、人ではなく、「性別」が変わっていた。


 そりゃもう、両親の驚きといったら、並大抵ではなかった。まあ無理もない、子供の頃からなんでも出来た自慢の息子が、一気に「娘」に変わっていたのだからね。

 もともと容姿端麗で、中性的な雰囲気を持っていた兄は、頭にロングのウィッグをつけて、化粧をし、さらりとした生地のワンピースを身につけても、非常に美しかった。前からも後ろからも横からも、女性にしか見えない。スカートの裾から覗く脚なんて、本物の女である私よりも細くて綺麗で、ちょっと嫉妬しそうになったくらいだ。

 当然、我が家は上を下への大パニックである。特に両親の狼狽ぶりといったら、見ていて気の毒になるほどだった。きっと、空から突然隕石が落ちてきても、ここまで動転しないんじゃないか、と思わずにいられない。

 何があった、勉強のしすぎでよほど疲労が溜まっているのか、それとも人間関係で嫌なことでもあったのか──と、あくまでもこれを「心身にダメージを受けたがための一時的なもの」ということにしたがる両親に向かって、兄はきっぱりと言ったものだ。

「ごめん。僕はずっと、自分が男だとは思えずにいた。もうこれ以上、周りも自分も騙せない。これからは、女として生きていくよ」

 と。



          ***



 恐慌状態に陥った両親が泣くわ叫ぶわ喚くわ、という悪夢の一夜が明けてから、憔悴しきった表情の兄が、私の部屋にやって来た。

「……ごめんね。早耶にも迷惑かけちゃって」

「ううん、気にしないで、いっちゃん」

 あまりにもしょんぼりとしている様子の兄を見ていられず、私は急いで首を横に振った。

 いやもちろん、私にだって、兄が姉になることへの困惑はある。あるがやはり、これまで育てた親と、ただぬくぬくと甘えてきた妹という立場とでは、現実の受け止め方にも大きな差異がある。親の衝撃はわかるが、私としては、今まで苦悩を自分の中にしまい込んできた兄に対する同情のほうがはるかに上回っていたのだ。

 きっと、ずっと、大変な思いをしてきたのだろうなあ──と思うくらいの想像力は、私だって持っている。兄がこれまで一分の隙もないような完璧人間として振る舞ってきたことの裏には、自分がおかしいのでは、とか、人に知られてはならない、とかの重苦しい煩悶もあったに違いなかった。

 漫画や小説が好きで、よく読んできた分、「そういう人もいるんだ」という認識が、親よりもわずかに出来ていた、ということもあるかもしれない。難しいことはよくわからないけど、少なくとも、私の中にそういったことに対する嫌悪感などはなかった。


 ──それに正直、兄にちょっと女性っぽいところがある、というのは、以前から薄々感じていたことだし。


「私が小中学生の頃、毎日せっせと髪を編んでくれたり、嬉々として洋服のコーディネートをしてくれたのは、いっちゃんだったもんね」

「そういうの、大好きで……」

 兄は、ぽっと頬を赤らめた。長くしなやかな指を軽く当ててはにかむ様は、私よりも数倍、女らしい。

「いっちゃんはセンスがいいから、みんなにもよく褒められたよ」

「ほんと?」

 私の言葉に、嬉しそうに微笑む。昨日家の中に足を踏み入れた時から、固い顔つきを崩さなかった兄がようやく笑ったのを見て、私もほっとした。

 両親が嘆くのは判らないでもない。でも、兄が悲しそうに打ちひしがれているのも、つらい。難しい問題だなあ。

「だけど、みんなに褒められたのは、早耶が可愛いからだよ」

 兄のフォローに、私も笑った。いいのいいの、気を遣わなくて。すべてが完璧な兄に比べ、私がどこまでも凡庸で平均的な人間であることは、自分でよく判っていることだもんね。

 それでも私が、拗ねたり歪んだりグレたりしなかったのは、ひとえに、兄がいつでも一生懸命、そんな私を庇って慰めて、守ってくれようとしたからだ。

 兄と比較して心ないことを言う人々に怒り、私の数少ない長所を見つけて褒めあげ、早耶は早耶だよ、早耶は誰よりもいい子で僕の大事な妹だよと、何度も何度も言ってくれたからだ。

 だから私は、兄が兄らしく生きていけるのであれば、それでいいと思っている。

「私は、いっちゃんのこと、大好きだよ」

 私は女性の姿をした兄をまっすぐ見つめて、そう言った。

「それは、いっちゃんがお兄ちゃんじゃなくてお姉ちゃんになっても、変わらないよ」

「…………」

 姉になった兄は、私をじっと見返した。

 そして目を伏せて、目許の涙を拭い、「……ありがとう」と、ぽつりと言った。

 その姿は、楚々とした美女そのもので、ううむ、と内心で私は唸った。



「──ところで早耶」

 床に横座りした兄が、ベッドに腰を下ろした私を窺うように見上げ、口を開いた。

「最近、洸希と、会ったりした?」

 その言葉に、私の心臓が飛び跳ねた。

「え……と、洸希って、いっちゃんのお友達の、あの洸希君?」

「そう」

「なに、いきなり? いっちゃんがいないのに、いっちゃんの友達と私が会うわけないでしょ?」

「そう……。連絡とか、なかった? もしくは、外で偶然ばったり会ったりとか」

「ないよー」

 へらへら笑いながら、私の鼓動は今にも爆発しそうなくらい、ばくんばくんと激しく波打っている。なんだか妙に、兄の視線が探るようにこちらに向けられているような気がしてならず、私の目線はうろうろと宙を彷徨った。

 これはなんだ。女の勘というやつか。つい最近まで男だったのに、兄にはもうそんなものが備わっているのか。

「……いっちゃんは、どうなの? 洸希君とは、中学の頃からずっと仲が良かったじゃない。今も一緒に遊びに行ったりしてないの?」

 白々しいなと、自分でも思う。兄と洸希君が、高校卒業以来、メールくらいでしかやり取りがないことを、私は知ってる。二人は遊びに行くどころか、この一年、顔を合わせてもいない。

「最近、まったく会っていないの」

 何かを考えているのか、頬に手を当てたままぼんやりしている兄の言葉遣いは、かなり女性っぽくなっている。本当はこっちが「素」なのだろう。ぜんぜん違和感がないところがすごい。

「あの……いっちゃんは」

 私はもじもじしながら、切り出した。

「こ……お友達にも、やっぱり、カミングアウトするつもりなの?」

「そうね……」

 肯定なのか否定なのか、どっちつかずの返事をして、兄は言葉を途切らせた。目線が下を向いていて、長い睫毛が影を作っている。私のドキドキは収まらない。どころか、大きくなっていく一方だ。

「……いっちゃん、ってさ」

 勇気を振り絞り、問いかけてみることにした。

「好きになるのは、やっぱり、男の人?」

「え」

 自分の考えに沈んでいたようだった兄が、ぱっと顔を上げた。また顔を赤らめて、恥ずかしそうに指の先で床にのの字を書きはじめる。

「……そうなの。実は、今、好きな人がいるの」

 その人にちゃんと告白するためにも、家族に打ち明ける決心をしたのだと、兄は言った。

「へ、へえ……。そう、なんだ……」

 私の心臓が、今度はきゅっと縮まった。



         ***



「えっ、樹、帰って来てるのか?」

 いつも待ち合わせをする駅前の喫茶店で、私から報告を聞いた洸希君は、座っていた椅子から飛び上がらんばかりに仰天した。

「で、俺と早耶ちゃんが会ってるってことは」

「言ってない」

 そう答えると、ほーっと深く息を吐き出して、ぐったりしたようにまた椅子に身を沈めた。テーブルに肘を突き、額に掌を当てて、「俺はてっきり……いや、でも、まさかな」とぶつぶつ独り言を洩らす。

 そのまましばらく難しい表情で何かを考え込んでいたけれど、ふと顔を上げた洸希君は、私がずっと黙って、カップを持ったまま動きも止めていることに、やっと気づいたらしい。

「どうした? 早耶ちゃん。なんか元気ないな」

 と、眉を寄せて、首を傾げながら訊ねた。

「……ん」

 曖昧な返事をして、のろのろとカップをソーサーに置く。

 それから、向かいに座る洸希君の顔を、じいっと見つめた。洸希君が、どぎまぎしたように背筋を伸ばして姿勢を正す。

 繊細な面立ちをした兄とは違って、洸希君はかなり男らしい、きりっとした顔をしている。成績は普通だけど、運動神経が良くて、ケンカも強く、昔はガキ大将として近所の子供たちを率いていたと聞いた。

 快活で、ちょっと粗忽で、言葉遣いとかは雑だけど、面倒見が良くて、部活では後輩からあれこれ相談されたりして、それをなんとか解決しようと奔走したりするタイプ。表でリーダーシップを発揮するよりも、どちらかといえば裏側でこっそり手助けするほうを選ぶような。

 そんな洸希君は、中学時代からの兄の親友、という位置にいる人で、家にもよく遊びに来ていたから、当然、私とも面識があった。


 以前は、「兄とはまた少し違う雰囲気の、でも頼りになる年上のお兄さん」であった彼は、現在、私の片想いの相手、という存在になっている。


 二人だけで会うようになったのは、ここ半年くらいのことだ。

 偶然、本屋で私を見つけた洸希君が声をかけてきて、それからなんだかんだとスマホでやり取りしたり、月に二、三回くらい一緒に出かけたりしている。

 最初のうちは、兄の代わり、くらいにしか思っていなかった彼に、私が次第に異性としての好意を寄せていくようになったのは、ごく自然なことだった。洸希君はいつも気さくで、親切で、兄とはまた違う形の優しさを持っていて、どうしても惹かれずにはいられなかったのだ。

 ──でも、洸希君のほうは、私のことを妹のようにしか思っていないのは明らかだった。

 何度会っても、彼は決して自分のほうから距離を縮めてくるようなことはしない。いつでも紳士で、腹立たしいほどに大人の対応しか、してくれない。私のことは、きっと今でも、「親友の妹」としか見ていないのだろう。


 兄が遠くに行って淋しい思いをしている妹の相手を、たまにしてあげている──それだけ。


 時々苦しくなってしまうけど、その妹の線を一歩でも踏み越えようとしたら、洸希君はもう会ってもくれないのだろうと判るから、私は常にその手前で立ち止まっているしかなかった。

 こんな気持ち、誰にも言えない。

 兄にはもっと、言えない。

「どうしたんだ? 言ってみろよ。何かあったんだろ?」

 洸希君は、私の気持ちになんてまったく気づかずに、心配そうにこちらを覗き込んでくる。男の子にからかわれてベソをかく妹に、「誰にやられたんだ」と聞いてくる兄そのままに。

 私が両眉を下げて口をへの字にし、ちょっと泣きそうな顔になると、ますます慌てたような表情になった。

「樹と喧嘩でもしたのか? だったら俺がちゃんと話をしてやるからさ。大丈夫だよ。だからそんな顔するなよ、な? な?」

 まるで子供の機嫌を取ろうとしているみたいだ。そりゃ、洸希君からしたら、高校生の私なんて、幼稚で、子供にしか見えないのは判っているけど。


 ……いっちゃんのほうが、よっぽど大人で、美人だ。


 兄と比べられるのは慣れているが、かといって、こういうことで比較対象になるとは、思ってもいなかった。

 それだけに、ショックが大きい。成績面や運動面で自分が劣っていることを見せつけられるのは耐性ができていても、女としての自分まで、兄よりも下だと自覚させられるのは耐性ができていない。まったく、できていない。こうまでショックを受けるとは、自分でも予想外だった。

 兄に好きな人がいるとしたら、その相手は洸希君以外に考えられない。

 兄に告白されたら、洸希君はどうするのか。彼はそういったことに変な差別意識を持つ人ではないし、ちゃんと真面目に受け止めて考えるだろう。

 私から見ても、姉になった兄はあんなに綺麗だ。容姿も所作も性格も、あらゆるところで、私よりも上にいる。きっと、その「考える時」に、私という存在は、洸希君の頭の中をまったく掠りもしないに違いない。


 悲しい。悔しい。

 洸希君が誰を選ぶかということよりも、そこにまったく何の影響も及ぼさないであろう、自分のちっぽけさが、たまらなく。


「……っ」

 我慢しようとしたのに、やっぱり無理だった。私の目からぽろぽろと涙が零れだしたのを見て、洸希君はさらにぎょっとし、動揺した。

「ごめん、ごめん、なんかよくわかんないけど、俺が悪かった。だから泣かないで、早耶ちゃん。君が泣いたら、どうしたらいいかわからない」

 そりゃ、わからないだろう。何も言わずに、突然、泣き出して。だから私はいつまで経っても、子供扱いしかされないのだ。こんな風に、赤ちゃんをあやすような言い方をされてしまうのだ。

 だけど、止められない。周りのお客さんや店員さんの目もあるし、こんな風に泣いていては、洸希君の迷惑になるだけだと判っているのに。

「ご……ごめんなさい」

 なんとかそれだけ言って、私は椅子から腰を浮かせた。これ以上、みっともないところを見られたくない。兄が今後どういう行動に出るのかは知らないが、ここから先は兄と洸希君の問題である。私が余計なことを言うわけにはいかない。

「待って、早耶ちゃん」

 テーブルから離れようとした私の手を、洸希君が素早く掴んだ。

 まだ出てくる涙を拳でごしごしとこすりながら顔を向けると、洸希君はひどく真剣な表情で私を見据えている。

「何があったんだ」

「な、なんでもない。……洸希君には、関係ない」

 私がそう言うと、洸希君の眦に険が差した。「関係なくない」と強い語調で言われ、私の身がびくっと竦む。

「早耶ちゃん、俺は──」

 切羽詰まったような声と口調で、洸希君が何かを言いかけた、その時だ。

「おっと、そこまで」

 と、静止の声がかかった。


 私の手を掴んでいる洸希君。その洸希君の腕を掴んで、不敵な笑みを浮かべて立っている美人──


「……いっちゃん?」

「い、樹?!」

 私が茫然と出した言葉と、目を剥いた洸希君が叫んだ言葉とが、同時に重なった。

「とうとう現場を押さえたわよ、洸希ぃ~。てめえこの野郎、やっぱり約束を破りやがって」

 女言葉と男言葉が混在しているが、だからこそ余計、鬼気迫るような迫力がある兄に、洸希君は今にも泡を吹いて倒れそうだ。

 これはひょっとして、修羅場というやつなのだろうか。どう見てもこの状況、「男の浮気がバレた時の三角関係の構図」、そのものなんだけど。いや男の浮気を責めているのもやっぱり男で、しかも私の兄で姉なんだけど。ああなんか混乱してきたよ!

「ちっ、ちが! 約束は破ってない! 何もしてないし言ってない! 必死に自制心を振り絞って努力してたんだから!」

「言い訳は見苦しい。僕の可愛い妹に手を出すなとあれほど何度も何度も何度も念を押したにも関わらず、人が東京に行った途端、そそくさと近寄ってきたんじゃねえか」

「だから手は出してないだろ! 告白もしてない! ずっと好きだったってことも言ってない! しょうがないだろ偶然会っちゃったもんは! これも神のお導きということで!」

「神なんて信じてないくせにこんな時だけ、お前というやつは!」

 私は唖然として立ち尽くし、兄に胸倉を掴まれてがくがくと揺さぶられている洸希君の言葉を聞いていた。

 ……え。


 こ、告白?

 ずっと、好きだった?



          ***



 あまりにも居たたまれなかったので、喫茶店を出て、三人で近くの公園に移動した。

 そこで兄と洸希君の二人から代わる代わる話を聞き、整理したところによると。


 ──洸希君は、私が中学生の時から、私のことを好きだったらしい。


 その時、洸希君は高校生。

 迷って悩んで、親友でもある兄に打ち明けたところ、返ってきたのは、それはそれは綺麗な微笑と、

「僕の大事な妹に手を出したらブッ殺すよ? この変態」

 という、本気の殺意がこもった恫喝だったそうだ。

「ひどい……」

「ひどいだろ。早耶ちゃんもそう思うだろ。な? な? そうなんだ、樹はひどいやつなんだ」

 思わず私がぽろりと零すと、洸希君は俄然、勢いづいて同意を求めた。兄はしらっとして腕を組み、余所を向いている。

 洸希君はその後もしつこく牽制され続け、兄が大学に進む時には、「自分が不在の間、絶対に早耶に近づかないこと」という誓いを無理やり立てさせられた、のだという。

 だから洸希君は、偶然本屋で私を見つけたことすら、兄には言えなかった。その後、二人で会うようになってからはますます言い出しづらくなり、もともと嘘をつくのも苦手なので、自然、兄に連絡を取る回数も減った。兄が「何かあったな」と勘付くほどに。

 兄の今回の帰省は、それを確認するため、という目的もあったらしい。

「あのね、早耶ちゃんはよく判ってないみたいだけど、樹は相当なシスコンだから。どっちかっていうと、こいつのほうが変態なくらい、妹大好き人間だから」

 ベンチに座った洸希君は、そう言って、疲れたように大きな息を吐き出した。その彼に向ける兄の視線は氷点下並みに冷たい。

「中学生に恋心を抱くようなロリコン変態野郎に言われたくない」

「俺の純情はお前のようなシスコンには理解できないんだ!」

「…………」

 わりとどっちもどっちな内容でいがみ合っている二人を前に、私はまだ少し放心していた。

 が、今になってようやく、気がついたことがあった。

「……そういえば、洸希君、驚かないね」

「いや驚いたよ。まさかここで樹が出現するとは思わなかったから、エネミー突如発生! みたいな感じでビックリしたよ」

 何を言っているのかイマイチよく判らないが、とにかく驚いているのは、兄がいきなり現れた、という一点のみらしい。


「あの……いっちゃんの、この姿見て、なんとも思わない?」

 今日もきっちりと女性の恰好をしている兄に、ちらっと視線を向けながら、私は訊ねた。


「ああ……」

 洸希君もそちらに目をやって、兄の頭から爪先までをしげしげと眺めた。

 両親でさえ、今の兄を正視できず、あらぬ方向に目を向けるというのに。

「だって、知ってたから」

「知ってたの?!」

 あっさり返されて、私は驚愕したが、洸希君はなんでもないことのように、うんと頷いた。

「高校の頃から聞いてたし、実際にスカートとか履いてるのも見た。こんな自分を知られて、親はともかく、早耶ちゃんに気持ち悪いと思われるんじゃないかって、ずーっと悩んでたのも……あ、そうか、じゃあもう早耶ちゃんも聞いたんだな」

 今さらになって気がついたように、目をぱちぱちと瞬いて、私と兄とを交互に見る。

「早耶ちゃん、樹を気持ち悪いと思ったか?」

「う……ううん。ぜんぜん。だって、いっちゃんはいっちゃんだもん」

 首を横に振ってそう言うと、兄はまた少し泣きそうに眉を下げた。

 洸希君が、「だろ? 早耶ちゃんはそう言うと思った」と満足そうに頷く。

 そして兄のほうを向き、

「よかったな」

 と目を細めて笑った。

 まるで彼の周りを、春の日差しと暖かい風が、取り巻いているかのようだった。


 ……洸希君は、そういう人なのだ。

 兄の外見と中身の性別が違っていても、変わらず友情を貫ける人。

 芯の部分のみを見て、余計なことは言わず、ただ祝福だけをしてくれる人。

 ああ、私はこの人のことがやっぱり好きだな──と改めて、心の底からそう思った。


「…………」

 兄は私のようにうっとりすることも感激することもなく、その美貌をわずかに歪めて、じろりと洸希君を睨んだだけだった。

 でもその顔は、完全無欠の優等生をしている時には見せなかったものであることにも、私は気づいた。やっぱりこの二人は親友同士なんだなと、しみじみ思う。

 兄はその顔のまま、ふん、とそっぽを向いた。

「だからって、お前と早耶のことはまた別の話だからな」

「そこをなんとか。俺はそろそろ、『お兄さん』でいるのは限界だ」

「なに言ってるんだか、図々しい。僕だけが唯一の、早耶の兄で姉だ。……とはいえ」

 忌々しそうに、息をつく。

「もう手遅れのようだし、可愛い妹が悲しむのも見たくない。……大体、早耶が僕は僕らしくあればいいと言ってくれたのに、その早耶から笑顔を奪うような真似が出来るわけないじゃないか」

「え、樹、じゃあ」

 ぱっと嬉しそうに目を輝かせた洸希君に、兄は渋々、頷いた。

「最大限譲歩する」

「樹……!」

「その件は、早耶が高校を卒業してからまた考えることにしよう」

「無理に決まってんだろ、バカ野郎ーー!」

 があがあと言い争う二人を見ていたら、なんだかたまらなく可笑しくなって、私は思いきり噴き出した。

 ちなみに、兄の好きな人というのは、洸希君ではなく、別の人であるらしい。

 二人とも、「こいつは友達にはいいけど、異性としてはまったく好みじゃない」、ということだそうだ。




 その後、私と洸希君はめでたく、お付き合いを始めることになった。

 東京に戻った兄は、男らしい猛々しさと、女らしい細かさとを使い分け、たびたび、私たちの邪魔をしてくる。





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