献血ルームの恋
紺野が、年に三回か四回くらいの割合で献血をしに行くのは、特に「善意から」というわけではない。
なんとなく煮詰まっている時に血を抜いてもらうと、スッキリしたような気分になるから、というのが、たぶん一番大きな理由だ。紺野が利用する献血ルームというのが、新しく建てられた高層ビルの上のほうにあって、綺麗で快適、おまけに眺望もいいので、リラックスできる、というのもある。
職員も丁寧で親切だし、雑誌は見放題だし、献血中に飲み物ももらえるし、終わったらドーナツとコーヒーまで出されて、「ゆっくり休んでからお帰り下さいね」と優しい言葉をかけてもらえたりする。至れり尽くせりだ。
要するに紺野にとって献血とは、あくまでほんの「息抜き」的なものだったのである。いやこの場合、抜くのは血液であるのだが。
というわけで、何もすることのないヒマな休日などには、買い物がてら都心まで足を伸ばして、そのついでに献血ルームにぶらりと立ち寄り、血を抜いてもらう。どこかでこの血を有効利用してもらえればいいなという気持ちはもちろんあるが、実のところそれは、献血理由のほんの一割くらいであったかもしれない。
でも、まあ、そんなもんでしょ、普通。
──と、そう思っていた。つい昨日まで。
献血を済ませて、ドーナツとコーヒーを胃に収め、のんびりと身体を休めた後で、献血ルームを出た紺野は、そこで知り合いを見つけた。
新しいため、どこもかしこもピカピカなそのビルは、下のほうには飲食店や衣料品店などが入っていて賑やかだが、高層は企業などに占められているので、上がっていくほど静かになる。献血ルームのある階も、他には会員制らしいジムがあるくらいで、廊下に人の姿はなく、しんとしていた。
その静かな場所、エレベーターの前にある休憩用の椅子に、セミロングの若い女性が腰かけている。
下を向いてやや俯き加減だが、紺野は彼女の顔に見覚えがあった。部署は違うが、同じ会社の人間だ。
えーと、名前はなんていったか。
「……藍沢さん?」
呼びかけると、女性はびくっと肩を揺らし、ぱっと顔を上げた。驚いたような表情をしているが、間違いない。おかしな恥をかかなくてよかった、とホッとした。
「こ、こ、紺野さん」
藍沢は紺野の姿を確認すると、がーっと顔に血を昇らせ、次いでさーっと青くなった。忙しい人である。
ひょっとして、よくない時に声をかけちゃったかな、と紺野は内心で思った。誰でも、休みの日にバッタリ会社の同僚と顔を合わせたりするのは、気まずいものだろう。
ここは一言二言如才ない会話をしてから、じゃあ、と別れたほうがいいかな。
「偶然だね。俺、時々ここの献血ルームに来るんだよ」
そちらさまは何をしにここまで? という質問は避けたほうが無難か、と考える。プライバシーに踏み込むのか、と不快になる人もいるだろうし。でもこの階に来るってことは、献血か運動か、その二つの選択肢しかないんだけど。
「け……献血……」
それを聞いて、藍沢が泣きそうな顔になったので、紺野は焦った。そんな顔をさせるようなことを口にした覚えはない。
そこで、もしかして、とピンときた。
「藍沢さん、もしかして献血で気分が悪くなった? それで休んでたの?」
それなら、顔色が悪いのも頷ける。紺野は400ml血を抜かれてもまったく平常通りだが、女性の場合はその半分でも貧血を起こすことがあると聞いた。
藍沢は口をぎゅっと引き結び、心配そうに訊ねる紺野の顔をじっと見た。わななくように唇の端が震えている。
「ち……」
「血?」
「……ち、違うんです。わたし、わたしは、本っ当にどうしようもない人間なんです……!」
藍沢は顔を両手で覆って、わっと泣き出した。
紺野は呆然とした。
意味がわからない。
***
泣く藍沢をなんとか宥めて、下の階のカフェまで移動した。
休日だけあって客が多く、まだしゃくり上げている女性を連れた紺野は一躍注目の的となったが、仕方ない。俺は石、と自分に言い聞かせ、羞恥心を脇に追いやることに努力を費やす。この状態の知り合いを放置して逃げるほど、紺野は冷淡にはなれなかった。
「す、すみません」
藍沢もさすがに周囲から好奇心を向けられていることには気づいたらしく、赤くなり、持っていたミニタオルで涙を拭いた。赤くなるくらいなのだから、とりあえず貧血で倒れることはなさそうだ。
「──言いたくなかったらいいんだけど、こんな場所で会ったのも何かの縁だし、何があったか話してもらえない? このままだと俺だって気になるし。あ、もちろん、秘密は守るから。俺、口は固いほうだよ」
確率は半々だろうなあ、と思いながらそう言ってみる。
何かつらいことがあって、わざわざ人目のないあんな場所でじっと耐えていたのだとしたら、そこで知り合いに会ってしまうというのは、藍沢にとってはかなりの不運であったろう。
その内容が失恋とかだったら、ろくに口もきいたことのない会社の同僚に軽々しく打ち明けられない、というのも判る。かといってこのままだと、月曜日からお互い気まずい思いをするだろうし。
ここはあれだ、適当にでまかせの口実をこしらえる、っていうのが一番ありがちなパターンかな。仕事上のことでちょっと悩みを抱えている、とか。可愛がっていたペットが死んでしまって悲しくなった、とか。紺野はそれを信じたような顔でふんふんと聞いてやり、適当な慰めを口にして、じゃあねと別れ、会社では知らんぷりをしていればいいわけだ。それが大人同士の暗黙の了解というやつである。
「じ、実は」
藍沢が悲壮な顔つきになり、手にしたミニタオルをギュッと握った。
「うん」
「献血が、できなかったんです」
「……うん?」
空耳か?
てっきり、もっともらしい嘘を聞くことになるだろうとスタンバイしていた脳が、一瞬理解を拒んだ。
「──えーと、もう一回」
「ですから、献血ができなかったんです。こんなわたしは人として最低です。そうは思いませんか、紺野さん」
思いません。ていうか、論理が飛躍しすぎていて、意味がわからない。
「最低です。そうなんです。……わたしって、昔から、ものすごく粗忽な性格で」
まだ理解の追いついていない紺野を置き去りにして、藍沢はじっとミニタオルに視線を落として、訥々と語りだしてしまった。昔からって、え、そこからはじめるの?
「もう、ほんとに子供の頃からドジばっかりだったんです。自分では頑張っているつもりなんですけど、なぜか失敗してしまうんです。それでよく人様にも迷惑をかけ続けているんです。お母さんには、あんたみたいなのがマトモな大人になるのか心配で心配でしょうがない、って何度嘆かれたかわかりません。通知表にはいつも、『もう少し落ち着いて物事に取り組むようにしましょう』って書いてありました」
「通知表……」
「小学校、中学校、高校、大学と、その性格は直りませんでした。直そうとは努力するんですけど、努力すればするほど空廻ってしまうんです。わたしのような人間には、努力すらも神さまの試練のように難しいんです。ポカをしないようにしようと思うほど、ポカをしてしまうんです。わたしというのは、本当にどうしようもない人間なんです」
藍沢はものすごく一生懸命、「どうしようもない」を力説した。
「やっとの思いで就職しても、やっぱりヘマの連続で、みんなにも迷惑をかけっぱなしです。みんな優しいから面と向かって言ったりはしないけど、きっと呆れていると思います。課長と柳田さんが怒るのも当然なんです」
藍沢の所属する課の課長は、小さなことでも過大に騒ぎ立てる、と社内では有名な人だ。柳田というのは課内のお局だが、非常に口うるさいので女性社員から敬遠されている。
「……で、最近もミスをして怒られたと」
部署が違うといっても、それくらいは想像で判る。藍沢はくしゃりと顔を歪めたが、涙は出さずにこらえた。
「わたし、自分に嫌気が差した時は、献血をしに行くんです」
「はあ」
「こんなわたしでも、少しは、ほんの少しは、誰かの役に立つかもしれないと思うと、ちょっぴり気が楽になるんです。病気や怪我で苦しんでいる人のためというよりは、自分のためです。わたしはどこまでも自分勝手な汚い人間なんです」
「いや……」
そんなことを言うなら、紺野だって汚れてしまうのだが。
「そっ、それで、どうしても気持ちが塞いで、今日も来たら……来たら……」
「来たら?」
「──血液の比重が足りない、って……」
あちらからお断りされた、と。
献血には条件がある。病気を持っていないこと、というのは常識以前の問題だが、採血してその数値が一定の基準を満たさなければ出来ない、と決められている。血液の比重とは要するに血液の濃さのことで、女性は特に、血が薄くて献血不可となるケースはよくある。
「わたしは、血液すらも役に立てることは出来ない、ダメ人間なんです……! 職員さんにも手間をかけさせた上に『せっかく来てくれたのにごめんなさい』なんて謝らせて、わたしは人間のクズも同然です! わたしの血なんて一リットルくらい抜いてもらっても構わないのに、それさえも許されないんです!」
そこで我慢できなくなったらしい藍沢は、勢いよくテーブルに突っ伏した。周囲からの視線が痛い。誓って言うが、藍沢が泣いているのは断じて紺野のせいではないぞ。
「……あのさ、人間、誰だってミスくらいはするもんだし、そこまで落ち込まなくてもいいんじゃない? それよりも無理に血を抜いて体調が悪くなることの方が大変だよ」
「いいえ、いいえ。わたしの場合、『ちょっと失敗しちゃった、えへ』で済ませられるレベルのものではないんです。普通のミスに輪をかけてすごいんです。わたしはその点で誰にも負けたことがないんです」
どんなんだよ。なんでちょっと上から目線なんだよ。
「世の中には、ドジっ子属性ってのを好む層もあることだし……」
「じゃあ紺野さんは、自分の身近に、朝から晩までヘマとポカとを繰り返し、自らを省みることもなく、えへへまたやっちゃった! と頭をコツンとしてぺろっと舌を出すような女の子がいたらどう思いますか」
「……ウザいね」
つい正直に言ってしまったら、藍沢はやっぱり! と大層ショックを受けた顔になった。誰も藍沢をウザいとは言っていないでしょうが。
結局その休日は、落ち込む藍沢にケーキセットを奢ってやり、どこか論理的に意味不明な彼女の話を聞くことで終わった。
***
翌週の月曜日から、紺野が藍沢のことを気にするようになったのは、無理のないことだろう。
だってあんな変な女、一度意識しはじめたら、そうそう頭の中から追い払えるもんじゃない。今まで、大勢の中の一人、としてしか認識していなかった彼女の姿が、やけに目につくようになった。
藍沢は確かに本人の言うとおり、失敗の多い人間らしかった。泣きそうな顔でバタバタと廊下を走っているところや、すみませんすみませんと頭を下げているところをよく見かける。ポカなんて、本人が気をつけていればそれなりに未然に防げるものだと思うのだが、よほど注意力が散漫なのだろうか。
そう思い、彼女の課に在籍している同期の男に、それとなく探りを入れてみた。すると意外なことに、藍沢の評判はさほど悪くないことが判った。会社の中で失敗ばかりする人間というのは、要するにやる気がないし覚える気もないのだと受け取られても仕方ないので、普通、周りから煙たがられるものなのだが、彼女はそれとはまた違うらしい。
「まあ、確かに失敗は多いんだけどなあ」
と、同期の男は笑って言った。
「なんか、ものすごく必死なのがわかるから、憎めないっつーか。やる気はあるし、頑張ってもいるんだけど、ウッカリが多いんだ」
藍沢は、仕事自体は非常に気を張ってやっている、のだという。本人にも自分の性質についての自覚はあるので、作った書類は何度も見直すし、丁寧に仕上げる。だから彼女に頼んだものは綺麗だし見やすい、と課の連中にも好評であるらしい。
それなのに、その書類を持っていく途中で転んで、観葉植物を倒し、そのついでにパソコンのコードを引っこ抜いてデータをおしゃかにして、すみません申し訳ありませんと頭を何度も下げている時に熱いお茶を持った他の社員とぶつかり、書類にシミを作る……という具合なのだそうだ。
「…………」
紺野は迷った。
ここは笑ってもいいところか?
「性格だって素直だし、大人しくて地味なくらいの子なんだけどなあ」
大人しくて地味。実を言えば紺野も今までそう思っていた。彼女の課にいる美人社員に興味は引かれても、藍沢のほうはあまりまともに見たこともない。
いやしかし、あれは相当、変な女だぞ。大体、叱られて落ち込んで献血、という発想がまず尋常ではない。
そうやって話している間にも、どこかから大きな怒鳴り声がすると思ったら、藍沢が柳田に叱られて小さくなっていた。離れていてもヒステリックな声が耳にじんじんと響くくらいなのだから、目の前でやられた日にはたまらないだろう。
同期の男がこっそりと耳打ちした。
「なまじ大人しいもんだから、ああやってよく柳田さんや課長の鬱憤のはけ口にされてんだよ。他の連中も巻き添えになりたくないもんだから、黙ってるしかない」
「…………」
いや違う。
大人しいから、というより、藍沢自身がそうされて当然、と思っているからだ。これまでの生い立ちで培ってきた彼女の自己評価は、著しく低い。その目にはきっと、周りの人間の気の毒そうな顔は映っていないのだろう。
柳田の言葉だけでなく、自分でも自分を責めている。
一方的な罵言をじっと受けながら、目に涙を溜めているその姿を見ていたら、猛然と腹が立ってきた。
「いいか、ひとつ失敗をしたら、まずはそこで止まれ」
終業後、しょんぼりと肩を落として会社から出てきた藍沢を捕まえ、近くのカフェへと連れて行った。
藍沢は目をぱちぱちさせている。紺野は本来こんな風に誰かに説教をするような性質は持ち合わせていないのだが、どうにも放っておけないのだからしょうがない。
「止まる?」
「俺が見るに、藍沢さんの場合、度を失うのがまず最大の問題点なんだよ。ひとつヘマをして、頭に血が昇り、慌てふためいた挙句に、しなくてもいいヘマまで次々に呼び込むことになる。だから、『あ、やっちゃった』と思ったら、一旦じっとすること。それで落ち着いてから、次にどうすればいいのかを考えるんだ」
「なるほど……」
藍沢は大真面目な顔で頷き、おもむろにノートとペンを出して、メモを取った。ちらっと見たら、「まずはじっとする」と几帳面な字で書いてある。噴き出しそうになったが、我慢した。
「それから、明らかに自分が悪くないことで怒られたら、ちゃんと反論しなよ。黙っていればいるほど、こいつには何も言ってもいいんだ、と相手に勘違いさせることになる」
藍沢は身を縮めた。
「う……でも」
「でもじゃない。大事なことだよ。なんでも我慢してりゃいいってもんじゃない」
「……はい」
素直に頷いて、藍沢はまたノートにメモをした。「反論してみる」とやけに小さな文字で遠慮がちに書いてあって、紺野は我慢できずに笑い出してしまった。
「ところで藍沢さん」
「はい」
「この後予定がなければ、メシ食いに行かない?」
「メシですか」
「血が薄いんでしょ? じゃ、栄養つけないと。俺、わりと美味い店知ってるよ」
藍沢はきょとんとしてから、そうですね、と頷いた。
食事をしながら、紺野は自分もよく献血をしに行く、という話をした。実はポイントカードまで持ってる、と言って見せたら、藍沢は引くどころか本気で羨ましそうに食いついてきた。
「いいなー。憧れます」
「決して憧れるようなものではないと思う」
「だってこれ、十個集めるとプレゼントがもらえる、ってありますよ」
「洗剤とか、そんなのだって聞いた」
「いいなー」
「自分で買えば? 洗剤くらい」
「献血のポイントを貯めてもらえる、っていうところに意義があるんです」
「意味がわからない」
紺野が噴き出すと、藍沢も目を細くして笑った。
お、はじめて困った顔と泣いた顔以外のものを見たぞ、と紺野は内心で呟く。
その瞬間、心臓がどくんと血液を送り出した、気がした。
***
それ以降、藍沢は、紺野の助言をちゃんと実行しているらしい。
ひとつヘマをしたら、止まる。
「そうしたら、とりあえず、二次災害を招く事態は減りました」
とわざわざ報告しにくるくらいなのだから、本人も嬉しかったのだろう。本当は失敗自体をなくせればいいのだろうが、そちらのほうはまだ難しいらしい。
近いうちにまた泣き言でも聞いてやるか……と思っていたら、その本人が柳田に叱責を受けている場面に再び遭遇してしまった。
しかも今度は室内ではなく、無人の廊下である。なんでまたこんなところで、と思いながら、紺野は咄嗟に近くの給湯室に入って身を隠した。
「あなたねえ、いい加減にしなさいよ! 何度私の手を煩わせれば気が済むわけ?!」
相変わらずキンキン響いてやかましい。内容というより、この声の大きさと勢いに押されて、怒鳴られたほうは竦むのだろう。彼女の前に立つ藍沢は、青い顔ですっかり委縮してしまっている。
「……あの」
「ホントにやる気があるの?! こんな風に勝手にやり方を変えて! あなた自分を何様だと思ってるのよ?! 私の指示もなく無断でこんなことして、どういうつもりなの!」
「あの、でも」
「ああもういや! 私だって忙しいのにどうしてあなたの尻拭いばかりしなきゃならないの! よくもそれで涼しい顔してお給料貰ってられるわね! 他の人間の足を引っ張るだけなら、そんな人いないほうがいいってわかってる?!」
「すみません……でも」
「なんの役にも立たないのなら、今すぐ会社をやめてちょうだい! そのほうがよっぽど仕事の能率が上がるから!」
「…………で、も」
藍沢は目尻に涙を浮かべながらも、なんとか言葉を出そうとしていた。両手はぎゅっと握り合わせたまま、足だって小刻みに震えていたけれど。
「ちょっと待ってください」
給湯室から出て、紺野が声をかけると、柳田の怒声はぴたりと止まった。
「この人、さっきから何かを言おうとしてるじゃないですか。ちゃんと話を聞いてあげたらどうですか」
静かにそう言うと、柳田はバツの悪そうな顔になった。彼女の攻撃対象が、新入社員や気弱な女性社員などに限られているのはよく知られた話だ。
「……なによ、言いたいことがあるなら言いなさいよ」
ふん、と腕を組んで、ぶっきらぼうに言葉を投げつける。蒼白になった藍沢は、ぶるぶると唇を震わせ、まっすぐ彼女に向き合った。
「それ、課長の指示でやりました」
「は?」
柳田がぽかんとする。
「課長の言われたとおりに直したら、そうなりました。もう、確認もしてもらって、これでいいという了承も頂いています。柳田さんがそれで納得いかないというのでしたら、課長に直接仰ってください」
「…………」
柳田はなんともいえない表情になり、「あ、あら、そう」と上擦った声を出した。ちらっと紺野のほうを見て、ぷいっと顔を背ける。
「なら、いいのよ。早く言いなさいよ、そういうことは!」
最後まで捨て台詞を忘れなかったが、そそくさと足早に立ち去っていってしまう。もちろん、謝罪もない。その後ろ姿を見ながら、紺野は大きなため息を吐き出した。やばい、もう少しで忍耐力が尽きるところだった。
藍沢のほうに視線を移す。
「大変だったね。大丈夫?」
「は……はい。助けてもらって、どうも、ありが」
そこで声に詰まった。頭を下げた拍子に、涙がぽとりと落ちる。
少しためらってから、紺野はぽんと軽く彼女の頭に触れた。
「頑張って反論したじゃないか」
「……紺野さんが助け舟を出してくれたから。わたし一人じゃ、やっぱり無理でした」
「そんなことないよ」
ついこちらの我慢が切れて出しゃばってしまったが、藍沢は頑張っていたのだ。どうしようもない、と投げ出さず、ちゃんと自分で自分を守ろうとしていた。彼女は自分のダメなところを理解していて、どれだけ努力しても実らないと嘆くけれど、その努力は決して無駄なものではないはずだ。
ありがとう、と繰り返して、藍沢は微笑んだ。
「…………。あのさ」
「はい」
「誰かの笑った顔が誰かの血の巡りを良くすることが出来るのなら、その誰かはちゃんと誰かの役に立ってる、ってことじゃない?」
「意味がわからないんですけど」
藍沢が、不思議そうに首を傾げた。
数カ月後の休日、紺野と藍沢は二人で献血ルームを訪れた。
この日のために、藍沢は一カ月毎日ほうれん草を食べ続けたのだという。今度こそ大丈夫! と張り切っているので口には出せなかったが、相変わらずよくわからない思考をする人だなと紺野は思う。
ドアの前に立てられた看板には、「愛の血液助け合い」と書かれてあった。
うん、なるほど。
──愛の献血をしてから、恋を語り合うのも悪くない、かもしれない。




