雪乙女
十五歳の時、雪山で遭難しかけたことがある。
士官学校に入る前、いやそもそも、自分が軍人になる未来さえ、ほとんど見えていなかった頃の話だ。
両親に連れられて、北部の街へ観光に訪れたのはいいが、生来の冒険好きと無鉄砲な性質が仇となり、「この先は入らないほうがいい」と地元の人間に言われていた区域へ、わざわざ足を踏み入れたのである。結果、途中で急変した天候に巻き込まれ、帰り道もわからなくなって迷ってしまった。なんとも情けない成り行きで、今思い出しても恥ずかしい。
濃い鉛色の空から、強風と共に白い雪が吹きつけていた。まったく視界はきかず、自分が今どのあたりをどう彷徨っているのかもわからない。感じるのは身を切るような冷たさだけで、もしかしたら同じところをぐるぐる廻っているだけなのではないかという不安も焦燥も、どんどんぼんやりと遠くなっていく。おそらく、この時のおれはほとんど気を失いかけていたのだろう。
ああ、おれ、ここで死ぬのかな──と、観念しようとした時。
「迷ったの?」
くっきりとした、明るい声が聞こえた。
ほとんど閉じかけていた瞼を努力して開けてみれば、おれのすぐ前には、小さな女の子が立っていた。
真っ白なフードつきの外套を着て、ぱっちりとした大きな目をまんまるにしてこちらを覗き込んでいる。とうとう幻覚が見えるようになった、とおれは泣きたくなった。
こんな雪だるまみたいな可愛い女の子が、こんな場所にいるわけない。
「あんた、ふもとの子じゃないわよね? どっから迷い込んできたの?」
雪だるまは、じゃなかった女の子は、目をくりくりさせながら、はきはきとした口調で問いを重ねた。幻覚にしてはよく喋るな、とおれはぼうっと見惚れるように彼女の動く口許を見ていた。
白い景色の中、白い衣装の女の子は、まるで雪の化身のようだった。女神──と言うには年齢が足りないような気がするし、精霊と言うには儚さに欠けている。雪女、雪娘、いやいや。
──雪乙女。
うん、可憐で、愛らしくて、その呼び名がぴったりだ。
死ぬ前に見る幻がコレなら、意外と悪くないかもしれない。
そう思いながら、おれはゆっくりと意識を手離した。薄れていく思考の中で、「じいさま、じいさま! お山に入り込んで迷ったマヌケなくたばりぞこないがいるよ!」という乱暴な言葉は、幻聴だろうと思うことにした。
実は、おれがはっきりと覚えているのはそこまでだ。
それから、どうやら自分が助けられたこと、吹雪が止んでから、連絡を受けて駆けつけてきた両親の手に戻されたことは、あとで話として聞いた。
おれを助けてくれたのは、山の麓の街の住人たちによると、「山の守り番の爺さん」、とのことだった。倒れてから高熱を出し、ほぼ寝たきりの状態だったおれを、その人物が看病して、世話もしてくれたらしい。
その守り番には、七つか八つになるくらいの孫娘がいる、という話も聞いた。
つまり、雪乙女とおれが勝手に名づけた少女は、ちゃんと実在していたわけだ。途切れ途切れの意識の合間で、白い髭をたくわえた温厚そうな老人と、ちょろちょろと行ったり来たりする小さな子供のことは、薄っすらとおれの記憶にも残っていた。
凍傷も起こしかけていたおれは、ふもとの街に戻されるとすぐに病院に入れられ、回復の目途が立った途端に中央の大きな病院に移されることになった。両親はおれを助けてくれた老人と少女に礼金を払って頭を下げたそうだが、おれ自身はその後一度も彼らと顔を合わせる機会はなかった。
……そしてそのまま、十年が過ぎた。
***
十年という歳月を経て、多少は大人としての分別を身につけたおれは、さすがに子供の頃と同じ愚は犯さなかった。
その場所へ向かう前にはちゃんと装備を万端に整えて、麓の街の住人たちにも何度も行き方を確認し、明るい昼間、今後しばらく雪は降らないだろうという見通しの立った時を選んで出発した。
……なのに、なんで。
いきなり大雪になっているんだ。いくら北部の山岳地域の天候が変わりやすいとはいっても、ついさっきまで青空が広がっていたじゃないか。生粋の中央育ちで、雪なんてほとんど馴染みのないおれは、深い積雪の中を進むのも得意じゃない。行けども行けども距離が伸びないこの歩きにくさの中で、視界まで奪われてしまっては厄介なことこの上なかった。
とにかくこの雪がやむまでどこかに避難したほうがいいなと判断したものの、周囲にちょうどよく洞窟が見つかるはずもない。上手に出来るか自信はないが、雪洞を掘ってみるか、と決心して方向転換した途端、
「迷ったの?」
と、訊ねる声がした。
驚いて顔を向けると、そこには十年前と同じように、少女の姿が──いや、あの頃に十年という年月を乗せて、成長した娘の姿があった。
フードつきの白い防寒具を着込み、昔のまま、ぱっちりとした大きな美しい瞳をこちらに向けて、彼女はそこに立っていた。
「大変ね。助けてあげるから、うちにいらっしゃい」
娘は、にっこり笑ってそう言った。形の良い唇が笑みを作るのを、おれはどこか夢心地で眺めるばかりだ。
……やっと会えた、と頭がぼうっと痺れている。
十年を経て。ようやく、あの時の──
「二食付き一泊で、銀貨一枚いただきます」
可憐な雪乙女は、守銭奴になっていた。
***
案内された山小屋は、どこかやっぱり見覚えのあるものだった。
太い丸太が組まれた小さな建物、大きなストーブで暖められた室内は、ほっこりとした熱気に包まれていた。
木枠で囲まれただけのようなベッドも、その上に掛けられたパッチワークの布も、頑丈そうな樫材のテーブルも、おれの記憶をちくちくと刺激する。朦朧としていても、それらを認識はしていたらしい。
「助けてくれてありがとう。おれはヒューイ。中央から来たんだ」
小屋に入り、すぐに礼を言うと、娘は朗らかに笑った。
「あら、中央の人なのね。だったら雪に慣れていないのも無理ないわ。迷い人を見つけるのも山の守り番の仕事だから気にしないで。わたしはリリー」
雪乙女にはちゃんとした名前があったらしい。当然か、とこっそり苦笑する。夢うつつの状態で会った少女のことを、おれはどうやら半分くらい幻想のように考えていたようだ。
分厚い防寒着を脱いだリリーは、濃い栗毛の髪を持った、健康的な若い娘だった。すらりとした均整のとれた身体つきは、中央でも男の視線を集中的に引くだろう。
「リリー。山の守り番、と言ったけど、その役目を担っているのはきみだけではないよね?」
上着を脱いだおれを椅子に座るように勧めてから、温かい飲み物を用意していたリリーは、あら、という顔で振り返った。
「よくご存じね。街の人たちに聞いた?」
「それもあるけど」
おれはそこで、十年前に二人に助けてもらった経緯を話した。リリーは飲み物を入れたカップをおれと自分の前に置くと、向かいの椅子に腰かけ黙っておれの話を聞いていたが、あの時の、という言葉は最後までその口から出なかった。
「そうなの。ごめんなさいね、わたし、あんまり覚えていないわ。そういうことはよくあったから」
「うん、いいんだ」
本音を言えば、軽く失望はしたが、それはおれの勝手な感傷に過ぎない。おれがここで世話になったのはほんの短い間だったし、その時、リリーはまだ七つか八つの幼い子供だったのだから。
「とにかく、きみたちのおかげで、おれは今もこうして生きていられる。その礼をきちんと言いたかったんだ。きみのおじいさんは──」
「じいさまは半年前に亡くなったわ」
リリーの返事はある程度予想していたが、重いものが胸に落ちるのは止められなかった。
半年前か。もっと早くに決断していれば、ちゃんと面と向かってあの老人にも礼が言えたのに。
「十年も前のことでお礼を言うために、わざわざ中央から来たの? 物好きね。遭難までしそうになって」
呆れたように言われて、面目ないと謝るしかない。あのままリリーと会わなくても、さすがに遭難まではしなかっただろうと思うが、困っていたのは確かである。
「……おれにとっては、とても重要で、大事なことだったんだよ」
と、おれは静かに言った。
「そう」
リリーはぱちりと瞬きしてから、一言だけ返して寄越した。納得したのか、する気はないのか、その表情からは推し量れない。どこか掴みどころがなくて、しかし妙に人を惹きつけるものを持っている娘だった。
「とにかく、ゆっくりしていけばいいわ。お金を払ってくれればあなたはお客さまよ。夕飯は身体が芯まで温まるようなシチューを作ってあげる」
「あ、いや、とんでもない」
おれは慌てて手を振った。ここへは、遊びに来たわけでもなければ、ディナーをご馳走になりに来たわけでもないのだ。
「雪がやんだら、暗くならないうちにすぐ帰るよ。もちろん、銀貨は払う。おれはただ、あの時の礼を言いに来ただけだから」
「でも、この雪、当分の間やまないわよ。吹雪になるし」
「え」
さらっとリリーに言われ、おれはぎょっとして窓に目をやった。吹きつける雪と風はさっきより強くなり、分厚いガラス窓を通しても外の景色なんてまったく見えない。
「参ったな……」
弱り切って頭を掻く。こんなつもりではなかったのに。いや、北部の天気がこんなにも気まぐれだということに思い至らなかったおれが浅はかだったのかもしれないが。
「明日には晴れるわ。今夜は泊まっていきなさい。中央のよりは寝心地が良くないでしょうけど、ベッドもあるから」
「そういうわけには……」
十年前ならいざ知らず、現在のおれは二十代の男である。彼女の祖父という存在がなくなってしまった今、十七、八という年齢のリリーと一つ屋根の下で夜を過ごすわけにはいかない。
「平気よ。わたし、こう見えて猟は得意なんだから。変な真似をしようとしたら、遠慮なくライフルの餌食にしてあげる」
リリーはそう言って笑った。
***
結局、その晩はリリーの作った絶品のシチューをご馳走になり、夜はベッドを借りた。
おれはほとんど眠れなかったが、リリーは爆睡したらしい。こんな人里離れた山小屋で暮らしているから、相当世間からズレているんじゃないだろうか。ここまで無防備で、もしも不埒な目的で男が近づいてきたらどうするんだ、と気が気じゃない。
翌朝になって、麓の街で暮らす気はないの? と訊いてみたら、リリーの答えは「ここが気に入っている」というものだった。
「でも、おじいさんが亡くなって、一人で寂しいだろう?」
その問いには、しばらくの間が空いた。
「寂しい、と思うことはあるわ。でも、それは、『じいさまがいなくて寂しい』ということだもの。だったら、ここにいようが、街にいようが、同じではないの? どこに行っても、じいさまにはもう会えないんだから。それなら、住み慣れたこの家で、風の音や雪の音を聞きながら過ごしていたほうがいいわ」
「…………」
まっすぐ返ってきた言葉に、おれは何も言えなかった。
リリーにとっては、「じいさま」だけが唯一の大事な存在で、それ以外の人間は彼女の心に何も与えず、気持ちを動かすこともないんだな、と気づいたからだ。彼女の世界は、この静かな山と死んだ祖父との思い出だけで成り立っている。
──それが、どれだけ「寂しい」ことかという事実に、自身でさえ気づかずに。
「ヒューイは中央で何をしているの?」
リリーに聞かれ、おれは正直に、「軍人だよ」と答えた。
「軍人さん?」
「今のところ中央勤務ばかりで、北部にはあまり縁がないけどね」
北部の勤務は、寒さ対策が大変だ、という以外は、わりと平和だと聞いている。リリーはよくわからないのか、大きな目をただくりくりとさせた。
「階級は?」
「中尉」
「中尉さん。まだ若いのに、偉いのね。でも、ヒューイはちっとも偉ぶっていないのね」
子供のような感想に、つい噴き出してしまう。リリーは外見はともかく、中身はまだ幼いところがあるようだ。
「街で時々見かけることがある軍人さんは、いつもふんぞり返って威張ってるの。わたし、軍人さんってあんまり好きではないわ」
「真っ当な意見だね」
軍人が好きだなんて言う娘は、それはそれで問題がある。命令ひとつでその理由も是非も問わず、人の命を奪ってしまうような種類の人間は、遠ざけておくに越したことはない。
「……おれも、あまり好きではないよ」
ぼそりと言葉を落とすと、リリーがまじまじと見つめてきた。余計なことを言ったな、と後悔し、立ち上がる。
「美味しい朝食をありがとう。雪もやんだし、おれはそろそろ」
ここを出るよ、と最後まで言わないうちに、リリーも立ち上がった。
「帰るのね? だったら、途中まで送ってあげる」
「いや、大丈夫だよ。わざわざそんなことをしてもらわなくても」
「いいの、どちらにしろ、猟に行こうと思っていたの。ウサギでも見つかればいいのだけど」
そう言いながら、さっさと出かける準備をして、立てかけてあったライフル銃を手に取るリリーを、おれは無言で見つめた。
「猟?」
「ええ」
「きみが?」
「そうよ」
「その銃で?」
「昨日、得意だと言ったじゃない」
「…………」
冗談だと思っていた。
ライフルを持って点検するリリーの手つきは堂に入っている。確かに、扱い慣れているのだろうし、得意でもあるかもしれない。しかし……
彼女の細い身体に、無骨で大きなライフルは、まったく釣り合いが取れていなかった。それに山の中にいるのは、ウサギなどの危険のない小動物だけじゃあるまい。
「貸して」
「え?」
手を差し出したおれに、リリーがきょとんとする。
「おれがやる。これでも士官学校では、銃の成績はトップクラスだったんだ」
リリーの先導で山の中を歩き回り、おれが鹿を仕留めた時には、すでに夕方近くになっていた。これを小屋に運んでいくのはリリー一人では無理だし、一緒に戻ればもうすっかり日が暮れている。なし崩しに、もう一晩泊まっていくことになった。おれは一体、何をしてるんだろう。
──倒れた鹿を前にして、リリーは両手を組み合わせ、敬虔な表情で祈りを捧げていた。
彼女は自分の手で銃の引き金を引く時にも、良心の呵責などは覚えない、と言った。むしろそんな風に考えるのは、山に対して失礼だ、とも言った。
他者の命を途中で終わらせるのだから、いつも真摯に取り組まねばならない。ひとつの生命を自分の中に取り込むのは、愛情を持っていなければ出来ない。そして決して、感謝の念を抱くことを忘れてはならない、と。
「じいさまが、いつもそう言ってたよ」
目を閉じ、ひたむきに祈るその凛とした横顔から、おれはずっと目を離せなかった。
この場所では、一つ一つの命が尊いのだ。
その晩、鹿肉のステーキをたっぷり胃の中に収めて、おれとリリーはいろんな話をした。
リリーは、山のこと、じいさまのこと、街に住んでいる人々のことを。おれは、中央のこと、もうこの世にはいない両親のこと、仕事のことを。
そして、最近になって亡くした友達のことを。
「……リリーも知ってるかな。南部では今、戦争が起きていてね」
長く続いた隣国との小競り合いが、徐々に激しくなってきたのはこの一年ほどのことだ。
中央の都市自体はそんなことなど知らぬげにのほほんとしているが、南部では連日のように兵士が傷つき、死んでいる。南部の軍だけでは収拾がつかず、とうとう中央の軍からも次々に応援を派遣することになり、その中におれの友人も入っていた。
「士官学校からの友人でね。調子が良くて、陽気な男だったよ。上の判断で行かされた場所で、呆気なく流れ弾に当たった」
中央の兵は本来、後方支援が主だと聞かされていた。あとで、上が判断を誤ったり、ミスが重なったりしたことが判明したが、そんなことが明らかになったって、失われたものは戻らない。
友人の死は、「不運だった」の一言で済まされた。
「その時、人の生というものはなんて脆いのかと、ようやく気づいてね。軍人の立場で、そんなことを言うのは恥ずかしいんだけど。……だからなるべく、思い残すことのないように、ずっと気にかかっていたことを片付けることにしたんだ」
「それで、ここに来たの?」
「うん」
「じいさまとわたしに、あの時はありがとうと言うために?」
「そうだよ」
「…………」
リリーは今度は、「物好きだ」とは言わなかった。
「きみたちがいなければ、おれは軍人になることもなかったし、この十年を楽しく過ごすこともなかった。とても、感謝してる」
向かいに座るリリーは、なんだか難しい顔をしている。唐突にこんな話をして、戸惑わせてしまっただろうか。
「変な話だけど、あの頃のおれにとって、きみは──なんていうか、特別な存在だったんだよ。中央に帰って病院のベッドに寝てる時も、よくきみのことを思い出してた。まるで雪そのもののように綺麗で、生命力に溢れていて」
そこまで言って、これじゃまるで口説いているみたいだなと気がついた。慌てて、軽い口調になって続ける。
「この十年の間に、ずいぶんと図太くなってしまったようだけど」
「失礼ね!」
リリーがぷうっと頬を膨らませたので、おれは笑った。楽しくて笑うなんて、ひどく久しぶりだった。
「中尉さん」
「ヒューイでいいよ」
「ヒューイ、お仕事はお休みを取ったんでしょう? 何日取ったの?」
「十日だね」
なんとか無理をして、ようやく取れたのがその日数だ。これを過ぎても軍に顔を出さなければ、たちまちおれは脱走兵扱いになる。
「そう」
リリーはにこっと笑った。
「じゃあ、あと数日は、ここにいられるわね?」
どういうつもりでリリーがそんなことを言いだしたのか定かではないが、なんだかんだと言いくるめられて、おれはそれからもリリーと小屋で過ごすことになった。
麓の街に下りて買い物をしたり、猟に出たり、一緒に料理をしたり。甘い雰囲気がないだけで、やっていることはまるで新婚夫婦のようだ。リリーはおれを相棒のように扱い、時には雪山の厳しさを教え、時には中央の話をせがみ、時にはあまりの無防備さをおれに叱られむっとしたりしていた。
窓の外には、輝く白い雪原がどこまでも続いている。天気がよければ見たこともないほどの澄んだ蒼穹が広がり、悪くなれば灰色に染められる。時には吹雪になって、ガラスを通してさえ何も見えなくなった。
小屋の中はおれとリリーだけの世界だった。小さく、狭く、けれど暖かい世界だ。赤々と燃えるストーブの炎を見ながら、二人で何時間もお喋りをしたり、何時間も黙って本を読んだりしていた。無言の時が続いても、息苦しいとはまったく思わなかった。ただひたすら、穏やかで、優しく、静かに凪いでいた。
数日。ほんの数日だ。中央にいたらあっという間に過ぎてしまうその日数は、リリーとの山小屋では非常にゆったりと流れているように感じられた。
おれは一応節度を守っていたつもりだが、それでもこの時間は、今まで過ごしたどんな時間よりも、貴重なものに思えた。
「明日には、ここを出るよ」
おれが告げると、リリーは静かに、そう、と言った。
椅子から立ち上がってテーブルを廻り、すぐ近くで膝をついて、そっと両手でおれの手を包むように持ち上げた。
透き通るような瞳が、じっとまっすぐおれに向けられる。間抜けなことに、その時になってやっと、ああ、気づかれていたんだな、と判った。
「……少し前、おれにも南部への派遣命令が下された」
おれの言葉に、リリーは黙って、ゆっくりと頷いた。
「いつ?」
「中央に戻ったらすぐに準備を始める。軍の見込みでは、あの戦争はまだしばらく終わりそうにないんだ。いずれ前線に出ることになるだろうね」
「そう……」
おれの手を包むリリーの手の力が強くなった。しなやかで、温かい。
「軍人さんが好きではないなんて言って、ごめんなさい。あなたたちは、わたしたちの生活を守るために戦ってくれているのに」
「いいんだ。本当のことを言うと、おれもよくわからなくなってた」
この十年の間に、両親を失い、友人を失い、軍の暗部や醜いところをさんざん見せつけられてきた。権力争い、賄賂、自分のことしか考えない上層部。おれは判らなくなった。何のために軍人になったのか、何を守ろうとしていたのか。
思考は混沌に沈み、空虚さばかりが胸の中に居座ったまま動かない。こんな状態で戦場に向かってもすぐに死ぬか、仲間の足を引っ張るだけだろう。おれは迷っていた。
だから来たのだ、ここに。
迷いを断ち切るために。あるいは、いろんなものを諦めるために。
「ここに来てよかった。きみに会えて、よかったよ」
リリーの目を見て、微笑んだ。
守りたいと思う存在が出来て、ようやくおれは前へと足を踏み出せる。
「わたしを戦う理由にしてはいや。でも、わたしを生きる理由にするのは、許してあげる。必ず生きて戻って、またここに来てね」
「……うん」
リリーの強い眼差しに引っ張られるように、顔を近づけた。直前で思いとどまり、額にちょんと唇を落とす。
「意外と意気地なしね、中尉さん」
リリーが少しだけむくれた。
こんな可愛い顔を、他の男に見せやしないか、不安でいっぱいだ。おれは気がかりを片付けるためにここに来たはずなのに、余計に増やしてしまったようである。
もう一度、ここに来るまでは死ねない。
***
「中尉殿、手紙が来てますよ」
部下に渡された手紙を、おれは「うん、そうか」と受け取った。何食わぬ顔をしたつもりだったのだが、どうも失敗していたようで、ニヤニヤと笑われる。
「例の乙女からですか」
「うん。けど、その呼び方はやめろって」
一度だけついうっかり口を滑らせたのが元で、いつの間にか仲間の間では有名になってしまったらしい。何かというと、乙女乙女とからかわれ、居たたまれない。
部下が笑いながら去っていくのを見届けてから、封を開ける。手紙の中身は、いつものように他愛のないものだ。あの真っ白な雪山も、夏になった今は、一面の緑に覆われているという。ほんのちょっとしか見られないのだから、早く帰ってらっしゃい、と怒られた。
夏の間、はさすがに無理かもしれないが、もしかすると前のように雪が深くならないうちには行けるかもしれない。戦況は次第に収束を迎えつつある。何度か危ない局面もあったが、こうして無事なままでいられるのは、雪乙女の加護があってこそだ。
中央に戻ったら、北部への転属願いを出そう、とおれは心に決めている。
『そういえばヒューイ、わたし、最近になって大変なことに気づいたのよ』
手紙の終わりあたりの文面に、ん? と首を傾げた。
大変なことってなんだろう。彼女はしっかりしているようで抜けているところもあるので、ちょっとヒヤッとする。
『わたしったら、あなたから銀貨を受け取るのをすっかり忘れてたわ!』
おれは思いきり噴き出した。
そうか、大変だ。おれもすっかり忘れてたよ。
「やり残したこと」がまた増えてしまったな。戻ったら、何を置いても駆けつけないと。
雪が深くたって、吹雪になったって、道に迷ったって。
つらくても、苦しくても、傷ついても、それでも逃げずに、生き延びて、踏ん張って、大事なものを守り続けていくんだ。
あるいはそれは、とても大変なことなのかもしれないけれど。
でもそれこそを、「生きる喜び」と呼ぶのかもしれないな──とおれは思うんだ、リリー。




