秋の訪れ
ある朝、机の上に、一枚の葉っぱが乗っていた。
登校して、教室に入り、自分の机に鞄を置こうとして、すずなはそれに気がついた。
ん? と首を傾げ、その葉っぱを指でつまんでから、改めて鞄を置く。
椅子に腰かけて、自分の視線と同じ高さに持っていき、まじまじと眺めてみた。
カエデの葉っぱである。一般に、モミジとも呼ばれる。「紅葉」という言葉で、日本人がまず真っ先に思い浮かべ、秋の写真のモチーフとして最も好まれるのも、このカエデだ。
十月中旬に入った、というこの時期、その葉っぱはもう緑ではなく、黄色に変化していた。これからだんだんと色づいて、いずれ鮮やかな赤色になるのだろう。
いや、まあ、そんなことはともかく。
──なんで、こんなものが、ここに?
すずなの在籍する二年C組は、校舎の三階にある。その校舎は、教室の窓から下を見下ろせばグラウンド、廊下側の窓から外を見れば中庭を挟んで別校舎、という位置に建っている。中庭には花壇があるが、そこに植えられているのは、パンジーとか金魚草とかの、小さな花ばかりだ。
そもそも、この高校には、カエデの木自体がない。あるのはせいぜい、桜くらい。あとは植え込みが整然と並んでいるくらい。
大体、カエデの木があったとしても、三階にあるこの教室まで葉が飛んでくるとは思えない。いくら強風が吹いたって、難しいだろう。それに、すずなの席が窓際だといっても、そもそも風が少し冷たくなってきたこの季節、窓はぴっちりと閉めきられている。
「どうやって来たんだろ……」
葉っぱのすぐ下の短い茎部分を指で挟み、くりくりと廻しながら、ぼそりと呟く。不思議は不思議だが、気持ち悪い、とか、不気味、とかの方面には思考は向かなかった。ものが怪しげな手紙などではなく、小さな葉っぱ一枚、ということも大きかっただろう。
見ているうちに、口許が綻んだ。
「かわいい」
手の平の上にすっぽり収まってしまうくらいのカエデの葉っぱは、赤ちゃんの手を連想させた。自然の黄色は、落ち着いた色合いで、とても優しい感じがする。知らず、心がほっこりとしてくるような温かさがあった。
どこから来たかは判らないにしろ、この葉っぱを怖がったり気味悪がったりする理由はどこにもないような気がした。判ってしまえば、きっと他愛ない理由に違いないのだろうけれど、そんなことも知らなくていいような気がする。
すずなは机の上に置いたままの鞄を開けて、いそいそと未使用のノートを取り出した。
見た目が可愛らしくてついつい買ってしまったそのノートは、特に使い道が見つからず、ずっと鞄の中に入れっぱなしになっていたものだ。どうしようかなと迷っていたのだが、ちょうどいい。
ノートの一ページ目を開き、すずなはその真ん中に、カエデの黄色い葉っぱを貼った。
向きや見栄えを吟味して、丁寧に貼り付ける。貼ってから改めてノートを両手に持ち、うふふと満足の笑みを漏らした。非常によろしい。
しばらく出来栄えを堪能してから、パタンとノートを閉じて、また鞄の中にしまった。
今日の時間割を思い出し、宿題はやってあったかなと確認し、ペンケースを取り出し、鞄を後ろのロッカーに入れ、声をかけてきた友達に挨拶をして、お喋りをはじめる。
なんてことのない、一日のはじまりだ。
すずなにとって、そのカエデの葉っぱは、とある朝のほんの些細な出来事──に、なるはずだった。
「……それが、この十日、毎日ずっと続いていると」
友人が、引き攣った顔でそう言った。
昼休み、机を囲んで一緒にお弁当を食べていた他の友人二人も、ドン引きしたような表情で、箸を止めている。すずなは口に運んだ卵焼きをもぐもぐと食べながら、「うん」と返事をした。
「うん、じゃないでしょーが。あんたそんなこと、今までなんで黙ってたの?!」
友人が手の平でばんと机を叩き、語気を荒くする。どうして彼女が怒っているのか今ひとつよく判らないすずなは、卵焼きをごくんと飲み込んでから、首を傾げた。
「黙ってたっていうか……別に言うほどのことでもないかなと思って」
昼食時に交わされる会話といえば、アイドルの話であったり、昨日のドラマの内容であったり、塾で知り合い最近ラインをやり取りするようになってもしかしたらこのまま付き合うようになっちゃったりするかもどうしよう?! な男の子のことであったりするのが大半だ。
性格的に少しのんびりしているすずなは、それらの話をへえーと言いながら聞いている立場をとることが多く、自分から話題を提供することはあまりない。提供するにしても、どこからともなくやって来るカエデの葉っぱ、などという話が、友人たちの興味を引くとも思えなかった。
「何が言うほどのことでもない、よ! 朝、教室に来たら、必ず机の上に葉っぱが一枚ひらりと乗っかってるって、かなり異常なことだってわかってんの?! そんな風にニコニコしながら言うようなことか!」
えー、と今度はウィンナーを箸で摘みながら、すずなは首を捻った。
「でも、葉っぱだよ?」
「本来ここにあるはずのない葉っぱ、でしょーが」
「不思議だよね」
「不思議の一言で済ませるんじゃない! 普通は、なにこれキモい、とか思うもんなの!」
「でも、葉っぱが一枚あるだけなんだってば。他には何もないんだよ」
「だから余計に怖いんでしょ! 毎日毎日なんて、誰かがなんらかの意図をもって置いてるとしか思えないじゃん!」
「うん、わたしが思うにねえ」
すずなはそう言って、にへりと目許を崩した。
「──小人の仕事なんじゃないか、と思うんだよね」
「はあ?」
友人三人が、同じ顔になって、同じ言葉を発した。
「そういうお話、よくあるじゃない? 眠ってる間に靴を作ってくれたり、カエルみたいな格好して人間の観察をしてたり、こっそり日用品や食べ物を借りていったりするの。わたしそういうの、昔から大好きだったんだー。きっとそんな小人が、毎朝わたしの机にせっせとカエデを運んでくれてるんじゃないかと」
目線を遠くに飛ばして、うっとりした顔をしたすずなに、友人たちは揃って沈黙した。
「……あんたそれ、ひょっとして、マジで言ってんの?」
「だったらいいなあ、と思って」
真剣な眼差しで覗き込んできた友人にそう返すと、深い安堵のため息をつかれた。どうやら本気で不安にさせてしまったらしい。
「誰が何のためにやってるのかはわからないけど」
ごそごそと机の中を探って、すずなは一冊のノートを出す。友人たちに見えるように置き、ページをぺらぺらと捲った。
「別に、悪意とかはないんだと思う。だって、こんなに綺麗だし」
「あんた、わざわざファイリングしてるわけ?!」
友人が驚愕の叫び声を上げた。一ページにつき一枚の葉っぱが貼られたそのノートは、今日までで十ページ分が使用されている。
「うん、せっかくだから」
ページにはちゃんと日付も書かれてあって、一ページ進むごとに、カエデの葉っぱが少しずつ色づいていることがはっきりと判る。今朝のものは、先端が薄っすらと赤くなりだしていた。もう少ししたら、美しいグラデーションになるんじゃないかと、最近は学校に来て自分の机の上を見るのが楽しみでしょうがない。
「バ……」
友人たちはまた同じ顔で同じ言葉を言いかけたが、友情のためか、その先を続けるのは遠慮してくれた。その代わり、すずなを無視して頭を突き合わせ、勝手にぼそぼそと検討会をはじめてしまう。
「……どう思う?」
「告白のつもりなら、やり方が古風すぎるでしょ」
「嫌がらせにしちゃ、意味不明」
「本人はどう見ても喜んでるしねえ」
彼女たちの声を聞き流しながら、すずなは頬杖を突いて目の前のノートを眺め、やんわりと微笑んだ。
いつもいつも、机の上に置かれてあるのは、ほんのちょっとの破れも穴もない、形も非常に整った、綺麗な綺麗な葉っぱなのだ。誰がしているにしろ、その人は、毎朝苦労して、美しい色と形の葉っぱを厳選しているだろうことが窺える。
そこに、悪意なんてあるわけがない。
すずなはそれを見て喜び、一枚ずつノートに貼り付けて、カエデが真っ赤に色づく日を、今か今かと心待ちにしている。
こんなにも秋の訪れを実感し、楽しみにしたことはない。こんなことでもなければ、テレビで紅葉情報を見て、ふうんと思うくらいだった。
だから、「善意の小人さん」。
……それでいいじゃないかと、すずなは思うのである。
***
──最初のきっかけは、本当にちっぽけなことだったのだ。
恭一の家の庭には、カエデの木がある。
父親がこの家を建てた時に、シンボルツリーにするつもりで植えたものだそうだ。現在、二メートルくらいの高さにまで育っているが、枝も細いし、どう見ても「大木」という感じではない。それでも着々と育っているようで、夏になれば緑の葉を広げ、秋になればきちんと紅葉して、両親を楽しませていた。
恭一は特に、それについて何かを思った覚えはない。もともと、ガーデニングやら、植物やらには、まったく興味のないほうだ。母親がせっせとプランターで育てている花の名前も、判るのはチューリップくらい、という程度だったから、庭に植えてある木がカエデだろうがモミジだろうが、色が黄色になろうが赤になろうが、気にしたことはなかった。
それが、ある日のこと。
朝、部活の朝練に遅れそうになって、慌てて玄関を飛び出した恭一は、勢いがつきすぎて、庭に植えてあったカエデにぶつかった。ぶつかったというか、伸ばしている枝が進路を妨害していたため、ちょっとばかり乱暴にそれを手で薙ぎ払ったのだ。
バサッという音を立てて、枝が大きく揺れてたわみ、肩から担いでいたエナメルバッグが引っかかって、葉っぱが何枚かちぎれるような音がした。後ろから母親が、こらっ、と怒る声が聞こえたが、時間的に切羽詰まっていたため、止まりもせずに駅まで走った──のは、間違いない。
その時、恭一はどうやら、ちぎってしまったカエデの葉っぱを、制服かカバンのどこかにくっつけていたらしい。部活を終えて教室に行き、席に向かうため足を動かしている途中で、ひらりと自分からそれが落ちたのを視界の端に入れて、やっとそのことに気がついた。
一瞬だけふわっと舞ったカエデの黄色い葉っぱは、すぐ近くにあった誰かの机の上に着地した。
その光景を見て思ったのは、あー、家から持ってきちゃったのか、という、それだけだった。思った二秒後くらいには、もうその葉っぱのことは意識から飛んで、腹減ったなあ、という方向に向いていた。一枚の葉っぱの存在は、恭一にとって、それくらい取るに足りない、ちっぽけなものだった。
再びそれのことを思い出したのは、窓際の席に座るクラスメートの女の子が、不思議そうな顔で、手に持ったカエデの葉っぱを眺めているのを見た時だ。
あ、忘れてた。
と思ったが、まあ、葉っぱを放置していたくらいで怒られる筋合いもないだろうと、そのまま黙っていることにした。わざわざ近寄っていって、それ俺が落としたんだと申告するのもアホらしい。そのまま窓の外にぽいっと放り捨てるか、机から払い落とせば済む話なのだから。
──が。
彼女は、その二つのうち、どちらの方法も選択しなかった。なんだかやけに熱心に見つめているかと思えば、おもむろに自分の鞄からノートを取り出して、最初のページを開き、そこにカエデの葉っぱを乗せた。
え。
意味が判らなくて、恭一は少し動揺した。つい、斜め前方のその席を注視してしまう。何をするつもりなんだ?
ざわついた始業前の教室内で、自分に注目している人間がいるなんてまったく気づいていない様子の彼女は、えらく難しい顔つきをして、白いページの上でカエデの葉っぱを縦にしたり横にしたりしている。
ただの葉っぱだ。外を歩けば、いくらでも見られるものだ。恭一なんて、マトモに目に入れたこともない。それについて何かを感じたこともない。その葉っぱを、彼女はひたすらああでもないこうでもないと配置に悩み、やっと納得いったのか、細心の注意を払って、そうっと貼り付けた。
「…………」
わけがわかんない。
正直、そう思った。高校生にもなって、こんな少女趣味なことをするやつがいるんだ、と呆れた気持ちにもなった。普段の自分なら、鼻で笑って馬鹿にして、それきり思い出すこともなかったかもしれない。
──でも、この時は、なぜか。
彼女の、ひたむきで真面目な表情、まっすぐな目、繊細な動きをする細い指から、目を離せなかった。
誰のためでもない、誰に褒められるわけでもないその作業を、やけに一生懸命にこなしている姿に、妙に惹きつけられた。
彼女の目には、その葉っぱがどう映っているんだろう。もしかしたらそれは、自分が見るものと、まったく違っているんじゃないか。そう思ったら、胸のどこかが疼く感じがした。
彼女が、黄色の葉っぱを貼り付けたノートを両手に持って、じっと検分する。
しっかりと結ばれていた口許が、嬉しそうにふわりと綻んだ。
恭一の心臓が跳ねた。
……で、その翌日から。
朝練の前にこっそりと教室に立ち寄って、彼女の机の上にカエデの葉を置くのが、恭一の日課になった。
あらゆる意味で、ドキドキだ。こんなところを誰かに見られたら、何をどう言い訳すればいいのか、ちっとも思い浮かばない。我ながら、けっこう気持ち悪いことやってるな、という自覚もある。大体どうしてこんなことをしているのか、恭一自身にもよく判らない。
彼女が机の上の葉っぱをそのままゴミ箱に投げ入れるようだったらすぐやめよう、少しでも怯える様子を見せたら何か適当な理由を作って謝ろう、と思っていたのに、彼女は机の上の葉っぱを見つけるたびに笑顔になって、張り切ってノートに貼り付けていた。ご丁寧に日付まで書いて、さながら小学生の観察日記の様相を呈している。こうなると、かえってやめられない。自分ではじめたこととはいえ、恭一は相当困惑した。
彼女はこれをどう思ってるんだろう。誰がこんなことをしているのか気にならないのか。不気味に思ったりしないのか。あるいはまったく逆の方向に妄想をこじらせたりはしないのか。そんなことが気になって、それとなく友人たちとのお喋りに耳を傾けてみたこともある。
そうしたら、
「小人の仕事なんじゃないか」
である。
恭一は思いきり、脱力しそうになった。
どこまで本気で言ってるんだろうと訝しむ。怖がられても困るが、少女マンガ的なことを夢見られても困る、と勝手なことを心配していたが、まったく想定外の答すぎて、どう捉えていいのか判断に迷った。
でもとりあえず、彼女がただ喜んでいることだけは本当であるらしい。
それを知って、ほっと胸を撫で下ろした。
……一枚一枚、彼女がノートに貼るカエデが、次第に色づいていく。
これが赤く染まったら、もうそこでおしまいにしよう、と恭一は思っていた。ほんの一カ月くらいのこと、それだけの間の小さなやり取りだ。ある日を境に葉っぱが置かれなくなれば、小人の仕事が終了したんだなと、彼女も納得してくれるだろう。
毎朝、丁寧に葉っぱを扱う指と、じっと視線を下に落とす彼女の横顔を、さりげなく見つめる。もうすぐ、この姿も見納めだ。そう思うと、余計にこの時間が貴重なものであるように感じた。
あそこまで喜んでくれるのだから、恭一も葉っぱ選びには真剣にならざるを得ない。帰宅してから、一時間も二時間も外に立ってカエデの木と向かい合う息子に、両親は心配そうだった。紅葉するまでのことだから、大目に見て欲しい。
二十日も過ぎると、カエデの葉っぱはかなり大部分が赤く染まりだしてきた。これが全面的にくっきりと色づけば、この、ささやかな交流も終わる。
──別に、大したことないさ。
また元に戻るだけ。朝練の前に教室に立ち寄る必要がなくなり、カエデの木にも関わらないでよくなる。彼女との小さな小さな繋がりなんて、そもそも恭一が一方的に作り出していたものだったのだから、あっさり切れてしまえばそれっきりだ。
頭はそう思うのに、心はなんだか寒々しかった。
大事な何かを別の場所に置きっぱなしにしているような、そんな気がしてならなかった。
自分が本当にしたいのは、こんなことじゃなくて、何か、何かもっと、別の──
……ところが非常に間の悪いことに。
カエデの葉っぱが完全に赤くなった、という頃、恭一は風邪を引いてしまった。
ひょっとして、部活を終えて汗ばんだ身体で、長い時間庭にいたのが悪かったのかもしれない。喉が痛い、と思いはじめて寝たら、翌朝には、頭も関節も痛くなり、咳がゲホンゲホンと止まらなくなっていた。
おまけに、熱が三十八度を超えている。
「学校休んで病院に行きなさい」
と母親に言われ、んー、とぐったりしながらベッドに横たわる。休みか……と考えたところで、重要なことに気がついた。
ばっと勢いよく起き上がる。
いやダメじゃん。それまずいじゃん。今日俺が休んで、机の上にも葉っぱが置いてなかったら、犯人が誰かってことがバレバレになっちゃうじゃん。
用意してあったカエデの葉っぱを生徒手帳に挟み、半分朦朧としながら家を飛び出した。もう何がしたいのか、自分でもよく判らない。登校した彼女が机の上を見た時に、何も乗っていないのを見て、どんなにがっかりするだろうと思うと、ただ、居ても立ってもいられなかった。
家を出たのがいつもよりもずっと遅い時間だったので、朝練はもうとっくに終わっている。もとより、今の自分にはそんな体力もない。ちょっとふらつきながら、ようやく教室に辿り着いたら──
「あ、おはよー」
ちょうど中に入ろうとしていた彼女と、ばったり会った。
恭一も、ばったり倒れそうになった。
一緒になったらダメじゃんーー!
***
教室のドアの手前で偶然会ったクラスメートの男子は、すずなの挨拶にも返事をせず、どこか呆然とした様子でその場に突っ立っていた。
そんなに愛想のないタイプでもないので、どうしたのかな? と背の高い彼の顔を下から覗き込んでみれば、そこはやけに赤くなっていた。しかも、前髪が汗で額に張り付いている。今朝はもう寒いくらいなんだけど……そんなに部活の朝練がハードだったのかな。
とりあえず、二人してその場に立っていても埒が明かないので、「あの、どうぞ」と手で促してみた。彼はドアの開け放たれたところを塞ぐようにして立ち尽くしているので、先に入ってもらわなければ、すずなも中に入れない。
「……っ、あの、さ」
彼はしばらく棒立ちになったままだったが、やがて何かを決意したかのように、すずなのほうをまっすぐ向いて、言葉を出した。
「うん?」
首を傾げて見返す。少し目を瞬いたのは、その勢い込んだような口調に驚いたためでも、ますます赤くなった顔が訝しかったためでもなく、彼の口から出た声が聞き取りにくいくらいに掠れていたからだ。
今になって声変わりというわけでもないだろうし──と思っていたら、彼は何かを言いかけて、そのままゴホゴホと咳き込んだ。横を向いて、手を口に当てているが、喉に痰が絡んだような、苦しげな咳の仕方だった。
「風邪引いたの? 顔も赤いけど、もしかして、熱があるんじゃない?」
心配になって問いかけたすずなに、ようやく咳を収めた彼が、眉を下げてこちらを向く。ちょっと目が潤んだようにぼうっとしていて、ああやっぱり熱があるんだなと確信した。
「……少し、体調が悪くて」
かすかすになった声が返ってくる。
「具合悪そうだよ。今日は早退したほうがいいんじゃない?」
「うん……」
彼の目がわずかに伏せられた。どこか頼りなさげな様子に、なんとなくドキドキしてしまう。男の子が弱った姿にぐらっとくる、というのは確かに真実であるらしい。
「──あのさ」
もう一度言って、ちらりと顔が上がる。今度は逸れていかずに、きちんと目が合った。
「ん? 先生には伝えておくよ?」
「いや……これ」
そう言って手渡されたのは、制服の胸ポケットに入っていた、彼の生徒手帳だった。
「あ、これに、早退しますって書いてあるとか? このまま先生に渡せばいい?」
「そうじゃなくて……」
彼の声が小さくなっていく。俯きがちだし、掠れているので、ますます聞き取りにくい。なんて? と顔を寄せたら、
「もう秋だねってこと! 中、見ていいから!」
いきなり大きな声になってそれだけ言うと、くるっと背を向け、だーっと一直線に廊下を走って行ってしまった。
「……もう、秋だね……?」
すずなは意味が判らず、ぽかんとしながらその後ろ姿を見送るしかない。それは何? うわ言? そこまで高熱なのに学校に来たの?
「中って……」
生徒手帳の中、ということだろうと思うが、なぜ自分が見る必要があるのか判らない。先生に渡さなくてもいいのだろうか。
怪訝に思いながら、ぱらっと生徒手帳のページを繰ってみる。
──と。
ひらりと、その中から何かが落ちた。
それを見て、すずなは目を見開いた。
赤いカエデの葉っぱだ。
「…………」
廊下の床に着地したそれを拾って、しげしげと眺める。
破れてもいない、穴も開いていない、綺麗な形のカエデの葉。全面が真っ赤に染まったそれを見て、ようやくすべてが腑に落ちた。
「……小人さんかあ」
呟いて、ぷっと噴き出す。
すずなは、カエデの葉っぱと生徒手帳を、大事にそっと両手で包んだ。
それから、教室に入るために足を動かして、考える。
風邪が治って学校に出てきた彼に、なんて言おうかな。
もう、秋だね。
よかったら、紅葉を一緒に見に行かない?




