また逢う日まで
考えてみたら、プラネタリウム以外で、天の川って見たことがない。
子供の頃は毎年七夕が来るたび空を見上げていたものだけど、その日は梅雨時にかかっているためか、大体いつも曇りか雨で、天の川どころか星ひとつ出ていないことがほとんどだった。
まあ、晴れていたとしても、あまり綺麗ではなく人工灯も多い都市部の空では、天の川なんて見えなかったかもしれない。成長するにつれ、次第に頭上に目をやることも少なくなり、七夕という日の存在すらも忘れていくようになった。基本的に、短冊にお願い事を書いて吊るすというだけのイベントは、どうにも地味で、楽しむ要素があまりない。
しかし二十五という年齢になった現在、私はこうして歩道橋の上で欄干に身をもたれさせて、一人夜空を見上げている。
どうして歩道橋かといえば、他に高いところというのが思いつかなかったためである。昨今、ビルの屋上なんて場所はそうそう開放されていないし、高層マンションは大抵第三者には入れない仕組みになっている。私が住んでいるアパートは二階建てだ。
なんていうかこう、広々とした空を出来るだけ近くでぱーっと見られるところはないんかい、と考えて、至った結論が、勤め先とアパートの途中にあるこの歩道橋だった、というだけのこと。我ながら、自分の世界の狭さと思考の小ささにうんざりする。
そしておまけに、今夜はやっぱり曇りなのだった。せっかくの七夕なのに、空はどんよりとした黒雲に覆われ、月の光だって見えない。私の傍らを歩いていく通行人たちも、頭上には一顧だにせず、せかせかと足を動かしまっすぐ帰路を辿るばかりだ。
でも、この雲の上ではちゃんと星が輝いているのだろうから、彦星と織姫も、今頃つつがなく会えているのかもしれない。地上からは見えなくとも。
けっ、と私は口元を吊り上げた。
一年に一度の逢瀬なんだから、きっとよろしくやっていることだろう。会わない分だけ愛しさが募る、ってヤツですか? ええ結構結構、せいぜいあんたたちはイチャコラと楽しくしていればいいさ。
下界で一人寂しく、フラれ女が歩道橋の上に立ち尽くしているなんて、どうでもいいことでしょうとも。
「…………」
自虐をしてみたら、余計にムカムカと腹が立ってきた。
この怒りは、一体どうすれば消すことが可能なのだ。部屋の中でしくしく孤独に泣いているのは性に合わないが、だからってこうして夜の街に出てきても、ちっとも気分転換になりゃしない。
仲良く腕を組むカップルを目に入れては苛つき、ナンパ野郎の撃退に精神が消耗し、楽しそうな家族連れを見ると落ち込む。挙句、空の上の二人にまでイチャモンをつける始末だ。どこかで飲んだくれていたほうが、まだマシだったかもしれない。
このままだと、下手をしたら大暴れをして警察のお世話になりそうだ。
しょうがない、そろそろ帰ろう、と踵を返す。
──で、その時になって気づいた。
歩道橋の反対側の欄干に、今までの自分とそっくりな格好でぽつんと立っている人がいる。
そしてそいつは、私とは違い、上ではなく下に顔を向けている。
すなわち、雲がかかった暗い夜空ではなく、たくさんの車がびゅんびゅんと飛ばして走っている、ライトの光が溢れた明るい大通りをだ。
その後ろ姿が、何かに吸い寄せられるように、前方、つまり欄干の向こうの、何もない空中へとふわりと身を乗り出すのを見て、私は大きく舌打ちした。
こんにゃろう。
本日男にフラれたばかりの傷心の私のすぐ前で、自殺を目論むとは、いい度胸だな!
***
がしっと服を掴んで思いきり身体を引き戻してやると、その人物は驚いたように目を真ん丸にして私を見返してきた。
若い。身長は私よりも高いが、すらっとした細身で、可愛いと言ってもいい顔立ちは、どう見ても十代の青少年。彼は、びっくりした表情のまま、眉を吊り上げて鬼の形相をしている私に、怯えるようにじりっと一歩後ずさった。
「な、なんですか」
「なんですかじゃないよ、このバカタレが。ここで死のうったって、そうはさせないからね」
「し、死ぬ?」
少年はぱちぱちと何度か瞬きをして、私を見てから、今の今まで自分が寄り添っていた欄干と、その下にあるものを見た。
そこでようやく、ああ……と合点のいった顔をした。
「そういうつもりじゃなかったんだけど」
「明らかに前傾姿勢だったよね」
「あー、なんかポーッとしてたから。俺、死のうとしてたのかなあ」
今ひとつ自信がないような、覚束ない言い方だ。死のう、という積極的な意志ではなくとも、死んでもいいかなー、というような精神状態ではあったらしい。ふざけんじゃないよ、とまた腹が立つ。
「なんでそんな気分になったわけ」
「いや……それは」
「どうせイジメとか受験ノイローゼとかの些細な悩みなんでしょ」
「それを些細って言いきっちゃうのはどうかなあ」
「ふざけんじゃないっつーのよ、それくらいで死なれたら、私の立場がないじゃんよ」
「なんで、ここにお姉さんの立場?」
「言っとくけど私だってすごくすごく、ものすごーく、つらくてしんどいんだからね。それでもこうして必死に我慢してるってのに、その私の前でさっさと死に逃げるって卑怯だと思わないわけ。あんた一人がこの世の苦しみを全部背負ってるなんていい気になるんじゃないっての。まるで私の苦しみがあんたのそれよりも小っちゃいみたいじゃん。絶対にそんなのは認めてやらないんだからね」
「あのさ、お姉さん、言ってることが支離滅裂なんだけど、ちょっと落ち着いて……」
「私なんて、私なんてねえ」
ぐしゃりと顔が歪んだ。表情筋が崩壊を始める。じんわりと景色が滲み、周りのネオンの輝きが水の膜に覆われた。違った、覆われているのは私の目だった。
「私なんて今日、ずーっと付き合ってた彼氏を他の女に取られたんだからねえっ!」
そこで、うわあんと大声を出して号泣した。
少年は、いきなり大泣きをはじめた私に仰天して、それから通行人から突き刺さる視線に、さらに仰天したらしい。ちょっとお姉さん、とか、これじゃ俺が泣かせてるみたいなんだけど、とオロオロしながら宥めようとし、しかしそれでも私がわんわんと泣き声を抑えなかったものだから、「とにかくここはカンベンして」と、私の手を取って足早に歩きだした。
そしてそのまま、歩道橋を降りてそこから離れると、さらに歩いてビル街を通り過ぎた。
しばらく進んでから、ようやく足を止める。
着いたところは、大きめの川がある土手沿いだった。そこに至るまでの道のりにまったく迷いがなかったところを見るに、彼はこのあたりの地理に詳しいのだろう。
「あー、やれやれ」
堤防の上で、ようやく掴んでいた私の手を離す。その時にはすでに私も声を上げるのはやめて、ぐしゅぐしゅと鼻を啜り上げている程度に収めていたのだが、彼はそれまでずっと私を放り出すでもなく、手を握ってくれていたのだ。
「突然怒り出して泣きはじめた女なんて、そのまま橋の上に放置して一人で逃げればよかったのに。変な子だね、君」
ぐすん、としゃくり上げながら感嘆の声を出すと、少年は眉を顰めた。
「そこは、変な子、じゃなくて、いい人、って言うところじゃないの? そうだ、考えてみたら、ホントにそうだよ。なんで俺、あの時自分だけ逃げなかったんだろ」
ぶつぶつと不満げな顔をしている。どうやら、相当なお人好しタイプと見た。そんなことでこの先大丈夫か、少年。
「まあ一応、命の恩人でもあるみたいだし」
「うん、そうだね。泣いて感謝して這いつくばってもいいくらいだね」
「言っとくけど、俺、本当に死のうとしてたわけじゃないから。多分だけど」
ふてくされて、堤防の上にどっかりと座り込む。ようやく涙が引っ込んだ私も、まだ鼻をぐずぐずいわせながら、その隣に腰を下ろした。
目の前には、ざーっと音を立てて流れる川がある。街灯が立っているからそんなに真っ暗というわけではないけど、さすがにこの時間、のんびりと犬の散歩をしている人もいなくて、その場所にいるのは私たちだけだった。
しばらく無言で、川向こうにある家々のぽつぽつ灯る窓の明かりを見ていた少年は、やがてぽろりと落とすように「……たださあ」と言葉を出した。
「なんかもう、いろんなことが虚しくなっちゃった、っていうかさ。どーでもいーや、っていう気になってたんだよね」
「あっそう。で、理由は? イジメ? 受験?」
「……彼女にフラれた」
ムカッとしたので、少年の頭をぽかんと殴ってやった。
「なんで殴るんだよ?! お姉さんだって同じ理由で落ち込んでたんだろー?!」
「私とあんたとを一緒にしないで。こっちは高校生同士のお気楽な付き合いとは次元が違う」
「さっきから思ってたけど、ものすごく理不尽な性格だよね、お姉さん! 恋愛に大人も子供もないじゃん!」
「じゃ聞くけど、その彼女とはどこまで進んでたわけ。せいぜい手を繋いだり、キスしたり、それくらいでしょ」
少年の顔が暗闇でも判るほど赤く染まった。図星だったらしい。
「私なんてばっちり肉体関係もあったもんね。しかも時期から考えて、二股かけてた女とは二カ月くらい被ってたわけよ。つーことは性格とか容姿だけでなく、そっちの方面でも私はあの女に負けたってことよ。この屈辱があんたにわかる?! どう考えてもスタイルならあっちより私のほうがいいのに、あとはなんだよ、相性か、テクニックか!」
「ちょっと、純情な高校生に、生々しい話を聞かせるのはやめてよ!」
溜め込んでいた疑問を吐き出した私に、少年は自分の両耳を掌で押さえて叫んだ。だってしょうがないじゃん。本人には聞けなかったんだから。
「今日仕事が終わってからいきなり呼びだされてさ。他に好きな子が出来たから別れてくれ、っていうお決まりのアレをされたわけ。しかもその隣にはちゃっかりその女も座っててさあ」
その女は職場における彼の後輩であり、私の後輩でもあった。言いたかないが、あまり仕事の出来ない彼女にせっせと指導してあげたのもこの私だ。私と同僚である彼が付き合ってることは、彼女だって知っていた。その上で、好きになっちゃったんですごめんなさい、と泣きながら言うあの女の神経がわからない、と思うのは私の心が狭いせいか。
お前は強いから一人でも大丈夫だろうけど、こいつは俺がいないとダメなんだ、と使い古された台詞を口にする彼氏は、どうやら本気でそう言っているらしかった。
本気で、私は放っておいたって大丈夫、と思っているようだった。
弱々しくて、すぐに泣いて、何かっちゃ周りの男に頼って、顔だけは可愛いが中身は無きに等しいその女は自分が守ってあげないとダメだけど、私は一人にしたって平気だと。
声を大にして言いたい、クソ野郎。
そんなわけあるかあっ!
「彼氏にそう言ったの?」
少年に問われて、私は肩を竦めた。
「言えっこないでしょうよ。ヤツは本当に心の底からそう思ってるんだからさ。私がどんだけ悔しくて悲しくて胸が張り裂けそうに苦しくても、あいつは、そんなものはない、って言うんだもん。要するに、あの男の目に、私は、捨てても放り出しても問題ない女としか見えてなかったと、そういうことよ」
一年半も付き合ってたのにねえ。
ぼそりと呟くと、隣の少年は川に目をやって黙り込んだ。
「……俺も」
「ん?」
「俺も、同じ。半年くらい付き合って、あっさり他の男に乗り替えられちゃった。俺の場合は、どう見てもあっちのほうが顔も頭もいいんだけど。男のほうから告白されて、オッケーしちゃったんだって。まだ、俺と付き合ってるのにね。あー俺ってそんな風に、もう要らないやってポイっと捨てられる紙屑みたいな男だったんだ、って思ったら、何もかもがイヤになった」
こちらに目線をやらず、ぼそぼそと話す彼の背は、小さく丸まっている。この子だって顔は悪くないし、性格はかなりいいほうだろうと思うのに、彼女はどういう基準で向こうの男を選んだんだろうなあ、と私は思った。
「結局私たち、フラれたことが悲しいのか、それとも他のやつに負けたのが悔しいのか、どっちなんだろうね」
「つまりは、傷ついた、ってことだよね。でもまだピュアな分、俺の傷のほうがお姉さんよりも深いと思う」
「んだと。もちろん私の傷のほうが深いに決まってるじゃん。なにしろ元カレも寝取り女も同じ社内なんだから、これからイヤでも顔を合わせるし」
「俺だって同じ学校だよ。しかも俺、受験生なんだよ。この大事な時にこんなショックなことされて、勉強に身が入るか自信がない。これで浪人になったらそれこそお先真っ暗だよ」
「いいじゃん、煩悩に振り回されず、受験勉強に精を出せるじゃん。私なんて仕事しかないんだよ。きっとそのうち、寂しいお局とか呼ばれて、白い目で見られて、男に縁のない暗い人生を送るようになるんだ」
「いや、お姉さんより俺のほうが可哀想だ」
「違う、絶対に私のほうが可哀想」
しばらくの間、「どちらがより可哀想か」とムキになって言い合った。
そして、同時に笑い出してしまった。
考えてみりゃ、不幸自慢ほど、バカバカしいものはない。
それから少年とはお互いを慰め合い、励まし合った。
私は彼に対して、優しい、顔だって悪くない、足もまあまあ長い、全体的に清潔感があって女子のポイントが高い、とさんざん褒めちぎってやった。彼も私を、ちょっとキツイ性格だけど可愛げがないこともない、どっちかといえば美人、胸が大きいところもかなり好み、という少々微妙な表現だが一生懸命持ち上げてくれた。
恋人を取っていったやつよりも、ずっとずっといいよ、と。
もちろん、比較対象になっている人間が実際にどんな外見でどんな性格をしているかも判らないわけだから、そんな言葉に意味はないのだけど。
──世界に一人だけでも、そう言ってくれる人がいる、と思ったら、泣きたくなるほど安心した。
「俺、ちょっと元気出たかも」
「うん、私も」
少年が言い、私も言った。
少し元気になったかも──それってけっこう、重要なことじゃない?
お互い、これからも泣いたり怒ったり、どうしようもない胸の痛みを持て余したりはするんだろうけど。
とりあえず、今日は大丈夫だ、と思えたってこと。
そうやって、一日一日、なんとかやっていくしかないんだから。
「少なくとも、今夜はもう歩道橋から身を乗り出すようなことはしないと思う」
「それがいいよ」
「けど、正直に言うとさ」
「ん?」
私が首を傾げると、少年はちょっとだけ照れくさそうに頭を掻いた。
「また落ち込むのは止められないだろうなあ、っていうか。そんな時、絶対にバカなことを考えないかっていったら自信がない、っていうか」
「まあ、ただでさえ受験生だから、ストレスも多いだろうしねえ」
「だからさお姉さん、俺の安全バーになってくんない?」
「は?」
きょとんとする。安全バーってなんだ。
少年はますます恥ずかしそうに顔を赤くした。
「あのさ、来年の七夕、またここで会わない?」
へ、と問い返す。
「来年の七夕?」
「そう。もしも俺がふらふらっと車の前に飛び出したくなっちゃたりした時にさ、『七夕にお姉さんと会わなきゃいけないんだ』って約束を思い出したら、なんとか踏みとどまれるんじゃないかと思うんだよね。とにかく、その日までは頑張ろう、っていう気にはなれるじゃない?」
「そーかねえ」
青少年の考えることは、二十代の女にはよくわからない。
「一年先のことなんて、覚えてられるか、自信ない」
「いいんだ、それは俺の気持ちの問題だから。お姉さんが忘れちゃっても、まったく構わない。俺も忘れるかもしれないし。今日が七夕っていうのも、何かの縁かと思って。一年後に再会、なんて、すげえロマンチックじゃん」
「君はそんな夢見がちで、厳しい現実を乗り切っていけるのかね。お姉さんは心配になるよ」
「うるさいな、もう。とにかく、どんなにちっちゃいことでも、未来の希望ってやつを持っていたいんだよ。ね、そうしよ」
結局、来年の七月七日、この場所でこの時間に、という約束を交わし、私たちは別れた。
最後まで、お互いの名前も連絡先も聞かないまま。
またね、と。
***
──そして、一年後の七月七日。
ちゃんと約束通り、律儀にその場所へやって来た少年を見て、私は呆れた。
「まさか本当に来るとは思わなかった」
「それはこっちの台詞だよ、お姉さん。なんかいかにもズボラそうだし、絶対あの次の日には忘れてるだろうと思ってた」
失礼なことを言う少年は、去年よりも背が伸びて、少し体格もしっかりしたものになっていた。聞けば、無事大学に合格して、ラクロス部に入ったのだという。なんだラクロスって。
そうかそうか、と彼の成長にしみじみしながら、二人して堤防の上に座り、空を見上げた。
一年前と同じく、今日も曇りだ。七夕の日は晴天にならないように、という呪いでもかかっているのだろうか。
「……えーと、その後、どう?」
少年に聞かれて、私はついぷっと噴き出した。ちょっと遠慮がちなその言い方が可笑しかったわけではなく、これから話すことが、自分でも笑うしか他にしょうがない、というような成り行きだからだ。
「それがさあ、元カレと相手の女、最近はずいぶんギクシャクしてるらしくて」
「へえ。じゃ、お姉さんには喜ばしい展開だね」
「いやー、喜ばしいっていうか」
私と別れて付き合いだした女は、依頼心が強く、面倒なことや厄介なことはすぐに他人にやらせようとする性格だ。元カレはそんな彼女が、だんだん重荷になってきたらしい。
そんなこたー私はずっと前から知っていたし、お前だってそういうところが「放っておけない」という理由だったんだろ、と思うが、近頃彼が周りに零すのは、彼女についての愚痴ばかりなのだという。
曰く、失敗を何回注意しても、ぷっと膨れて「だってこういうの苦手なんだもん」で済まし、苦手なら苦手で克服しよう、という意思がまったくない。
曰く、ちょっと真面目に注意すると泣き出して、それですべてが許されると思っている。
曰く、どこでもべったりとくっついてきて、人の目だとか、周囲の状況だとかの客観的な判断が出来ない。束縛も激しく、他の女の子と話をしただけで責めてくる。その理由を、好きだから、とけろっと言いきってしまう。
前の彼女はしっかりしていて、こんなに自分を疲れさせることはなかったのに。
ということを不満げに言っていた、と友人伝えに聞いた私は、笑うしかなかった。
そんなの全部、判っていたことではなかったのか。そういうのが好きになって、私を捨ててそっちを選んだんじゃないのか。
結局あの男は、自分を頼りにしてくれたり、すごーいと言ってくれたりする女、そして同時に、自分を甘やかしてくれ、母親のようになんでも寛容に受け止めてくれる女がいい、ということなのだ。アホか。
断言しよう、そんな女はこの世に存在しない。
「もうホントに、バカバカしくなった。あれだけ絞り出した私の涙を返せ、と思ったよ」
私がそう言うと、大学生になった少年はあははと明るく笑った。
「俺も似たようなもん。実はさ、俺、あれからものすごく勉強に打ち込んだんだよ。他にやることもないしね。で、結構成績も上がったもんで、志望校のランクを上げたんだ」
彼が現在通っているのは、そのランクを上げた大学なのだという。名前を聞いて、へえー、と思うくらいには有名なところだ。
「でも、彼女が乗り替えた男のほうは、どの大学もことごとく落ちちゃって、結局浪人になってさ」
大事な時期に女の子に交際を申し込むようなやつだから、それは当然の帰結だな、という気もする。
「そうしたら彼女、アッサリそいつを振っちゃったんだ。浪人の彼氏なんて、みっともないって」
「シビアだねえ」
「それで俺とまたやり直したいって言ってきてね。でもそんなの、目当ては俺じゃないってイヤでもわかるじゃん。彼女が付き合いたいのは、俺じゃなくて、大学名なんだなって。そう思ったら、もう、すーっと気持ちが醒めちゃってさあ」
それまでは結構しつこく想い続けてたんだけどね、と小さな声で付け加えた。
私たちは二人で笑った。
あまり陽気なものではなくて、少し乾いた、寂しげな笑いだったけど、澱んだものが含まれていない、吹っ切れた笑いだった。
──時間を置いて、結果だけを口にしたら、笑い話にしかならないようなことだけど。
でも私たちは二人とも、一年かけて、なんとかそこまでいったのだ。口にはしなくても、私と同じように、彼もいろんなことを努力して、涙を呑んで、歯を食いしばり、頑張ったんだろうと思う。
もう不幸比べをしなくていいように。
「なんなのかなあ。つまり恋愛って、ないものねだり、ってことなのかなあ」
「俺、思うんだけど」
私の独り言に、少年が目線を上げたまま言った。
「彦星と織姫もさ、一年に一度会うだけだから、長い間うまくいってるのかもしれないよね。三百六十五日の間で一日、その日だけ、最高の自分を見せていればいいんだからさ」
「夢のないことを言うようになったね、少年」
「俺もちょっと大人になったんだよ、お姉さん」
そう言って、また笑う。今度は本当に楽しそうな笑い方だった。
「──でも、そういうのはやっぱり、つまんないよね。俺は、その人のいいところだけじゃなく、悪いところも含めて好きになりたい。その時々で怒ったり悲しんだりすることはあっても、一緒にいて、いろんなものを分かち合いたい。どんなに素晴らしい一日を送れても、それ以外の日はずーっと離れて過ごすなんてイヤだよ」
「……そうだね」
私も頷いた。
本当に、そうだね。
そうやって続けていくのは、簡単なようで、難しいことなのかもしれないけどね。
でもだからこそ、楽しいことなのかもしれないよね。
「ということで、行こうか、お姉さん」
少年が立ち上がる。うん? と私は彼を見上げた。
「もう帰るの?」
「じゃなくて、お茶飲みに行こう。また一年後に再会を約束して別れる、っていうのはつまんないだろ? 俺たち、フラれた者同士、って以外のことは何も知らないままじゃん。もっといろんなことを知ろうよ。お姉さんがこの一年、どんなことをしてたのか、とか。基本的なところで、名前、とかさ」
差し出された手をまじまじと眺め、ぷっと噴き出してしまった。
「じゃあまず、ラクロスって何か、ってところから」
「そこから?! せめて連絡先からはじめない?」
そういえば、どこに住んでいるのかも知らないな。彼は大学生というのだから十八か十九歳なのだろうけど、私の年齢は教えてないわけだし。二十六になった、って言ったら引かれちゃうかなあ。
「ま、いいや」
伸ばされた手を取ってぎゅっと握り、立ち上がる。
そんなところからはじめるのも、悪くない。
お茶を飲んで、お喋りして。そのあと別れてそれっきりになるか。案外気が合って、年の差ありの仲の良い友人同士になるか。それとももうちょっと親密な関係になるか。
今はそんなこと、どうでもいい。
なにしろ私たちには、天の二人と違って、まだあと三百六十四日もあるのだし。
風が吹き、空の雲が流れて、ちらりと綺麗な星が姿を見せた。




