王子の憂鬱
はあー、というこれみよがしの溜め息に、とうとう忍耐が尽きてしまったフィアナは、にっこりとしたうわべだけの笑みを貼り付けて彼を振り返った。
「いかがなさいました、ラウル様。溜め息なんておつきになって」
「遅いよ、お前」
ラウルと呼ばれた青年は、ひどく不満そうに唇を突き出している。
それから手の込んだ装飾が施された重厚な机に無造作に頬杖をついたため、身にまとった柔らかそうな絹の洋服がさらりとした微かな音を立てた。ちなみにその机は、ついさっき、フィアナがせっせと一点の曇りもないくらい完璧に磨き上げたばかりのものだ。
「おれが朝から何回溜め息をついてると思ってんだよ。今ので三十三回目だぞ。そして現在はもう昼近くなんだぞ。世話係のお前は、朝の一回目の溜め息の時点でその台詞を言うべきだろ」
「ほほほ、それは至りませんで」
もちろん朝の一回目から気がついていたが面倒だから無視していた、などということはおくびにも出さないで、フィアナは慎ましく笑った。
いっそ五十回目くらいまで無視を続けてやろうかと思っていたのに、その前に、自分の苛々が頂点を越えてしまったのだ。無念である。
ますますふてくされたラウルのその顔は、完全に子供のそれだった。公の場ではあんなにも颯爽として一分の隙もないくらい切れ者としての顔を見せるのに、フィアナの前での彼は、ただの手のかかる厄介者でしかない。
「聞きたいだろ、おれの溜め息の理由」
「あら、いいえ、そんな。無理にお話になることはございませんよ。フィアナなどではラウル様の深遠なお悩みに、何も有益なことは申せませんし」
「そんなことは判ってる。話してやるって言ってるんだから、素直に聞けよ」
「………………」
内心でちっと舌打ちする。はっきり言って、全然聞きたくない。どうせ、くだらない悩みに決まっているからだ。
「じゃあ、どうぞ」
「なんだよ、その気のない態度は。お前さ、おれの世話係なんだから、もうちょっとこう、優しさとか親身さとかがあってもいいんじゃないのか。昔のフィアナはもっと可愛かったし、いつもおれのことを一番に心配してくれてたのに」
「あの頃はラウル様も可愛らしかったですからねえ……」
「『あの頃は』 ってどういう意味だ」
在りし日のことを思い出してフィアナがしんみりしながら言うと、ラウルはますますむっとした表情になった。そういう顔をすると、この王子は昔とあまり変わらないように見える。
……見えるが、けれど、それは本当に 「見える」 だけなのだ。
現在のラウルは、れっきとした第二王子、直接の王位継承者でこそないものの、立派にこの国を背負って立つ人材であり、周囲からの期待も大きく、またその期待に応えられるだけの器も才能も持っている。
──そして、無邪気に宮殿の庭を一緒に駆け回っていた昔とは違って、今のフィアナは、ちゃんと 「身分の差」 というものについて判っている、というだけのことだ。
「フィアナ、おれはもう二十歳になったんだぞ」
「存じておりますよ」
ラウルは先日二十歳の誕生日を、宮殿で盛大にお祝いしたばかりで、それを知らないものはこの国にいない。余所の国からもたくさん招待客が招かれて、祝いの品も溢れるほど届けられ、ご馳走がテーブルに乗り切れないほど並べられ、そりゃあ絢爛豪華な宴だった。
ちなみに乳兄弟兼世話係のフィアナは、それよりも十日先に二十歳を迎えたが、特に祝いの席などは設けられなかった。ラウル王子の乳母にあたる母も、父も、兄弟も、みな宮殿づとめのため、王子の誕生祝の準備でてんてこ舞いで、それどころではなかったからである。
「祝宴でのスピーチは大変堂々となさって、さすがラウル王子はあのボンクラな兄上とは出来が違……いえいえ、たいそうご立派なものだと、招待された皆様も口を揃えてお褒めになってました」
「正直だね、お前。まあそんなことはともかくさ、二十歳になった途端、婚約者を決めろって周りの奴らから責め立てられて、閉口してるんだ。今日もこれから御前会議があるだろう、そこでも話題になるに決まってる。それでおれは朝から憂鬱なんだよ、判るか?」
「いえ、さっぱり。だって、二十歳になったら婚約者をお決めにならなくちゃならないのは王族の決まりごとですし、ラウル様だってご存知のことじゃありませんか」
「おれはまだそんな気にならないんだよ。婚約者なんて決めたら、自由がなくなる。今までみたいに気ままにやっていられなくなるだろ」
「んまあ、ラウル様!」
フィアナの驚くような声に、ラウルはきょとんとした。その顔を眺めて、しみじみと感心してしまう。
「ということは、『結婚したら遊べない』 なんていう、真っ当な結婚観をお持ちでいらっしゃったんですねえ。フィアナはラウル様を見直しました」
「…………。お前ね、おれを一体どういう男だと思ってたわけ?」
ラウルは苦々しく言い返したが、どういうもこういうも、女性に関してはちゃらんぽらんな男だと思っていたに決まっている。
あちこちの姫君と浮名を流したり、夜になると平民の格好をしてこっそり町で遊んだり。なまじ容姿が整っているだけ、言い寄ってくる相手には事欠かないというのも問題かもしれないのだが。
この調子では、いずれどこぞの名のある貴族の娘を妻に迎え入れたとしても、ラウルのこの悪癖は直らないんじゃないかと、フィアナはフィアナで心配していたのだ。
しかしラウルはいかにも不本意そうに、眉を寄せて腕組みをした。
「お前は何か誤解してるみたいだけど、おれほど一途な男なんてありゃしない。好きな相手を妻に出来たら、そりゃその子だけを大事にするさ。……あーあ、なんで王族の男は貴族の娘と婚姻すべし、なんてつまらない慣習があるのかね。王族の女は平民の男と結婚したり、降嫁することもできるのに」
「………………」
ということは、ラウルが狙っている相手は、平民の娘だということか。
ラウルの呟きでそれを察したフィアナは、口を結んで無言になった。なんだか猛烈にむかむかしてきてしまう。ラウルがどんな娘を娶ろうが自分には無関係だと言い聞かせても、腹立ちはその理性の声を上回った。
──結婚相手が、フィアナなんかでは手の届かない、雲の上の身分の娘なら、いざしらず。
「兄上はいずれ王になる人だから、その妃になるのはそれなりの身分の人間じゃないといけないかもしれないけど、おれは第二王子だぜ? 別に余計な野心なんか持ってないし、そうしたらせいぜい、独立して分家するのが関の山だ。だったら、妻くらい自分の裁量で選びた──」
「でしたら」
と、フィアナは表面上はにこやかに、しかし有無を言わせない断固とした響きで、ラウルのぶつぶつと続く愚痴をぶった切った。
その迫力に押されたのか、ラウルが目を丸くして口を噤む。なんにも判っていないその顔が、やたらと腹立たしい。
……やっぱり、溜め息の理由なんか、聞いてはいけなかったのだ。
「でしたら、御前会議で、皆様方の前でちゃんとその旨仰るべきじゃありませんか。王族男子の妻は貴族の娘、なんていうのはあくまで慣習であって、法律で定められたことではないんですから。ラウル様は昔から口が上手くて、屁理屈で人を言いくるめるのはお得意でしたでしょ。兄上様はあの通りボンヤ……いえ、おっとりしていらっしゃるし、父君様はラウル様には甘い方ですもの、ワガママを聞いてくださるかもしれませんよ。その思いが本気であるなら、立場よりも、ご自分の意思をお通しになったらいかがです」
「…………」
つんけんしながら憎まれ口のように一気に口から飛び出したフィアナの言葉を聞いて、今度はラウルが無言になった。
言い終えてから、さすがに言いすぎだ、ということに気づいて青くなる。慌てて、
「出すぎたことを申しました」
と頭を下げようとしたら、ラウルに 「フィアナ」 と名を呼ばれた。
顔を上げると──ラウルは猫のように目を細め、にんまりとした上機嫌な表情になっている。
え、とフィアナは戸惑った。
その顔はなんだか、「してやったり」 とでもいうような……有り体に言って、獲物を罠に嵌めて悦に入っている、ようなものに見える。
「本気なら、立場よりも自分の意志を通せ、って?」
ラウルはそう言いながら、今までの物憂げな様子が嘘のように、機敏な動作で座っていた椅子からさっさと立ち上がった。
「よく言った、フィアナ。その言葉、ちゃんと覚えておけよ」
「……は?」
え? え? とわけが判らないまままごついていると、ラウルは足早にドアの方へと歩いていき、真鍮のノブに手をかけた。
ドアを開けて出る間際に、フィアナを振り返る。
「──お前の誕生日プレゼント、まだ渡してなかったろ。近いうちにやるから、楽しみにしてな」
そう言って、にこ、と笑ったその顔は、見惚れてしまうくらい優しげなものだった。
***
ラウル王子の言っていたその 「プレゼント」 が、輝く宝石のついた美しい指輪と、求婚の言葉であったことをフィアナが知るのは、もう少しあとのお話だ。