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短編集  作者: 雨咲はな
19/26

喜びも、悲しみも(後編)



 数年後には、ジェドは立派な青年へと成長した。

 もう子供の頃のように、見境なく癇癪を起こしたりすることはない。貴族としての教養や品位も、すっかり身につけた。背が高くなり、声も低音の耳触りの良いものに変わり、時々皮肉な笑いを浮かべることはあるものの、淑女に対しての礼もとる。あまりパーティーなどに出席することはないが、怜悧な容貌をしたジェドは、社交界では人気があるらしい。

 一方、ベルは相変わらず、エルウッド家の使用人として、またジェドの話し相手として、毎日をそこそこ多忙に過ごしている。この屋敷に来た頃の、痩せっぽっちでガリガリだった身体は、それなりに肉がついて年頃の女性らしくなってきた。教育を受けさせてもらったおかげで知識と処世術も得て、現在のベルは、どんな場所に同行しても、相応の振る舞いや受け答えが出来る。

 昔の、無学で、貧相で、感情の起伏のなかった小さな子供の姿を、そこに見出す者はいない。


「──だけど、ベルは昔から敏い子供だったよ。あの年齢で、人の心を操るすべをちゃんと身につけてた。僕は君のそういうところが気に入って、屋敷に引き取ろうと決めたんだ」


 そう言ったのは、年齢を重ねて、頭に少しずつ白いものが混じるようになってきたエルウッド氏だ。そんな齢になっても、闊達で陽気な性質は変わりがない。彼はそろそろ、長男に家督を譲り、自分は田舎の土地に引っ込んで、のんびり気ままに過ごすことを考えているという。

「人を騙すことを、なんとも思っておりませんでしたからねえ」

 彼にお茶を出しながら、ベルも笑いながら答えた。

 あの頃のことは、エルウッド氏とベルが二人の時だけに交わされる話だ。もう誰も、屋敷の使用人仲間でさえ、ここにいるベルが昔、犯罪集団に身を置いていた、なんてことを話しても、信じてはくれないだろう。

「ベルは美しい女性になったね。そりゃあ、縁談もたくさん持ち込まれるわけだ。リチャードは、ずいぶん困っているようだよ」

「縁談なんて……」

 静かに言って、目を逸らす。

 ベル自身も、それについては知っている。執事のリチャードを困らせているのが、縁談が持ち込まれること自体ではなく、片っ端からそれを潰しているジェドにあるということも。

 他の女性の誘いも、自身の縁談も蹴っ飛ばし、いつからか彼の熱のこもった瞳が、一途にベルだけに向かっていることも。

「どうしようか、ベル」

 エルウッド氏が、穏やかな声で訊ねた。

「君にそのつもりがあるのなら、どうにでもなることだよ。形だけでも貴族の娘にしてしまうことは容易だ。そうすればジェドとの結婚に障害はない。ジェドはこれから分家を作って、自分で事業を起こすつもりのようだね。他でもない、君のために」

「…………」

 目を伏せて黙ったのは、ほんのわずかな時間だった。すぐに顔を上げ、正面からエルウッド氏を見返した。

「旦那様、わたくし、お暇を頂きたいのです」

 エルウッド氏は無言でベルの顔を見つめ、小さな息を落とした。

「──君はそう言うと思った」



 ベルが仕事を辞め、エルウッド家を出て行くことを知って、ジェドは驚愕した。

 そのことを告げられるなり、彼は座っていた椅子から立ち上がった。あまりにもその勢いが激しかったため、机の上の書類がはらはらと床に落ちる。ベルはジェドの歪められた顔ではなく、そちらのほうをじっと見ていた。

「どうして、ベル」

「旦那様がそろそろご隠居をお考えになっていると聞いて、決心いたしました。もともとわたくしは旦那様に拾われ、このお屋敷でご厄介になっていた身です。旦那様がいらっしゃらないのなら、ここにいる理由がございません」

「理由──ここにいる、理由がない、って?」

 衝撃を受け、ジェドの声が掠れる。ベルはそれを聞いても、表情を変えなかった。

「俺は」

「ジェドさま」

 目線をジェドへと戻し、口を開く。

 この屋敷に来る前、ベルは人を騙すことをなんとも思わなかった。嘘をついても心の痛痒をまったく感じない。悲しそうな顔、つらそうな仕草、そんなものはいくらでも演技できる。他人の同情心を買い、上手い口実を考え、目の前の相手からいくら取れるか、そればかりを計算していた。

 今も、ベルの中には、その頃の「小さなベル」が残っている。そうだ、ちゃんとそれはまだいるのだ。いなくなったのは、見た目だけ。過去は、決して消せやしない。

「今まで、旦那様に受けた恩を少しでもお返しするため、そのためだけに、こちらのお屋敷に留まっておりました。旦那様が家督をお譲りになるのでしたら、わたくしもこちらにいるわけにはまいりません。お暇させていただきます」

 だからいくらだって、嘘がつける。

 ジェドが傷ついた顔をしていても、なんとも思わない。なんとも思わないという顔が、出来る。

「さようなら、お世話になりました」

 ベルは頭を下げ、踵を返した。



          ***



 今まで少しずつ貯めたお金があるから、それを元手に、遠く離れた地に行こうと考えていた。

 エルウッド家から少しでも遠くに。その名前など、耳に入らないようなところに。ジェドが誰かと結婚したという噂すら、聞こえてこないような土地へ。

 が、計画を立てている段階で、エルウッド氏に先手を打たれてしまった。知り合いの屋敷で、子供の家庭教師を探しているから引き受けてもらえないか、と言われたのだ。

 その家には八歳になる娘がいるのだが、身体が弱いので、空気の良い山間地の別荘で療養生活を送っている。しかし不便な場所ゆえか、有能な家庭教師がなかなか見つからない。そうこうしているうちに、娘はすっかり勉強嫌いになってしまった。このままでは、健康になって都会に戻ったとしても、山出しの無知な田舎娘と侮られることになるのではないか……と両親は非常に気を揉んでいるという。

 契約期間は二年。住み込みで、その娘に知識と教養を叩き込んでやって欲しい、とエルウッド氏に頼まれて、ベルは迷った。

 件の別荘は、確かにエルウッド家から離れた土地にある。提示された、破格の給金も魅力だ。これから女一人で生きていこうというのだから、資金は多ければ多いほどいい。しかし──

「旦那様、そのこと、ジェドさまには」

「もちろん、君が言わないでくれと言うのなら、固く口を噤んでおくよ。僕は決して真面目な人間ではないけど、約束は守る。ベルはそのこと、よく知っていると思うけど」

 ニコニコしながらそう返されては、ベルも承知いたしましたと頭を下げるしかなかった。エルウッド氏は約束を守る紳士であり、なによりベルにとっての大恩人である。

 自分がそこにいることは絶対にジェドには知らせない、という条件で、ベルはその役目を引き受けることにした。



 そうして向かったキーブル家の別荘なのだが、問題の娘、アリッサはなかなか手強い相手だった。

「ああーら、今度のはずいぶんお若いかたでいらっしゃること。私とあんまり年齢が変わらないくらいじゃないの。ひょっとして、これを機にお父様の愛人になろうとでもいう魂胆なのかしら。だけどいくらお父様だって、あなたのような土のような髪の女性には、ご興味なんて湧かないと思うわ」

 挨拶のために初目通りした時の第一声が、これである。まあ、可愛くない子だわ、とベルは噴き出してしまった。

 このツンケンした可愛げのなさ、昔の誰かを彷彿とさせる。

「なにがおかしいのよ! 失礼よ、あなた! 家庭教師なら家庭教師らしく、今までの人たちみたいに、鼻を天井に向けて、取り澄ましていればいいのよ!」

 顔を赤くして怒るアリッサに、ますます笑みがこぼれた。

 この言葉から、これまでの家庭教師たちとの関係が、決して良好なものではなかったのだろうことが窺える。言うことは可愛くないが、そういったことをポロリと出してしまうあたり、この少女はまだまだ幼く単純だ。

 周りには何もないような、この静かで退屈な土地で、一緒にいるのが数少ない使用人と気の合わない家庭教師では、さぞかし毎日が息苦しかったことだろう。

 正直、未来ある子供に自分のような人間が何を教えるというのか、と気乗りのしない話であったが、ここに来て、気が変わった。

 教育も啓蒙も、ベルには出来ると思わない。知識だけは詰め込んでも、人間性までが変わったわけではないのだ。誰かを教え諭し、より良い方向に導くという行為は、もっと完成された人格を持った人がすべき仕事で、ベルのような孤児上がりの小娘がすることではない。


 ……でも、話し相手くらいなら、出来る。


 なにしろ、エルウッド家でベルはずっとその役割を負っていたのだから。それについてはベテランだ。エルウッド氏も、この状況を知っていたからこそ、ベルに話を持ちかけたのではないかと思った。

「アリッサ」

 ベルは少し身を屈め、アリッサと目を合わせて微笑んだ。

「まずはわたしと、いろんなお話をしましょう。お勉強は、そのあとよ。たくさんお喋りをして、たくさん遊んで、あなたのこと、わたしのこと、みんなのこと、世界のことを、いろいろと知っていきましょう。そうしたらあなたにも、知る喜びと学ぶ楽しさがわかるはず。わたしたち、きっと仲良くなれるわ」

 幼い日の、ベルとジェドのように。



          ***



 ベルはアリッサに対し、自分が孤児だということを隠さなかった。

 生まれてすぐ捨てられたことも、孤児院での窮屈な暮らしも、マードックのもとで他の子供たちと一緒に底辺の生活をしていたことも、すべて話した。

 アリッサは最初のうちこそ驚いて、嫌悪感を見せたり、軽蔑したり、好奇心を疼かせたり、想像もつかない世界に思いを馳せてしんみりしたりと忙しかったが、ベルを拒むようなことはしなかった。

 興味がないという顔をしながらも耳を澄ませ、馬鹿にするような言葉を口から出しても視線は恥じ入って下を向き、マードックに支配されていた子供たちが自由になったと聞けば安堵の息をこっそり漏らすアリッサは、本当に可愛い少女だった。ベルは時々、口許に浮かぶ笑いを押し隠すのに精一杯の努力をしなければならなかったくらいだ。

 半年が経過した頃には、ベルの言葉どおり、二人はすっかり仲良くなった。

 笑うことの多くなったアリッサは、尖った台詞を舌に乗せなくなり、なにかとベルの近くにいたがる。一日にメリハリがついてきたことにより、食欲を見せはじめ、顔色も良くなってきた。遊びの時間が多い反面、勉強にも集中するようになった。


「新しいことを知るって、楽しいことね、ベル先生」


 庭の芝生に寝転んで、アリッサが言う。

 外に出るのを嫌っていた彼女だが、それは、「強制的に決められた日光浴の時間」が嫌だっただけらしい。ベルと一緒に、お茶をしたりお菓子を食べたり、時にはイタズラをするようになると、アリッサは自ら進んで陽の光を浴びたがった。

 はじめは虫を見つけただけで血の凍るような悲鳴を上げていたのに、ベルにそれらにも名前があること、いろんな種類があること、ひとつずつ生態が違うことなどを教わると、おそるおそるだがじっと観察し、屋敷に持ち込んで使用人を驚かせては大笑いした。

 そして言うのだ。新しいことを知るのは楽しいと。

 ベルはその顔を眩しく見つめ、在りし日の自分を思い出す。


 ──知らないことを知るというのは、『嬉しい』ことなのですね、ジェドさま。


「わたしもそう思ったわ、アリッサ」

 毎日、毎日、ひとつずつ新しい何かを知る。今日はこれを知った、じゃあ明日は何を知るのだろう、とワクワクして眠れなかった日々。

 何も知らなかった自分が、「この先」への期待がいっぱいで、胸がはちきれそうだった。

 希望と喜びと、愛情に満ち溢れていた、あの頃。

「……だからこそ、怖かった。それを失うのが」

 何も知らなかったからこそ、何も怖くなかった。知ってしまったら、今度はそれを失うのが怖くなった。希望は不安に、期待は恐れになるということに気づいた。

 この手に何もなければ、痛みは知らないままでいられたのに。

「でも、ベル先生は、もう何もなかった頃には戻りたくないんでしょう?」

 どこか遠くへ視線を向けるベルの手に、小さな手がそっと重ねられる。下からこちらを覗き込んでくるアリッサは、少し心配そうな表情だ。栗色の純粋な瞳。口から出す台詞まで、子供の頃のジェドと似ていた。

「ええ、そうね」

 微笑して、ベルはふわりとアリッサの額にキスを落とした。

 キーブル家との契約は二年。あと一年半したら、この少女ともお別れだ。

 ベルはまた、失うつらさを味わうことになる。

 でも、しょうがないのだ。ジェドが言っていた通りだ。嬉しいこと、楽しいことがあれば、つらいことや苦しいこともある。幸福を覚えたら、その後の不幸が、とんでもなく大きく感じる。

 人を愛したら、同時に寂しくもなる。

 ……けれど、しょうがない。

 それが人というもの、生きるということなのだから。

 痛みも知らなかった頃には戻れないし、戻るつもりもない。

 これから一生、この苦しみを抱えて背負って進んでいくのだとしても、それは何も知らないよりも、ずっと幸せなことなのだ。



          ***



 ベルの家庭教師の期限終了の時が近づいてきた。

 この二年でずいぶん健康になったアリッサは、もうすぐキーブルの本宅に帰ることになっている。身につけた淑女としての振る舞いも忘れて、帰る時はベル先生も一緒じゃないといや、とアリッサは頑固に言い張っているが、ベルはそれを断って、別の土地へ行こうと考えていた。

 それなりにまとまったお金も出来たことだし、旅の資金に困ることはないだろう。誰も知らない場所に行って、住むところを確保して、働き口を見つけて──

 それが簡単なことではないことくらいは想像がついたが、ベルはあまり心配していなかった。孤児の身の上で、ここまで図太くやってこれたんだもの、大抵のことはなんとでもなるだろう。

 庭の木に登って、手頃な枝に座り、夕日を見つめた。結局、アリッサには木登りの極意までは教えてあげられなかったなあと、心残りといえばそれくらいである。こんなに気持ちがいいのにね。

 ジェドは今頃この夕日を、どこで眺めているのだろう。その隣には、もう他の誰かがいるのだろうか。

 そんなことを考えていた時だったので、最初、「ベル」と呼ばれたその声も、幻聴だと思った。


「──ベル」


 二度目に名を呼びかけられて、ようやく気がついた。忘れることの出来ない、懐かしいその声は、確かに下のほうから聞こえてくる。

「ベル、降りてきてくれないか。そんなところにいられたら、またどこかへ飛び去っていくんじゃないかと気が気じゃないんだ」

 ジェドが、こちらを見上げて立っていた。

 その姿を見るのは二年ぶりだ。また背が伸びて、顔つきも雰囲気も、一段と大人びた。もう、ベルと庭を駆け回って遊んだ少年の面影を探すのも難しい。

「……あなたがこちらへ来たらいいんだわ、ジェド」

 ベルはもうエルウッド家の使用人ではないから、敬称をつけたり、丁寧な言葉遣いをしたりする必要がない。下に顔を向けてそう言い放つと、ジェドは苦笑した。

「そうしたいところだけど、俺まで登っていったら、間違いなく枝が折れて二人とも落っこちてしまうだろう? ベルが怪我をしたら困る。やっとの思いで見つけたのに」

「旦那様に聞いたの?」

「やっぱり父上は君がここにいたことを知ってたんだな。とんでもないよ、あの人ときたら、俺が何度問い詰めても、脅しても、泣き落としても、のらくらとぼけるばかりだったんだぜ。俺はもう、死ぬほどの苦労をして、二年もかけて自力でここを探り当てたんだ」

 紳士然とした青年貴族の口から、あのクソ親父、という品のない言葉がぼそっと出た。

 エルウッド氏は、ちゃんとベルとの約束を守ってくれたらしい。でもたぶん、「知っている」ということは隠さなかったのだろう。ジェドはきっと、その細い線を辿ってここまでやって来ることが出来たのだ。そこはかとなく、陰謀の臭いを感じる。

「よく庭まで入って来られたわね」

 別荘とはいえ、そうそう気軽に第三者が外から入って来られるようなところではないはずなのに、と思いながら問うと、ジェドは肩を竦めた。

「今の俺は、貿易の仕事をはじめて、多少は社会の信頼も得ているんだよ。ちゃんと礼を尽くして訪問して、アリッサ嬢に事情を話した上で了解をもらった。彼女はなかなか聡明だね、ベル。君がふらりとどこかに行方をくらましてしまうくらいなら、なんでも協力すると申し出てくれた」

 はあー、とベルはため息をついた。

 そういえば、キーブル家の当主夫妻、つまりアリッサの両親は、エルウッド氏の要請でベルがここにいることを内緒にしてくれているが、アリッサ本人まではその範囲に入っていなかったのだっけ。


「君の顔を見て話がしたい。降りてきてくれ、ベル」

「…………」


 どうしようかと迷ったが、結局、ジェドの真摯な懇願の声に負けた。昔から、ベルがジェドの頼みを断れた試しはない。

 スカート姿のままするする滑るように木を降りて、地面にすとんと着地する。

「……言いたいことはいろいろあるけど、その格好で木登りをするのはどうかな、ベル」

「あら、わたしはもともと野育ちですもの。あなたの周りにいらっしゃるご令嬢たちとは違うのよ」

 ベルの素っ気ない言葉に、ジェドはカチンときたらしい。

「なんだか棘を感じるな。俺を捨てていったのは君なのに」

「まあ、人聞きの悪いことを言わないで。いくら使用人でも、仕事を辞める自由くらいは、あるはずじゃないかしら」

「君はいつからそんなひねくれたものの言い方をするようになった? 昔のベルは、素直で無邪気で、もっとまっすぐな女の子だった」

「昔とは違うの。わたしもあなたも、大人になったのよ。もう、あの頃のままでは、いられないの」

「俺は違う」

 強い口調で遮るように言って、ジェドがベルの手を掴んだ。

 怒りの混じった瞳の底に、炎が宿っている。


「俺はあの頃からずっと、何も変わってなんていない。あの頃のまま、君を愛してる」


 ベルは首を横に振った。

「それは憐れみや同情というものよ、ジェド。あなたは、何も持たないちっぽけな孤児を気の毒だと思った。そしてそれを愛だと勘違いしてしまった。それだけ」

「そんなわけない」

 ジェドがもどかしげに、叩きつけるように言う。顔には、苦悶の表情が刻まれていた。

「どうして俺から離れようとするんだ、ベル。どうして、孤児であることにそこまでこだわる? 俺はただ、君が君であれば、それでいい。ベルがベルだから、俺は君を好きになったんだ」

 そこで一旦、口を噤んだ。気を落ち着かせるためにか、大きく息を吐きだす。

 掴んだベルの手に目線を落とし、再び静かに言葉を出した。

「……君がいなくなってから、ずっと心が虚ろだった。大事なものが抜け落ちたようで、何を見ても、何をしても、感情が動かない。まるで、屋敷に来たばかりの頃のベルみたいだ、と思った。でも、違う。こんなにもつらく苦しいのは、俺がいろんなものを知ってしまったからだ。ベルの笑い顔、ベルの泣き顔、ベルの怒った顔、ベルの声、ベルの温もりを、何度も思い出して、そのたび胸が締めつけられる。失ったものが大きすぎて、頭がおかしくなりそうだった」

「…………」

 ベルもまた目を伏せ、ジェドに捉われた自分の手を見た。それがさっきから小さく震え続けていることに、ジェドだって気づいていないはずがない。

「ベル、君は? この二年、俺のことを思い出しもせず、楽しくやっていた? 俺がいなくても、君は幸せになれるかい?」

「…………」

 その問いに、ベルは唇を噛みしめた。


 ジェドがいなくても幸せになれるか、って?

 そんな──


「……そんな、わけない」

 しばらくしてからようやく絞り出したのは、さっき言われたのと同じものだった。それを耳にして、ジェドの目が晴れた。ぐっと引き結ばれていた唇が綻び、優しく穏やかな表情になって、ベルの顔を覗き込む。

「ベル」

「だって、わたしは何もかも、ジェドから与えられたんですもの。嬉しいことも、楽しいことも、幸せなことも」

 ベルにとって、ジェドは唯一。誰も彼の代わりになんてなれるはずがない。どれだけ時を過ごしても、心を占めるもの、思考の行きつく先はいつだって、ジェドのことばかりだった。

 ベルはジェドに出会って、人生における光を知った。綺麗なもの、輝かしいものは、すべてジェドに教わった。知識だけでなく、自分を、人を、生きるということを、愛情を、痛みまでもを学んだ。現在のベルの大部分は、ジェドにより成り立っていると言ってもいい。

 はじめて知った、愛する喜びと、失う悲しみ。


 ベルにいちばんの喜びをもたらすのは、ジェド。

 ベルにいちばんの悲しみをもたらすのも、ジェド。


「──でも、わたしのほうは、ジェドに何もあげられない」

 エルウッド家に行くまで、ベルは何も持っていなかった。エルウッド家に行ってからは、常に与えられる側にいた。貴族の子息であるジェドはすべてを持っていて、孤児で使用人のベルが差し出せるようなものは何もない。

「それどころか、わたしの存在はあなたの足を引っ張ることにしかならないわ。ちっぽけで、惨めに痩せ細って、ただその日の食べ物のことしか考えられない、中身が空っぽの人形だった『小さなベル』は、確かに今もまだ、わたしの中にいるんだもの。その小さなベルは、貪欲にあなたからすべてをむしり取ろうとする。あなたの洋々たる未来を邪魔するのはいや」

「ベル、聞いて」

 頑なに拒み通すベルに、ジェドは辛抱強く続けた。掴んだ手に、ぎゅっと力を込める。

「君が姿を消してから、エルウッドの次男坊は、ひどく偏屈で怒りっぽくなったって、有名だったんだよ。人を寄せつけず、一度癇癪を起こしたら止まらないってね。リチャードには、昔の坊っちゃんに戻られてしまったと、何度嘆かれたかわからないくらいだ」

 そう言って、少し、自嘲気味に笑った。

「俺だって、足りないところは山とある。俺の中にも、ワガママで、傲慢で、ちょっとしたことですぐに暴れ出す、手のつけられない『小さなジェド』がまだ居座ってる。その足りないところをずっと補って、満たしてくれていたのが、ベルだった。幼い君だけが、俺の孤独と寂しさを癒してくれた。今もそうだ。決して、他の誰にも俺の心は埋められない。君だけなんだ、ベル」

「…………」

 ゆるりと上がったベルの視線を真っ直ぐ受け止めて、ジェドは柔らかく目を細めた。

「お互い、欠けているものがあるということだよ。一人ずつだったら、そのままだ。その欠けた部分を充足するために、君がいて、俺がいる。俺たち、そうやって、手を取り合い、助け合い、支え合って、やっていける。どちらかがどちらかに幸せをあげるんじゃなくて、二人で一緒に幸せを作り出していくんだ。俺にも、君にも、まだまだ知らない幸せがあるはず。それを見つける努力をしよう、ベル」

「──ジェド」

 ベルが目を閉じると、瞼の下から涙が溢れて頬を滑り落ちた。

 心が震える。胸が痺れる。

 泣くことを抑えつけていた大人のベルと、泣くことも知らなかった小さなベルが、涙を零す。

 こんなにも、自分を揺り動かすことが出来るのは、やっぱりジェドしかいない。

 握ったままのベルの手を軽く持ち上げ、ジェドがその甲にそっと唇を落とした。


「結婚してください」


 ベルがこくんと小さく頷く。ジェドはそれを見て、幸福そうに微笑んだ。

 そして、耳元に顔を寄せ、囁いた。

「……約束しただろう? 覚えてる、ベル?」

 子供の頃、木の上でこうして手を握り合い、目と目を見交わして、約束した言葉。

「君が笑う時も、泣く時も、そばにいる、と。あの誓いは、今もこの胸にある。──これからも、ずっとね」



  喜びも、悲しみも、君と。




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