喜びも、悲しみも(前編)
ベルは孤児だった。
生まれて間もない頃、孤児院の前にバスケットに入れて捨てられていて、そこには手紙の一通すら、添えられていなかったらしい。
だからその赤ん坊は、両親のことはおろか、本人の名前も判らない状態だった。ベル、という名前は、孤児院の院長がつけてくれたものだが、そこにさしたる意味はない。たぶん、赤ん坊を見つけた時にたまたまベルの音が聞こえたとか、そんな程度のものだったろう。
赤ん坊が捨てられたそこは、施設も人員も万全とは言い難く、食料は常に不足しており、子供が病気になっても十分な措置がとれずに死んでいくことが多い、という貧しい孤児院だった。ベルは物心がついてからすぐにそこでせっせと働き、他の子供たちの面倒を見て、六つの年まで過ごした。
七つになる前、マードックという人物に貰われた。
マードックは、一部では名の通った、悪名高い男だった。彼はあちこちの孤児院から子供を引き取ると、スリやかっぱらいなどの犯罪行為をさせ、その上前を撥ねるという、自分の懐を潤すためには手段を選ばない姑息な悪党だったからである。
マードックに引き取られた子供たちは、小さいなりに犯罪集団を結成し、他人から金をもぎ取ることに知恵を絞った。やりたい、やりたくないの問題ではない。やらなければ食べ物を与えられず、さんざん暴力を振るわれるだけなのだから、生きるためにそうするしかなかったのだ。
が、そんな生活は二年も続かなかった。とうとうマードックの悪行が世間に知られるところとなり、彼は捕まってしまったのである。残された子供はそれぞれ、また孤児院に戻されたり、逃げだしたり、あるいは、慈愛溢れる貴族の方々に、使用人として引き取られることになった。
ベルも、その一人だ。
ベルを引き取ろうと申し出たのは、エルウッドという背の高い紳士だった。上等な外套を着て、ピカピカの靴を履き、気取った杖を手にしたその人は、しかし他のお貴族さまたちのように、自己満足と優越感と慈善と偽善と蔑みとをいっぺんに同居させたような目はしていなかった。
「ふうん、ベル、というんだね?」
紳士はその上品な身なりと年齢にはそぐわない、子供のように面白そうな顔つきで、ボロボロの衣服をまとったベルを上から下まで眺めた。
「君は、他の子供のように、置き引きやかっぱらいをしなかったらしいね。そのわりに、マードックに手酷い扱いを受けた形跡もないな。どうやってお金を稼いでいたの?」
「お優しい旦那様や奥様の前で、寒そうにしていたり、ふらついたりしていれば、お金を貰えました」
ベルが淡々とそう答えると、紳士は可笑しそうにぷっと噴き出した。
「なるほど。そうやって同情を買って、自分の手を汚すことはせず、お恵みを施してもらっていた、ということかな」
「あちらは可哀想な子供を助けられて気分がいいし、お金を得られればマードックさんも喜ぶし、ベルもその日の食事にありつける。誰にとっても損はないのだから、それがいちばん良いのではありませんか?」
紳士は声を立ててあははと大笑いした。
「うん、気に入った。ねえベル、僕の屋敷に来るかい? 実は僕には息子が二人いるんだけども、その下の子が、甘やかされたせいか少々ワガママが過ぎて困ってる。君のような子供が近くにいると、彼ももうちょっと変われるのではないかと思うんだ」
「はい、参ります。よろしくお願いいたします、お優しい旦那様」
ベルは躊躇なくそう言って、頭を下げた。
どうせ貴族の屋敷に行ったところで、態のいいタダ働きの使用人として、奴隷のように働かされるのは判っているが、それでも死なないくらいの食事と、寝る場所くらいは提供してくれるだろう。それだけでも、今の生活よりはマシというものだ。孤児院に戻るのも真っ平だし、子供一人でこの世界を生き抜いていけるなどという甘い考えも持っていない。
まずは生きていくこと。
重要なのは、ただそれだけ。考えるのも、ただそれだけ。
赤ん坊の時からずっと最低レベルの生活を続けていたベルは、そのことを、なんとも思わなかった。もちろん生身の体があるのだから、痛いと感じたり、疲れを覚えたりすることはある。けれどそれに対する自身への憐れみというものが、まったく湧かないのだ。そんなものは、もとから存在しない、と言ってもいい。
──人は、嬉しいことや楽しいことを経験して、はじめて、つらい、苦しい、と思うことが出来るのだから。
生まれてから一度も幸せな時間を得たことのない子供は、不幸も知らない。まさに現在の自分自身が、不幸である、という自覚がない。ずっと闇の中にいて、世界には光があるということを知らない。知らなければ、それはその人間にとって、はじめから存在しないということなのだ。だから、希望も期待もない代わりに、不安も恐れもない。
ただ、生きるだけ。
ベルは、なにも知らない。
喜びも、悲しみも。
***
エルウッド氏のお屋敷は、とんでもなく立派で大きかった。
連れて行かれたそこで、ベルはまず、お風呂に入れられ隅から隅までを磨くように洗われた。お風呂から出ると、皺も汚れもなく、どこも破れてもいない綺麗な衣服を着せられた。こんなお姫様のドレスのようなものを着せて、エルウッド氏は自分をどこかに売り飛ばすつもりなのかと訝ったが、どうやらそれはこのお屋敷では普通に使用人が身につけるものらしい。びっくりだ。
それから、食事を与えられた。これまた今まで見たこともないような、豪華さだった。パンは柔らかいし、スープも温かい。肉はカラカラに干したものではなくて、ナイフを入れればじゅわっとした肉汁が溢れ、しっかりした手応えを感じるほど厚い。テーブルにはフルーツまである。どれもこれも美味しいし、量もたっぷりある。エルウッド氏、さては子供を太らせて食べるつもりか、と疑心暗鬼になったが、誘惑には抗えずにたらふく食べた。
そしてその後、ようやくエルウッド氏の息子と対面した。
「なんだ、おまえ」
最初から敵愾心を剥き出しにして、ベルを睨みつけてきたのは、ジェド・エルウッドという十歳の子供だった。
彼は、ベルを部屋に連れていった執事が、「ベルと申します。本日よりジェド様のお話し相手として……」と紹介するやいなや、眉を吊り上げ、猛然と怒り出した。
「なにが話し相手だ! 俺にそんなものは必要ないと何度も言っただろう! また父上の差し金だな、くだらない、さっさと出て行け!」
サラサラのちょっと癖のある栗毛で、顔も姿も整った、笑えばさぞかし愛嬌があって可愛らしいと思われる容姿をした子供だったが、ジェドは一旦癇癪を起こすと、自分でもそれを抑えつけることの出来ない気性の持ち主だった。
執事に向かって怒鳴り、ベルに向かって叫び、屋敷内にはいない父親に向かって罵り、しまいにはこの世の何もかもが彼の敵であるかのように責める。本を破り、玩具を踏み潰し、ベッドからシーツを引き剥がし、それでも飽き足らず、手当たり次第に物を投げつけはじめた。
執事は泡を喰ったようにほうほうの態でその場から逃げだしたが、ベルは黙って目の前の子供の狂乱を眺めていた。エルウッド氏がいない以上、ベルが従うべきはあの執事のほうである。彼から指示や命令がなければ、ここを動くわけにはいかない。甲高い声は耳に響いてやかましいが、だからって別にそれ以上のことはなかった。
「何をしてる! 出て行けと言っただろうが! そんなところに突っ立っていないでさっさと消え失せろ!」
その言葉と共に、小さな置時計が飛んできた。避ける気もなかったので、そのまま立っていたら額に当たった。ガツッという鈍い音を立てて置時計は床に落ち、ガラスが割れ、部品が飛び出した。
「……あ」
ジェドはぴたりと動きを止め、さあっと顔色を変えた。
ベルはその様子を見て、それから下に落ちた置時計を見た。壊れてしまったが、これはベルのせいということになるんだろうか。マードックのところにいた時、投げられた物を下手に避けるとさらに怒りが激しくなるので、ぶつかるに任せていたのだが。しかし見るからに高級そうな時計だし、ここはなんとか手で受け止める努力をするべきだっただろうか。
「お、おい、大丈夫か」
途端に、ジェドはおろおろして近づいてきた。
「申しわけございません、壊れてしまいました」
「こ、壊れちゃったのか! どこだ、頭か! 顔か!」
「ガラスが割れて、部品が……」
「バカ、おまえだ!」
ん? と思って時計からジェドに目を移すと、彼は真っ青になって、じっとベルを見つめている。大丈夫か、という問いは、どうやらベルに向かって発されたものらしい。
「大丈夫、とは」
「だ、だから、ケガして……わあっ、血、血が出てるぞ!」
ジェドが悲鳴を上げた。
時計がぶつかったところを手で触れてみれば、確かにべとっと赤いものが付着した。コブになっているようで、ちょっと膨らんでもいた。
「だっ、誰かー! リチャード! メイスン! 誰でもいいから早く来い! 医者! 包帯! 薬!」
一人で大騒ぎをしている。ベルはもう一度、床に転がる置時計の残骸を見た。ジェドはさっきから、そちらのほうにはまったく見向きもしないで、ベルのことばかり気にしている。
へえー、そうか。
人間にも、「大丈夫か」って聞くものなのか。
「ジェドさま、ベルは『大丈夫』です」
むしろ、なぜそんなに騒ぎ立てるのか。マードックから殴る蹴るの暴力を受けていた時、痛みはこれの比ではなかった。けれど、他の子供たちはみんな、びくびくと怯えて部屋の隅から眺めるくらいで、一人として「大丈夫か」なんて言葉をかけてはこなかった。
だから純粋に、ジェドの動転の理由が判らない。壊れたか壊れていないかという意味で「大丈夫か」と訊ねられているのなら、ベルはどこも壊れていないので、「大丈夫」と返すしかない。
廊下の向こうから、執事や使用人が慌てて駆けてくる。ジェドは泣きそうな顔でベルの顔を覗き込み、さっきまで上げていた眉を情けないほどに下げた。
「あの……ごめん」
要求されても脅されてもいないのに、なぜ謝るのだろう、とベルは首を傾げた。
……でも、ちょっとだけ、お腹のあたりがほっこりした。
***
罪の意識もあったのか、それからのジェドは、ベルを拒絶することはしなくなった。
傲慢で、不遜で、短気な子供ではあるものの、やはり育ちが良いためか、女の子に傷をつけたことは、彼にとっての大いなる痛恨事であったらしい。相変わらず、怒ったり、怒鳴ったり、物に当たったりはするのだが、それでもベルに対しては、一方的に撥ねつける態度をとることはなく、屋敷の使用人たちを安堵させた。
逆に、ベルは彼らのそういうところのほうが不思議だった。
ジェドは、癇癪を起こしさえしなければ、暴れることはない。彼には彼なりの理由と原因があって怒っているのだろうに、屋敷の使用人たちは、そこを知ろうとはしなかった。謝ったり、逃げたり、それ以上怒りが増幅しないよう機嫌を取ろうとし、腫れ物に触れるように扱うだけ。それでジェドはまた怒鳴る。その繰り返しだ。
物怖じせず話しかけるベルは、どういうわけか、ジェドの気に障ることが少なかった。もちろん、腹を立てることはよくあるが、他の人間に対する時のように、出てけ、消えろ、とは言わない。
結果、旦那様のお目は確かだった、ということになり、ベルは屋敷の仕事も手伝いながら、主な役目は最初の予定通り、ジェドの話し相手、という位置に納まることになったのだった。
ある日、庭に二人でいる時に、ジェドさまはなぜそんなに怒るのですか、と訊ねてみた。
ジェドはしばらく黙り込んでいたが、やがて俯きがちになり、
「……俺が八つの時、母上が亡くなったんだ。父上はお忙しい方で、滅多に屋敷にいないし、兄上とは齢が離れてるから相手にしてもらえないし……」
と、ぼそぼそした口調で語りはじめた。
長い話だったが、要約すると、母と死に別れてからのジェドは、多忙な父と兄にも構ってもらえず、使用人たちからは遠巻きにされるだけの環境に置かれて育った。同じ年頃の貴族の子供たちは、どいつもこいつも自分のことしか考えない連中ばかり。寂しくて寂しくて、つい人や物に当り散らしてしまうんだ──という内容だった。
大人が聞いたらただただ呆れて、甘ったれたその言い分を窘めたり叱ったりする場面だが、ベルはひたすらきょとんとするだけだった。そうなのですか、という返事しかしないベルに焦れたのか、あるいは恥ずかしくなったのか、ジェドは怒り出した。
「なんだよ、もっとなんか言えよ!」
「でも、ベルにはよくわかりませんから」
「何が判らないんだ?! 他のやつは、元気出してって慰めたり、だったらもっとしっかりしなければって説教したりするぞ!」
「はあ……」
そういうものなのか?
「ベルには母も父もおりません。顔も名前も知りませんし、どこにいるのかも知りません。今、生きているのか死んでいるのかも知りません。ですから、さみしい、という気持ちがどんなものなのか、わからないのです。申しわけありません」
孤児院の院長は、厳しくうるさく、経営についての金勘定ばかりしている人物で、とてもではないが、「親代わり」などという存在ではなかった。マードックももちろんそうだ。親が死んで悲しい、親とあまり会えなくて悲しい、という気持ちが、ベルにはさっぱり理解できない。
下町には、子供を捨てる親、子供を暴力で支配下に置く親、子供にたかるように生活する親は、数えきれないくらいたくさんいた。そんな親でも、失えば悲しいものなのか。それもやっぱり、ベルには判らない。
「…………」
ジェドは絶句し、それから顔を赤くして、うな垂れてしまった。どうやら自分はまた何か、まずいことを言ったらしい。
「ジェドさまのお母上は、どのような方だったのでしょう」
そもそも、ベルに「母親」についての知識がまったくないのがいけないのだと思い、そう聞いてみた。ジェドは一瞬、困惑するような表情をしたが、今度は怒り出したりはしなかった。
「母上か。母上は、絵や音楽のお好きな、穏やかな方で……」
ぽつり、ぽつりと言葉を落とすようにして喋る。あの時はこうした、あの時はこう言った、ということを話す時のジェドは、普段の癇癪持ちの顔ではなく、過去に思いを馳せる柔らかい目をしていた。
ジェドと同じ、美しい栗毛の持ち主だったという女性。身体が弱いため、あまり動かず、窓辺の椅子に腰かけて刺繍をしていることが多かったという。線が細く、儚げな雰囲気で、いつもただ微笑んでいたらしい。
きっと、とても優しい人だったのだろう。
話を聞きながら、ベルは目を閉じて、見たこともないその人の姿を想像してみた。
椅子に座って刺繍をしている母親。
そこに、幼い子供が駆け寄っていく。
拙い言葉であれこれと話すのを、微笑みながら聞いてあげて、彼女はそっと手を伸ばす。
そうして自分の膝に乗せ、ふわりと頭を撫でながら、澄んだ声で歌を歌ってくれる──
その景色は、あまりにもベルから遠い。
けれど、頭の中に浮かべている間だけは、自分も彼女の子供になったような気分に浸ることは出来た。
夢のように、美しい光景だ。胸が痺れるほど、綺麗な、綺麗な。
「よく、わかりませんけども」
「うん」
「──そういうのを、きっと、『幸せ』というのですね」
ベルが言うと、ジェドは小さい声で、うん、と呟いた。
***
ベルは無学だ。頭は悪いほうではないが、文字の読み書きはまったく出来ない。貴族のことはおろか、世間の常識だってよく知らないくらいなので、話しているとジェドが時々頭を抱えることもあった。
そこで、エルウッド氏の厚意と、ジェドの主張により、ベルも教育を受けさせてもらえることになった。
本を読み、文字を書く。一度覚えはじめると、のめりこむように夢中になった。乾いた砂が水を吸収するように、どんどん知識を得ていくのは、こんなにも「面白い」ことだったのか、と驚いた。
判らないところがあれば、ジェドがにわか教師になって偉そうに教えてくれる。彼は、実はとても頭のよい少年だったのである。よく投げつけていた本も、ベルにはちんぷんかんぷんな、難しいものばかりだった。
勉強を教えてもらうお返しに、ベルはジェドに木登りや速く走るコツを伝授してあげた。殴られそうな時には素早くこうやって逃げるのですよと教えたら、ジェドは非常に微妙な顔をしたが、それでも素直に言うことを聞いた。いつも部屋に閉じこもってばかりだった彼が、陽に焼けて健康的な顔色になり、運動神経もよくなったのは、多分に、ベルの功績が大きい。
勉強したり、外を駆け廻ったり、話をしたり、喧嘩をしたり、じゃれ合ったり、笑ったり。
そうして、日々が過ぎていく。
一年も経つと、ジェドはもう以前のように、無闇な癇癪を起こさなくなっていた。怒り出す前に、ぐっと踏ん張って考える、ということを覚えるようになったのだ。悪いことをしたら、相手が使用人であっても謝る。何がどう彼に変化をもたらしたのかは判らないが、ジェドは確実に、良い方向へと成長していた。
最近のベルとジェドは、屋敷の人間たちの目を掠め、よく庭の木に登って二人だけの時間を過ごす。そこで物語を聞かせてもらったり、おやつを分けてもらったりするのが、ベルは大好きだった。
目を輝かせ、話に聞き入るベルを見て、時々大人びた顔をするようにもなったジェドが優しく目を細める。きっと、彼の母親も、こんな表情をしたのだろうとベルは思う。ぼんやりとしか想像できなかったものが、今、こうして実際に目の前にある。
幼い頃のジェドが抱いた幸福感が、理解できる。
……これが、「知る」、ということ。
「知らないことを知るというのは、『嬉しい』ことなのですね、ジェドさま」
「うん、そうだな」
高い場所からは、屋敷の庭と、塀の外がよく見える。木登り自体はここに来る前からよくやっていたけれど、それはいつも一人だった。こうして他の誰かと一緒に登って、くすくす笑うことはなかった。
息を潜め、声音を抑える。触れ合う肩が温かい。目と目が合ったら、ジェドがへへへと笑う。ベルもふふふと笑った。どちらからともなく手を出して、ぎゅっと繋いだ。
このわくわくした気持ち、高揚する胸、自然と零れる笑いが、「楽しい」ということなのだ。
面白いこと、嬉しいこと、楽しいこと。
幸せなこと。
ひとつずつ、ひとつずつ、知っていく。
「──でも、少し怖いです」
「怖い?」
ベルの言葉に、ジェドが眉を寄せて聞き返す。怖いなら降りるか? と訊ねられ、首を横に振った。そういうことではない。
「楽しいことや嬉しいことを知ってしまったら、それが失われた時、とてもつらいのではありませんか? なにも知らない時は、なにも感じないでいられたのに。それを考えると、少し怖いです」
「うーん……」
ジェドは、ベルの幼い考えと言葉を聞いても、笑ったりはしなかった。空いたほうの手で口許を押さえ、一生懸命考える。
さあ、と風が吹いて、彼の栗色の髪の毛をなぶるように揺らした。とても美しい色だと思うけれど、ジェドはいつも笑って、ベルの黒髪のほうがずっと綺麗だと言う。そう言われると、ちょっともぞもぞして落ち着かなくなる。この気持ちが何なのか、ベルにはまだ判らない。
「けど、ベルは、また前のように、何も知らなかった頃に戻りたいわけじゃないんだろ?」
「はい」
そこは迷いもせずに頷く。笑うことも知らなかった時に戻りたいと思ったことは、一度もない。
「だったらさ、しょうがないんだよ」
ジェドはそう言って、繋いだ手に力を込めた。
「嬉しいこと、楽しいことがあれば、つらいことや苦しいこともある。幸福を覚えたら、その後の不幸が、とんでもなく大きく感じる。人を愛したら、同時に寂しくもなる。……それは、しょうがないんだ」
少しだけ、視線を遠くに投げて、
「ベルはこれから、まだたくさんのものを知ることになるだろう。手に入るのは、いいものばかりじゃなく、悪いものもある。笑うようになったベルは、これからいっぱい泣くことも覚えて、喜びと同時に、悲しみも知る。俺はそういうものを、全部は取り除いてあげられない。どんなに頑張っても、それは無理だ。俺もまだ自分のことだけで手一杯だしね。……けど」
またこちらを向く。にこ、と笑った。
「ベルが笑う時も、泣く時も、そばにいる。これからは、喜びだけでなく、悲しみも、俺はベルと共有するよ。そうやって、不安も、恐れも、一緒に乗り越えていこう。約束だ」
忘れないで──と言って、ジェドはベルの頬にキスをした。