表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
短編集  作者: 雨咲はな
15/26

リーナと旦那様



 ディンズデールは昔から、ヴァッセル家が治める領地である。

 決して広くはないが、肥沃な土地柄と、穏やかな気候などの好条件により、ここでとれる作物は出来が良くて、他の領地に高い値で売れる。

 その上、ヴァッセル家の領主は代々温和な性質で、決して横暴な振る舞いをしたり、重税などを課したりもしなかった。無慈悲な領主が圧政を敷いて、領民たちを苦しめることが少なくはないこの世の中で、それは決して当然のことなどではない。むしろ、僥倖ともいえた。

 そのため、領民たちはみんな、この地での平穏な暮らしに満足していた。

 数年前、ヴァッセル家の当主が急逝し、当時十代の若者であった息子が跡を継いだ時には少し不安もあったが、この息子は、いきなり手にした権力に溺れることも傲慢になることもなく、ひたすら先代当主のやり方を踏襲して、地道で安定した統治を続けた。あるいは若さに任せた無茶な改革でもはじめて、この領地を荒らすことになるのでは、と危惧していた領民たちは、彼が年齢のわりに落ち着いた考え方をすることに、よかったよかったとほっと胸を撫でおろしたものだ。


 ──ただ、この新しい若き当主は、少々変わっているところもあった。


 ほとんど、人前に姿を現さないのである。領地視察なども部下任せ、屋敷に客が訪れても当主の代理が面会して話を伝えるのだという。

 よほどの人嫌いなのか、あるいは他人に見せられないほどの醜い容貌をしているのかと、領民たちは噂し合ったが、真実のところは今もって定かではない。

 しかし、その姿を見ることはなくても、土地は変わらず、きっちりと治められている。川にかかる橋が壊れて民が苦労していたりすれば、すぐに整備の手が廻される。余所から荒くれ者などが入ってきて民を脅すようなことがあれば、撃退のための人員が差し向けられる。こちらの声はあちらにはちゃんと届いていて、なおかつ、その声に応える意志がある、ということだ。

 それが判っていさえすれば、誰も領主の顔をしかとは知らなくとも、さほど問題には成り得ない。領民たちにとって、よき領主であるかどうかは、そんなことには左右されないのだ。

 そういうわけで、顔も姿も知らなくても、ヴァッセル家の新当主は、おおむね民に好意的に受け止められ、慕われてもいた。

 近頃、ディンズデールでは、その領主の喜ばしいニュースでもちきりである。


 とうとうあの方、ご結婚されるんだってねえ!



          ***



 リーナ・シャロットは、戸惑っていた。

 自分が住んでいたところから、がたごとと馬車で揺られて一昼夜、ようやく辿り着いたディンズデールは、緑豊かで、ふわりと花と果実の甘い香りの漂う、静かで美しい土地だった。

 働いている人々も、道を駆けていく子供らも、みんな明るい笑顔を浮かべ、ゆったりのんびりしているように見えた。それだけでも、ここがいかに良く治められている領地であるかということと、領主の人柄が優れているかということが判る。今日はじめてこの地にやって来て、これからの人生をここで暮らしていくことになるだろうリーナにとって、自分の目で見るその現実には、ずいぶん心細さを慰められもしたし、この先の希望を与えられたようで、嬉しくなったものだ。


 しかし肝心の、夫となるべき人に、まだ会えていない。


 ヴァッセル家の屋敷に着いてから、こちらでお待ちを、と物腰の柔らかい執事に言われたきり、もうどれくらい経っただろう。

 自分が今いる応接間は、広さこそあれ、調度品のすべてが華美すぎず派手すぎず、年数の経過したものを大事に扱っているのだな、ということが窺えた。リーナの実家もどちらかというと地味な暮らしをしているほうだったので、屋敷の端々から伝わる真面目で堅実な雰囲気は、非常に心地よい。

 そして同時に、少し緊張もする。

 今後は、この屋敷が自分の終の住処にもなるわけだ。上手くやっていけるといいのだけど。ここで働く人々にも、なにより自分の旦那様になる方にも、嫌われないといいのだけど。

 リーナとこのヴァッセル家の跡取り息子との婚姻は、先代当主が生きていた頃に親同士で交わされた約束事である。双方にとっての利を求めた──つまり政略結婚というやつだ。先代は亡くなったけれど書面で取り付けたその約束は有効のまま残り、十七歳になったリーナは、未だ会ったことのない相手に嫁ぐために、こうしてこのディンズデールの地へとはるばるやって来た。

 今日が初対面という人といきなり夫婦になるのは確かに不自然なことではあると思うけれど、こうなったからには、少しでも仲良くやっていければいいなと思っている。そのための努力は死に物狂いでしよう、という決意と覚悟くらいは持って、リーナは故郷に別れを告げてきたつもりだ。

 旦那様になる方は人嫌いという噂もあるし、あまり構われるのはお好きではないかしら。でも少しずつなら会話も交わしてくださるかしら。あれこれ話しかけるのは鬱陶しがられてしまうかもしれない。だったら他の人にお好みのものを聞いて廻ってみるのもいいかしら。いいえでもそれもご不快に思われるかも──

 今後の対策を考えて、リーナがうーんうーんと頭を悩ませていると、ようやく、応接間のドアが開いた。

 身を固くして、ぱっと顔を上げ、ソファから立ち上がる。

 部屋に入ってきたのは、ブロンドの前髪を長く伸ばして右目をすっかり覆い隠してしまっている一人の美しい青年、そして彼に連れられた、ふさふさとした白い毛並みの大型の犬だった。


 ……犬?


 と一瞬きょとんとしてしまったが、そんな場合ではなかったことをすぐに思い出した。ぴんと背筋を伸ばし、なるべく優雅に礼を取る。

「は……はじめまして。わたくし、リーナ・シャロットと申し──」

 少々とりのぼせて、どもりながら挨拶の言葉を口にしかけたが、青年は広げた手の平を見せて、それを遮った。

「リーナ様ですね。私、ユージン様にお仕えしている、エリックという者です」

 それを聞いて、リーナは肩から力を抜く。

 このヴァッセル家の若き当主、そして自分の夫となる予定の人の名は、ユージン・ヴァッセル。ではこの青年は、当主本人ではないということだ。

「あの……ユージン様は、お忙しいのでしょうか。それでしたら、わざわざお手を煩わせていただかなくとも、ご挨拶はのちほど改めて……」

 もしかして、会いたくない、と拒絶されているのだったらどうしよう。その不安と心配に、しょんぼりと眉を下げながら提案してみる。そうだとしたら悲しいことだけれど、考えてみたら、こちらに着いてすぐに会うのが当然のように思っていたリーナも、傲慢だったかもしれない。

「いいえ、ユージン様はリーナ様にお会いになります」

 エリックと名乗った青年はすぱすぱとした物言いで言った。顔半分が隠れているのでよく見えないのだけれど、外に出ている左のグレイの瞳はとても涼やかで、理知的だった。きっと、当主の傍らで仕事をし、その支えとなっている、有能な若者なのだろう。

 お会いいただける、とリーナはほっとしたが、続くエリックの言葉に、またも困惑した。

「ユージン様は、こちらにいらっしゃいます」

「え……あの、もうすぐいらっしゃる、ということですか?」

「いいえ。今現在、こちらにいらっしゃいます」

「は?」

 実家で叩きこまれた淑女としての振る舞いも忘れて、素でぽかんとしてしまう。きょろきょろと周囲を見回した。こちらにって……どちらに? ひょっとして、棚の中に隠れていらっしゃる?

 エリックはひとつ咳払いをしてから、恭しい手つきで、連れている犬をリーナに向かって指し示した。

「──このお方が、ユージン・ヴァッセル様でございます」



          ***



「どうなってる! 一カ月だぞ!」

 ブロンドの髪で顔半分を覆った青年は、憤懣やるかたない様子で机に掌を叩きつけた。

 領主執務室には、彼と、この屋敷の執事であるハワードしかいない。執務室のドアは厚みのある重々しいドアなので、怒鳴り声も部屋の外に洩れる気遣いはないだろう。

「一カ月! 一カ月だ! どうしてリーナは、未だに何も気づかないままなんだ!」

 青年は掌で怒りを表明しただけでは飽き足らず、今度は足を動かして部屋中をぐるぐると廻りはじめた。

 三周目まで黙って見てから、ハワードはゆったりと忠告することにした。

「あと二周したら、目が廻ってご気分が悪くなってしまいますよ、坊っちゃん──いえ、ユージン様」

 ハワードは先代当主の若い頃からこの屋敷に仕えていた執事なので、うっかりすると昔の呼称がそのまま口をついて出る。代替わりしてから気をつけているのだが、普段は大人びている青年が、たまにこういう子供っぽい部分を覗かせたりすると、途端にその呼び名も戻ってきてしまうのだ。

「おかしいだろ! おかしいと思わないか、ハワード!」

 食って掛かられるように同意を求められた。まあ、確かに「おかしい」とは思うので、ハワードも大きく頷く。

「リーナ様は、本当に素直なご性格なんでしょうなあ」

「アレを素直って言葉で表現していいのか! 変だろ! 異常だろ! いくらなんでも騙されやすすぎるだろ!」

「騙したのは坊っちゃ──ユージン様ですけどねえ」

「…………」

 青年が言葉に詰まる。ハワードは気にせず続けた。

「ご自分がユージン様ご本人であることをお隠しになって」

「…………」

「エリック、などという架空の人間になりきって」

「…………」

「……あまつさえ、あのようなバカバカしい嘘を」

「そうだよ! バカバカしい嘘なんだよ! どう考えてもそうだろ!」

 はあーとため息交じりに呆れた顔をしたハワードに、何を思ったか「エリック」と名乗った青年──ユージン・ヴァッセルは勢いよく同意した。


「犬がこの屋敷の当主だなんて! 数年前、呪いにかかってこんな姿になってしまい、以来、人目を避け続けて暮らして来た、なんて!」


 ぴたっと立ち止まり、もう一度、バンと音を立てて机を掌で叩きつける。

「信じるなんて思わないだろ、普通!」

 ふうー、とハワードは再び深いため息をつく。

「見事にお信じになられましたなあ」

 あの時のリーナの顔と、その後の成り行きを思い返すたび、胸がちくちく痛んでくる。ハワードはもういいトシなので、心臓に負担がかかるようなことは出来る限り遠慮したいのだが。

 この屋敷の当主が、呪いのせいで犬の姿になってしまった、というアホくさい嘘に、ころっと騙されたリーナ。

 涙まで浮かべて、おいたわしい、と犬に抱きつかんばかりに同情し、そうですのそれでずっとお屋敷に引きこもって誰にも会おうとなさいませんでしたのね! と心から納得し、これからはわたくしがずっとユージン様のおそばにいます、と健気に決意を固め、ええもちろんこの命に代えても秘密は守り通しますわ! と誰もそんなこと言ってないのに勝手に誓いまで立てたリーナ。

 ……ハワードは見ていて、罪悪感で潰されそうだった。もういいトシなのに。

「どうして、よりにもよってあんな嘘をついたりなさったんです」

 恨み言のようなハワードの言葉に、ユージンはバンバンと机を叩いた手を止め、むっと口を噤んだ。

「──だから、信じるとは思わなかった」

「ではどうなると?」

「こんなつまらない悪趣味なことをされたら、普通はまず怒るだろ。馬鹿にされた、愚弄されたって、頭に来るに決まってる。俺なら、屋敷を飛び出して家に帰って自分の親に訴える。……それでこの話は、ご破算になるかと」

「ご結婚のお話が」

「そう」

「坊っちゃ……ユージン様は、幼い頃から賢いご性質でいらっしゃるのに、時々バカみたいなことをなさいますなあ」

「悪かったな!」

 赤くなってむくれた若い当主に、ハワードは三度目のため息を吐き出す。

 この主人が、親同士で勝手に決められた結婚話を、ずっとイヤがっていたのはよく知っている。屋敷内でも信頼した数人くらいしか顔を合わさず、あとは自分の部屋か執務室にこもって黙々と仕事ばかりしているのも、とにかく人に自分を見られたくはないからだ、ということもまた、よく知っている。そんな彼が、誰かと夫婦になって生活を共にする、なんていうのは、ほとんど恐怖に近い苦痛であったろうとも容易に想像できる。


 ──もとは、闊達で、人懐っこい性格の、可愛らしい子供であったのだが。


 数年前、先代当主が事故に遭った時、一緒にいたユージンも巻き添えとなった。先代は亡くなり、ユージンは顔に大怪我を負った。髪の毛で隠してはいるが、その下には現在、爛れたような酷い傷跡がある。それを見た人々が向ける、憐れみの視線と嫌悪感に耐えられなくなって、ユージンはすっかり厭世家になり、屋敷からほとんど外にも出なくなった。

 先代の約束が残っていたため、結婚の話自体は断れなかったが、あちらが勝手に怒って出て行く分には知ったことじゃない、というヤケクソのような気持ちもあって、今回のような暴挙に出たのだろう。あるいは、その顔を見せて、「それが理由で」厭われるよりはそちらのほうがいい、と思ったか。

 それほどまでに、今やこの青年の心は暗く荒んでしまっている。

 しかし、犬とは。

 いくらでもやりようはあるだろうに、犬とは。

「……リーナ様とユージン様は、それはそれは仲睦まじくお過ごしで」

「ユージン様って呼ぶな! あれは犬! 俺の飼い犬のジョセフ!」

「屋敷の者も、すっかりジョセフをユージン様とお呼びするのに慣れてしまって」

 犬を主人として扱うように、という命令を出したのは、他ならぬここにいるユージン本人である。最初は困惑していた使用人たちも、一カ月も経った最近は、もう犬に向かってなんら違和感なく「ユージン様」と呼びかけるようになった。それもいかがなものかと思うのだが、命令なのだから仕方ない。ジョセフのほうも、その名で呼ばれて、わん! と元気よく返事をすることだし。

「おかしいだろ! 犬なのに! なんでリーナとずっと一緒にいるんだよ!」

「そこがリーナ様のすごいところですなあ」

 なにしろ、「夫婦となるからには、まずは互いの理解を深めないと」というリーナの考えで、あの二人、じゃなかった一人と一匹は、この一カ月間、朝から晩までずーっと共に過ごしているのである。

 食事も同じテーブルで、ユージン(犬)が零したり汚したりしようものなら、せっせと甲斐甲斐しく拭いたり食べさせたり。天気のいい日はユージン(犬)と仲良く屋敷の庭を駆け回り、雨の日にはユージン(犬)と同じ部屋で身を寄せ合って本を読み聞かせていたりする。妻の鑑である。ハワードはうっかり泣きそうになったこともある。相手は正真正銘、犬なのに。

「最近、ジョセフが俺に勝ち誇った顔を向けるようになった」

「犬です」

「寝室もリーナと一緒ってどういうことだよ、ジョセフがそう要求したのか?」

「犬ですよ」

「もしかしてあいつ、立場を利用してリーナにいかがわしいことを」

「犬ですってば」

 ぶつぶつと頭の茹だったことを呟くユージンの姿に、別の意味で涙を誘われる。先日、リーナが突然はっと気づいた顔をして、「そういえば、旦那様はお洋服をお召しでは……じゃあ今のお姿は……」と頬を赤らめていたことは黙っていよう。

 二階にある執務室の窓からは、ちょうどリーナとユージン(犬)が庭で戯れているところがよく見えた。

「旦那様ー、わたくしを捕まえてごらんになってー」

 などと言いながら笑って駆け回るリーナと、それを追うユージン(犬)の姿は、なんとなく恋人同士のそれにも見えてしまう。人間のほうのユージンが窓の下のその光景に目をやり、机の上に置いてあった書類を破れんばかりに強くぎゅうっと握りしめた。

「ほーら旦那様ー、取っていらしてー」

 と言いながら木の棒を投げるリーナは楽しそうだ。旦那様に対してそれはどうかな、とハワードは思わなくもないが、それさえも人間のユージンは僻んだ目をして睨みつけている。あれが羨ましいですか、そうですか。


「……そろそろ、本当のことを仰っては?」


 もう何度目かもよく判らなくなったため息を出しながらハワードがそう言うと、窓の外を見つめているユージンの背中がぴくりと揺れた。

「もうユージン様もお判りなのでしょう。リーナ様は、決して、見た目で人を判断なさるようなことはしない方だと。たとえ犬であろうと、誠心誠意、真正面から向き合って、相手のことを理解しようという、黄金の心をお持ちの方です。ユージン様の伴侶として、あの方以上の女性は、他にはいらっしゃいますまい」

「…………」

 ユージンの背中はそれきり動かない。

 外からは、リーナの笑い声が響いてくる。

 この屋敷がこんなにも明るい空気に満たされたのは、一体何年ぶりのことだろう。ハワードをはじめ、使用人たちも、みな、単純だけれど純粋なリーナのことが大好きだ。彼女をヴァッセル家の奥方として盛り立てていくことに、なんの異存もない。

「お一人で、このような見知らぬ地へやって来るのは、どんなにか寂しく、心細かったことでしょうなあ。それでも、夫となるユージン様とこの地で人生を送ろうという固い決心を抱いて、リーナ様は来られたのですよ。ユージン様はそのお気持ちにお応えにならなくて、よろしいのですか」

「…………」

 ユージンは身じろぎせずに黙り込んだ。

 しばらくして、「──でも」と、ぽつりと言った。


「……リーナは、怒るんじゃないかな」


「はい?」

「今さら、本当のことを言ったら、これまで騙されていたことを怒るんじゃないかな。泣くかもしれない。軽蔑するかもしれない。俺のことも、この屋敷のみんなのことも、ディンズデールのことも、嫌いになるかもしれない。その時こそ、ここを出て行く、って言いだすんじゃないかな……」

 それが怖いのだと、ユージンは小さな声で呟いた。

 リーナを怒らせて、出て行かせようとしていた本人が、一カ月経った今、なによりそれを怯えている。

「──この間、リーナに、俺の顔の傷を見せたよ」

 静かな口調で言われて、ハワードははっと胸を衝かれた。こちらに背中を向けている主人の顔は見えないけれど、その行動が、彼にとってどれほど勇気を必要としたものだったかは判る。もう長いこと、彼は執事の自分にさえ、髪の下の素顔を晒したことはなかったのだ。

「……リーナ様は、なんと」

「最初は、驚いてた。それからすぐに、自分のほうが痛そうな顔になった。彼女のお祖父さんは、足に大きな傷があって、それが雨の日とかにはしくしく痛むんだって。エリックはそんなことはないですか? って心配そうに聞かれたよ」

 もう痛みはない、と返すと、リーナは安心したように目元を和らげたという。

「この傷跡を見て、気味が悪そうな顔をする人間は多かったけど、そうやって笑いかけられたのは、はじめてだった」

 淡々と言いながら、ユージンはずっと、窓の向こうに視線を据えている。

「自分は大した病気も怪我もせずに成長してきたから、そういう痛みに対して想像するしか出来ないんだって、リーナは言った。知らないということはどうしても鈍感になってしまいがちだから、出来るだけ言葉にして教えてもらえると嬉しい、って言ってた。自分も自分の知っていることは、なるべく口にしていくからって」


 ──そうやって、少しずつ、あなたとも判り合えるといいのですけど。

 と言いながら恥ずかしそうに微笑んだリーナを、今のユージンは、失いたくないと思っている。


「それがすべてではありませんか」

 ハワードがきっぱり言うと、ユージンがようやく振り返った。

「なにもかも本当のことを打ち明けて、謝りなさい。まずはそこからです。怒っても、泣かれても、呆れられても、判り合うことを諦めずに、少しずつ話し合いをして距離を縮めていくしかないでしょう。リーナ様は、話も聞かずに屋敷を飛び出して行くような短慮なお方ではないと、ユージン様ももうご存知なのでは?」

 彼は彼で、「ユージン」としてではなかったけれど、「ユージンの右腕のエリック」として、ずっとリーナのそばにいたのだから。

「…………」

 ユージンはそのままじっとハワードを見つめてから、左目に決意の色をたたえて、こっくりとひとつ頷くと、領主執務室のドアを開け、庭へと出て行った。



          ***



 ──その後。

 ディンズデールでは、若い領主夫妻が連れだって、仲良く領地視察をする光景がよく見られた。

 二人の姿は領民たちをほのぼのと微笑ましい気分にさせたが、奥方は、なぜか時々、近くにぴったり寄り添う白い大型犬に「旦那様」と無邪気に呼びかけて、「まあ、わたくしったら間違えました」と隣の夫に向き直るということをして、彼らの首を傾げさせもした。

 いつもは妻に甘々な領主だが、その時ばかりは、毎回、バツの悪そうな顔つきでそっぽを向く。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ