続・常夏荘の人々
一部、下品です。引き続きいろいろとすみません。
(録音開始)
えー、コホン。
僕、セラム・ディオ・アンドリューは、この世界の人間ではない。
もといた世界では、僕はさる王国の、第一王子という立場にあった。父王は良く国を治めている大変立派な方で、母王妃も、美しく優雅で教養もある、非常に素晴らしい方だった。
その世界は、この世界とは違い、普通に魔法というものが存在していて、それは時に脅威になることもあったけれど、上手に使いこなせばとても便利で、国に恩恵をもたらしてくれるものでもあった。国の住人すべてが魔法を使いこなせるかというとそういうわけではなく、生まれつき魔力を宿した人々が専門の訓練を受けて、その道のスペシャリストになるということだ。それには無論こまごまとした制約などが決められており、国としても彼らの対応には細心の注意を払うことが必要になってくるから、父王はその点について非常に……えっ、なに、こーこさん。
巻け? 巻くってなに? 紐? 海苔? あっ、あー、話を早めろってこと? 余計なことは省略? ひどいよ、こーこさん! もとの世界については僕の生い立ちに関わる重要な……うん……わかった……
とにかく、こことは違う世界に生まれ育った僕は、ある日、勇者召喚の儀式の際の事故によって……ええっ、ここも省略?!
でもここを省略しちゃうと、僕とこーこさんの出会いの部分が語れないよ? えっ、要らない? どうして?! 僕、美しくもロマンチックな二人の最初の出会いについては、二時間くらいかけて語る用意があるよ! よりよい演出をするために、こうしてメモだって十数枚も準備して、途中で流すBGMだってちゃんと……ああっ! こーこさんがメモに煙草を押しつけて燃やした! 僕らの愛のBGMをみっちり詰め込んだCD割った! ひどい!
もう、そんなことしたら危ないよ! こーこさん、煙草の取り扱いには気をつけてっていつも言ってるでしょう! 火事になったらどうするのさ。一度火がついたら、こんなオンボロアパート、一瞬で全焼だよ!
大体、こーこさんは煙草ばっかり吸うわりに、後始末がいい加減だと、僕思うんだよね。灰皿の吸い殻だって溜まったら流しの三角コーナーに捨てちゃうし。どうせゴミだし湿ってるから燃える心配がなくて一石二鳥って、そういう問題じゃないと思うな。だって煙草ってそもそも人体に有害なんだよ? それを食べ物のたくさんある台所にポイ捨てなんて危険だよ。嫌な臭いだってするし、黒い灰が流れて汚くなるし、その行為は地球に優しくない。僕なんて、食器を洗うのでさえ、気を遣ってエコ洗剤使ってるのに、意味がなくなるじゃないか。こーこさんは女性としてその無神経なところをちょっと直したほうがいいと……いたいっ!
いたっ! いたいよ、こーこさん! 殴らないで! うわあん!
(中断)
……うん。うん、わかった、もう泣かないよ……。このアイス、美味しいね、こーこさん。もう一回、頭撫でてくれる?
えーと、それで、どこまでいったっけ。そうそう、僕とこーこさんの出会いについて……は、また次の機会にするとして……睨まないで! それを語るのは、僕一人の時にするから! ええと、とにかくいろんな経緯と事情を乗り越え、こうして常夏荘のこーこさんの部屋で一緒に暮らすことになった僕は、そろそろもう少し世間を知ったほうがいいということで、社会勉強のため、アルバイトを始めてみることになりました。これでいい? こーこさん。
実際に外に出て働いてみたら、いろんな発見や失敗もあるだろうし、それを記録しておくと、今後に活かされて成長も早くなる、というこーこさんのアドバイスに従い、こうして日記代わりに録音しておこうと決めました。僕、こっちの文字は読めるけど、書いたりキーボードで打ったりするのはまだあまり上手じゃなくて、時間がかかっちゃうんだよね。声だけなら早いし……あっ、どこ行くのこーこさん、僕の話まだ終わってないよ?!
え、飽きた?! ひどい、ひどいよこーこさん! 僕、はじめてのアルバイト経験を前に、すごく不安で居ても立ってもいられないくらいに緊張して……えっ、ケーキがあるの? わあ、あの店のチーズケーキだ! 美味しいんだよね、これ! 甘いものが嫌いなこーこさんでも食べられる……あ、紅茶? うん、僕が淹れるよ! もーダメだよティーバッグなんて! 紅茶はやっぱり茶葉を蒸らしてゆっくり楽しむのが……え、なに? ティーバック? だから今紅茶を……違う? 下着?
わああああダメだよこーこさん! 見たいかって……いやそれは見たいけど、じゃなくて、それは若い女性が煙草を咥えながら平然とした顔で言うような冗談じゃありません! ちょっとそこに正座しなさい! こーこさんは日本人女性としての慎みを……わあん、いたい!
(録音終了)
***
<コンビニ>
そんなわけで、このコンビニでのバイトは、僕にとってのはじめての経験だ。
ドキドキするけれど、幸い、店長さんはいい人だし、同じバイト仲間の人たちもみんな優しくしてくれる。この国の人たちとは異なっている僕の外観も、「外国人留学生」ということで、案外あっさり納得してもらえた。まだちょっと馴染めないこちらの世界の習慣や常識なども、「外国人なんだからしょーがないかー」と大目に見てもらっている。ああ、なんて天使のように善良な人たちなんだろう! 僕の愛するこーこさんなんて、「いっそボーズ頭にすりゃその金髪も目立たないんじゃないの」なんて冷たいことを真顔で言ってたよ!
お客さんも、レジにいる僕を見ると、みんな一瞬ぎょっとしたような顔をするけれど、おおむね寛大に目を逸らして、僕の髪や目を見ないフリでやり過ごしてくれていた。これがきっと、日本人特有の、「立ち入らない文化」というやつなのだろう。この国では、他人のプライバシーにズケズケ踏み込むのは、あまり美しくないことだとされているのだ。
若い女の子たちは特に心が広くて、いろんなことを話しかけてくれたりする。握手も求められたし、写メも撮られたりした。とてもフレンドリーだ。ニコッと笑うたび、きゃあっという歓声があがるのは、この国の人々の厚意の表しかたなのかもしれない。そういえば、テレビでも、男性や女性がきゃあきゃあ言われているもんなあ。
仕事はあれこれと覚えなきゃいけないことがあって忙しかったし、失敗もよくしたけれど、こーこさんに言われたとおり「ハイ、ハイ」とニコニコして、時々「ワタシ日本語ワカリマセーン」と答えていれば大体すんなり解決した。さすがこーこさん。バリバリのキャリアウーマンだけあって、僕にはよく判らない処世術に長けている。
そんなこんなでバイトを一週間ほど続けて、これなら、なんとかやっていけるかな? と、少しずつ働くことに対する自信が芽生え始めた頃。
そのお客さんはやって来た。
「……すみません……」
という低い声を、僕は最初、幻聴かと思った。
だってそうだろう、レジのところにいる僕の目の前には、誰の姿もなかったんだから。ん? と首を傾げ、きょろきょろしてみたけれど、どう見ても誰もいない。気のせいかな、と思い、着けているコンビニのエプロンをちょっと引っ張って直していたら──
「……すみません……」
やっぱり聞こえた。
え、なに? とまたきょろきょろする。カウンターの前には誰も立っていなくて、僕はちょっと怖くなってきた。時計を見れば、今は深夜の二時。コンビニ強盗への対処の仕方は教わったけど、幽霊への対処の仕方は教わらなかった。
その時だ。
カウンターの「下」から、頭の上半分と、ぎょろりとした目玉が覗いた。
「ぎゃっ!!」
勢いよくのけ反って、後ろに置いてあったレンジに後頭部を思いきりぶつけた。目から火花が出たが、脳内もスパーク状態だ。ゆゆゆ幽霊だ幽霊だ、こーこさんのウソつき、DVDのアレは作りものだって言ってたくせに! ホントにいるじゃないか、呪いのビデオテープの中に住んでいてずるりと這いながらテレビから出てくる長い髪のお化けが!
「……すみません、肉マンください……」
お化けが肉マン買おうとしてるーー!!
って、え?
失神しかけていた僕は、そこでようやく、その声が聞き覚えのあるものだということに気がついた。
涙目で、顔は強張ったままだけれど、なんとか恐怖の叫びを喉の奥へと押し込み、その代わり、震える声で確認する。
「あ、あの、ひょっとして、か、狩戸さん……?」
「そうですが、なにか……? 肉マンください……」
相変わらずカウンターの下から顔の上半分だけを覗かせて、ぎょろぎょろと目を血走らせながら注文を出すその人は、幽霊ではなく、常夏荘四号室の住人、狩戸さんだった。
「ど、どうして、普通に立ってくれないんです……?」
「これが私の普通です……本当は極力人とは関わりたくないので、買い物もあまりしないようにしているのですが……今夜はどうしても無性に肉マンが食べたくなり……」
夜中に特定のものが食べたくなって、どうしても我慢ならなくなる、という気持ちは僕にも判る。でも、なにもそんな、カウンターの前でしゃがみ込み、ぜーぜーと死にそうになりながら、肉マン買いに来なくても……
「に、肉マンですね……百六十円です……」
同じアパートの住人とはいえ、僕は未だに、狩戸さんの顔全体を見たことがない。ぎょろぎょろと動く目にかなりビビりながら、ほかほかと温かい肉マンを袋に入れて差し出す。
その途端、がつっと骨ばった白い手が伸びてきて、ひっ、と息を呑んだ。怖い! もとの世界にいた黒魔女よりも怖い! 今にも掴まれて地獄の底へと引きずり込まれそう!
「……お釣り……ください……」
その手には、五百円硬貨が握られている。
「はははははい、お釣りですね、しゃんびゃくよんじゅうえんのおかえしです……」
怖くて呂律も廻らなくなってきたが、レジだけは根性で打った。
ぶるぶると震える指で、狩戸さんの手から五百円硬貨を抜き取り、百円硬貨と十円硬貨を代わりに渡す。そうしたら、まるで熱湯にでも触れたように狩戸さんの手が跳ねて、僕もびくっとした。
「さ……触った……」
「え、あ、あの、すみません、でも、お釣り……」
「触った……金髪碧眼イケメン男子の指が……私の手に……手に……」
がくがくと手が揺れ、半分だけ見える頭もぐらぐらと揺れ始める。かっと目が見開かれ、僕は気絶寸前だ。
狩戸さんは、ぎろりと僕を睨みつけると、ぽっと頬を染め、そのまま姿勢を低くした格好で、ささささと蛇のように店から走り去った。手に、肉マンを入れた袋を持って。
「私に惚れたら呪ってやるううううう~~~!!」
「なんでえええ?!」
その後、この店は、「蛇女に呪われたコンビニ」という噂がネットに流れ、がくんと評判を落とし、客足が遠ざかった。
僕はクビになった。
<レンタルビデオ>
次に僕が始めたのは、レンタルビデオ店のバイトだった。
ここでもコンビニと同様、覚えることはたくさんあったし、仕事の内容以外にも、映画のDVDのタイトルが判らないと困ることもあったりして、それなりに大変だったけれど、頑張って働いた。
他のバイトさんたちも、とても親切だった。お客さんに聞かれて僕が困っていると、女性店員さんたちが先を争うようにして助けに来てくれる。さすが武士の国、日本。現代は若者たちのモラルが低下した、なんて嘆きも聞くけれど、まだまだ義理人情に篤い国民性は残っているんだなあ。
そうして一週間くらい経って、なんとか慣れ始めてきたかな、と思った頃。
僕は、とある客についての噂話を耳にした。
「んもー、ホントにイヤ、あの客」
「気持ち悪いよね、さっさと警察に捕まっちゃえばいいのに」
女性のバイトさんたちがひそひそこそこそとしているその内緒話には、なんだか不穏な言葉までが混じっている。客とのトラブルは多々あるけれど、警察に捕まっちゃえばいい、とまで言うとはよほど深刻な事態なんだろうか、と心配になり、僕は控えめに問いかけてみることにした。
「あのう、何かありましたか」
顔を寄せて話している二人の女性のほうに、僕も顔を近づけると、彼女たちは驚いたように短く声を上げて、ぱっと離れた。
「ごめんなさい、びっくりさせてしまいました?」
「あ、ううん、いやちょっとびっくりしたけど」
謝ると、彼女らは二人揃って頬を赤く染め、うふふあははという不自然な笑いを顔に貼りつけた。女性同士の会話に割って入るのはマナー違反だったかな。二人は、なぜか顔だけニコヤカにこちらを向きながら、お互いにがつんがつんと肘をぶつけ合っている。痛くないんだろうか。
「何か困ったことがありましたか」
「ええーとお、困ったことっていうかあー、なんかイヤだなあーって」
今ひとつ要領を得ない返事だな。イヤ、という言葉のわりに、僕を見つめるその顔は喜色満面でぴかぴかと輝いているように見えるし。
「あのね実はね、ちょっと変なお客さんがいてね」
「そうそう、その人がもう、気持ち悪くって」
食いつくように交互に話す彼女たちの話を要約すると、どうもその「変な客」というのは、週に一度くらいの頻度で現れる男性で、借りていくDVDは、毎回すべてアダルトなものであるらしい。
まあそんなのは個人の嗜好であるし、他にもそういう男性客は多いので、それだけなら構わない。けれどその客は、借りる時も返す時も、わざわざ店員にタイトルを読ませて確認させる、というのだ。しかも若い女性店員限定で。
まだ十代や二十代の女性が、肉とか汁とか調教とかの単語が入ったタイトルをひとつずつ声に出して読み上げていくのは、耐え難い羞恥があろうと想像できる。なにより苦痛なのが、その客が明らかに、女性店員たちが恥ずかしがるその姿を見て、愉しんでいるところなのだ、という。
「それはひどいですね」
僕は大いに憤慨して言った。なんというえげつないことをする人間がいるのだろう。そんな男には、武士の魂が入っていないに違いない。
「ねっ、イヤでしょ?」
「最低です」
「きっと変質者だと思うのよね。本気でキモい」
「犯罪も同然です。法で裁かれて然るべきです」
「あっ、来た! アレよアレ、セラム君!」
話している最中、まさにその人物が来店したらしい。そんな卑劣で下種な男とはどんなやつだ、と僕はムカムカしながら、女性がこっそりと指で指し示す方向へと顔を向けた。
そして、見た。
最低で、変質者で、本気でキモく、犯罪ギリギリのことをする卑劣で下種な人物──常夏荘三号室の住人、藤作さんを。
「…………」
「セラム君、カウンター行ってくれない? あたしたちアレの相手したくないの」
固まる僕の身体を、女性たちが二人がかりで強引にカウンターへと押しやる。ほとんど突き飛ばされるようにして、僕は藤作さんと向き合った。
「あれっ、なんだよ、セラムじゃん。お前じゃなくて、若い女の店員出してくれよ」
「いらっしゃいませ」
不満そうに口を尖らせる藤作さんに、僕は機械のような微笑を浮かべ、思いきり他人行儀に挨拶をした。背後から、「え、知り合い?」と戸惑うような視線と空気が突き刺さる。いえ違います、ぜんぜん知り合いじゃありません。名前はきっと、胸の名札を見たのでしょう。ワタシ日本語ワカリマセーン。
「なあなあ、女の店員……」
「ご返却ですね、確認いたします」
「ちぇっ、お前なんかに確認されたってつまんねえっての。まーいーや、これね」
差し出されたDVDは、いずれもなかなか凄まじいタイトルのものばかりだったが、僕はなるべく無表情で確認していった。少なくとも今回は、藤作さんの魔の手から、女性店員さんたちを救ったのだから、それでよしとしよう。うん。
「なあ、おい、セラム」
手元に目を落としている僕に、藤作さんがカウンター越しにぐっと身を乗り出してくる。
「お前さ、こうこちゃんと一緒に住んでさ、いろいろと楽しい思いしてんだろ。なあ、それで相談なんだけどさ、こうこちゃんのパンツ、一枚売ってくんない?」
ガタッ、と積んでいたDVDを崩した。
「こうこちゃんのことだから、色は赤とか黒とか紫とか、そんな感じ?」
「…………」
「いや案外あのテのタイプは、レースとかに憧れ持ってたりしてなあ」
「…………」
「もちろん金は払うからさ。あっ、言っとくけど、新品はカンベンしろよ。ちゃんと使用済みのやつな」
「…………」
「ホントは脱いですぐのやつが、いちばんいいんだけどな……ぐふふふふ」
そこで僕の我慢が限界を超えた。バンッ、と音を立ててカウンターを手で叩く。
「いい加減にしてくださいっ! パンツは断じて売りません! 使用済みなんてもってのほかです! こーこさんの大事な赤や黒や紫のパンツは、僕が体を張って守ってみせますっっ!!」
店中に響き渡るような音量で絶叫した僕は、女性店員どころかその場にいた全員にドン引きされ、その日のうちに店をクビになった。
<ファミレス>
そろそろ泣きたくなってきたのをなんとかこらえて、次に僕が選んだのはファミレスのバイトだった。
キッチンのほうにしてもらえませんかと希望を出したけれど、その顔を役立てずにどうする、と店長にホール担当に廻された。なんだか、ロクな予感がしない。これが学習ってこと? こーこさんは、経験と反省が今後の成功のモトになる、と言っていたけど、今までの僕の経験って、ホントに役に立つんだろうか。ていうか、僕、何を反省すればいいんだろう?
それでも、一週間くらいはつつがなく過ぎた。ファミレスっていうのは、土日以外は大体ヒマなものらしいけど、僕が入ってからは平日でもやけにお客さんで賑わうようになって、店長もホクホクしていた。頑張れば時給もどんどん上がっていくからな、と言われ、僕も気を取り直し、そうだな頑張ろう、と前向きに考え始めた頃。
不幸な偶然の再会があった。
「あっ、セラムくーん! バイト、がんばってんのね、偉いわねえ~」
テーブルにお冷やを運んだ僕は、そこに座っていたお客さんに、朗らかな声をかけられた。
「鎌田さん」
少しだけ、ほっとする。常夏荘一号室住人の鎌田さんは、外見と中身がちょっと違うというところを別にすれば、あのアパートの中ではまだしもマトモな人だ。中身が違うというのは、本人が黙っていれば判らない。なにしろ外見は、どこからどう見ても、本当に愛らしい女性そのものなのだから。
「いらっしゃいませ。今日は早起きなんですね」
鎌田さんは夜の商売をしているため、普段は、夕方近くまでぐっすり熟睡、という生活スタイルをとっている。こんな陽のさんさんと当たる真っ昼間に姿を見かけることは、滅多にない。
僕の言葉に、鎌田さんはきゃはははと明るく笑った。
「そうなのよお~、寝不足は美容の敵なんだけど、今日はどうしてもお買い物したくってえ! ブティックも深夜まで営業してくれるといいのにね! ついでだから、可愛い男の子を眺めて食事しようと思って、この店に来たのよ!」
にっこり笑われて、僕も「そうですか」と微笑み返す。
あーいいなあ、としみじみした。普通だ。普通に会話ができるって素晴らしい。鎌田さんはちょっと特殊な職に就いているけれど、そんなことは問題じゃない。
「それで、ご注文はお決まりになりましたか?」
「うーん、そうねえ、やっぱりいー、このパンケーキにしようかなあ。可愛いしー」
可愛い、で食べ物を選ぶのは若い女性の特質なのかな。いや正確に言うと、鎌田さんは若い女性ではないのだけど。
「じゃ、このパンケーキとー……あらっ?!」
いきなり、鎌田さんが素っ頓狂な声を上げる。
手元のハンディに注文を入力していた僕がきょとんとして顔を上げると、鎌田さんの目は僕を素通りして、その向こうに据えられていた。
「?」
なんだろうと思いつつ振り返ると、そこにいたのは推定年齢三十代後半の店長だった。あちらはあちらで、僕を素通りして鎌田さんに視線を釘付けにし、しかも蒼白で金縛り状態になっている。
「やっだー、みっちゃんじゃないの!」
みっちゃん?
「あ……あっちゃん……」
あっちゃん?
「いやだあー、見つけたわよ、みっちゃん!」
鎌田さんはそう言うと、席から立ち上がって、すたすたと店長に近寄っていった。すでに逃げ腰になっていた彼の腕を、可愛い外見に似合わぬ力強さで、がしっと掴む。
「逃がさないわよ。こうして見つけたからには、ちゃんと払ってもらおうじゃないの、代金二万六千円!」
「い、いや、あの……」
不敵な笑みを浮かべる鎌田さんとは対照的に、店長は青くなって身を縮め、しどろもどろだ。周りのお客さんたちの目も自然とそこに集まって、僕はおどおどと二人に声をかけた。
「鎌田さん、あの……」
「セラムくーん、ちょっと聞いてよ、この人ったらひどいのよ。うちの店でさ、さんざん飲み食いして踊って騒いで楽しんだ挙句、料金踏み倒して逃げちゃったんだから!」
え。
「それは、あの、食い逃げというやつですか」
「そーよまったく、サイテーよね! 五千円札一枚しか持ってなくてさ、あとはカードで下ろしてくる、って店を出て、そのままドロンよ! 担保にって置いてったブランド時計はバッタもんで、売ることも出来やしない!」
「それは……店長、ちゃんとお金を払ったほうが……」
さすがに弁護できなくて、店長に対してそう言うと、彼はだんだん開き直ってきたのか、きっと眉を吊り上げてこちらを向いた。
「でもよ、お前も変だと思うだろ! 約三万だぞ?! ただちょっと飲んだくらいで、その料金、おかしいだろ! ぼったくりだよ! 悪いのはあっちのほうだ、俺は悪くない!」
「んまあ、なんてこと言うのよ! うちは公明正大に商売してんだから、言いがかりはやめてよね! あんたが自分から飲め飲めって店の子たちに大盤振る舞いしたんじゃないのさ! お酒だって、おつまみだって、うちの店に置いてあるのはちゃんとしたやつばかりなんだから! この店の何が混ざってんだかわかりゃしないよーな、似非ハンバーグもどきと違って!」
やめてください、近くの席でハンバーグ定食を食べていたお客さんの手がピタリと止まりました。
「うるさい! オカマバーのくせに、ちゃんとしたやつもへったくれもあるか! そこにいる従業員全員が、似非女もどきじゃねえか!」
「きいいっ、何よその言い方! そのオカマバーで浮かれてはしゃいで、おまけに尻や胸まで触っていったくせに!」
「黙れ! 俺は絶対にそんな金は払わないからな!」
「てめえふざけんじゃねえぞゴルァ!!」
店長と鎌田さんは、罵り合い、掴み合い、とうとう店の中で取っ組み合いをはじめた。
二人の間に入り、止めようとした僕は、頬を引っ掻かれ、脛を蹴られ、しまいに腹の真ん中に鎌田さんの見事な右ストレートを喰らい、ひっくり返って気を失った。
店長は店をクビになった。その後、奥さんが子供を連れて、実家に帰ってしまったらしい。二万六千円は支払われたのかどうか判らない。
そしてなぜか、僕もクビになった。
<ファーストフード>
ファーストフード店でバイトを始める時には、土下座せんばかりの勢いで、厨房にしてもらった。
ここなら、ひたすらせっせとポテトを揚げたり、バンズに具材を挟んでいけばいいだけなのだから、気が楽だ。暑いのだとか、体に油の匂いが染みこむだとか、けっこう力仕事もあるだとかは、さして苦にならない。僕もそろそろ、働くってことに慣れてきたのかなあ。
たまに女性のお客さんが、厨房の奥にいる僕を見てきゃっきゃと騒いだり、スマホを向けてくることもあったけれど、そういう時はなるべく逃げるようにした。なんとなく、理由の判らない恐怖心がそくそくと湧き上がってくるからだ。
そうやって地味にバイトを続けて一週間。少しならレジにも立てるくらいに、心が回復し始めた頃。
狙いすましたように、やっぱり事件は起きた。
ねえ、お客さんの対応をお願いできない? と厨房にいた僕にそう頼んできたのは、主婦パートの人だった。
「は?」
と僕は目をぱちくりさせる。今はそんなに店は混んでいるわけでもないし、レジも人は足りている。僕が応援に出なきゃいけないほどでもないと思うんだけど……と首を捻ると、彼女は眉を寄せて、「違う違う」と言った。
「なんかねえ、レジの子が、お客さんに絡まれてるみたいなのよね」
「え、クレームですか?」
ますます困惑する。ファーストフードの店はお客さんからのクレームが多いけれど、そういった対応は、マネージャーとかがするものだ。ましてや始めて一週間の新米バイトが、そんな仕事を上手にこなせるはずもない。
「今、マネージャーがいないのよね……っていうか、クレームっていうのとも少し違うの。まあ、見てよ」
そう言われて、こっそり厨房の奥から顔だけ出してレジを窺う。
見えるのは、困ったように足をモジモジと動かしている、若い女の子のバイト店員の後ろ姿だ。そしてその向こうに立っているお客さん──は。
「…………」
常夏荘五号室住人の、卯西さんだった。
「……あの、僕、帰っていいでしょうか」
「なに言ってんのよ! だからあのお客さんに手を焼いてるんだってば! セラム君みたいな顔のいい男の子ならたぶん許される! 行け!」
パートさんは、無責任に僕の背中をぐいぐいと押してくる。僕は全力で足を踏ん張って、それに抵抗した。イヤだああ! レジにいたら、卯西さんが店に入ってきたその瞬間に、すぐ帰ってたのにいいい!
卯西さんは、レジの女の子に向かって、ひたすら「スマイル」を要求していた。
「だからさあー、スマイル0円でしょおー? タダなんだからさあー、君たちももっと積極的にサービスしなきゃいけないと思うんだよねえー。ほらっ、スマイル! スマイル!」
レジの女の子は高校生のはずだが、それでも健気に仕事をしようと頑張っていた。後ろからでは判らないが、ひくひくと引き攣りながらも笑って見せたらしい。
でも、卯西さんは、「うーん、なーんか、違うんだなあー」と、大げさに両手を挙げて肩を竦めた。
首をふるふると振って、おまけに、はあーとため息までついた。
「君の笑顔が、俺の心をとろかすようにステキだったら、たっくさん注文しちゃおうと思ってたんだけどなあー。それくらいじゃあ、せいぜいポテトのSサイズくらいしか頼めないよおー、どうする? ねえねえ、どうする?」
まだ注文もしていないらしい卯西さんは、今度は大きく頭を振って、長い前髪をバッサーと払った。ちっちっちっと指まで振る。
「うーん惜しいなあー、すっごく惜しいよー。君はとっても魅力的だけど、それに自分自身が判っていないんだなあー。あ、俺? 俺はもちろん気づいてるよ? ていうか気づいてるのって、世界中で俺だけかもね! 俺だけが気づいてる君の魅力、けど、まだ言・わ・な・い・よ! ははっ!」
女の子の足のモジモジが、ぴたっと止まった。でもその代わり、ぐっと両の拳が握りしめられた。
「ほらあ、スマイル、スマイル! あっ、やだなあー、ひょっとして、恥ずかしいー? 恥ずかしがっちゃってるうー? そんなもう、気にしちゃダメだよ、いくらここにいるのが俺だからってー! 俺なんてそんな、君が思うほど、いい男じゃないんだからさあ! もう、ホント、ぜんっぜん! ね?!」
ぶっつん、という音がした。
「うるせえとっとと目の前から消え失せろこの野郎ーーー!!」
女の子はそう叫ぶと、後ろで入れていたシェイクをがしっと掴み、卯西さんに向かって投げつけた。
店は大騒ぎになった。あちこちに飛び散ったシェイクを掃除するのは大変な手間だった。女の子はすぐに自発的にバイトを辞めた。パートさんをはじめ、他のバイト仲間は彼女に同情し、「あんたがさっさと行かないから」と揃って僕を非難した。
クビにはならなかったが、僕もそのバイトを辞めた。
***
(録音開始)
うっ……ぐすっ……ひっく……
え、もう録音してるの? う、うん……頑張るよ……えーと、そんなわけで、これまでのバイトはすべて、一週間程度しか続けられなかった、と……ねえ、けど、これって、僕が悪いのかなあ? 僕の根性が足りないせい? 僕ね、僕、一生懸命やったつもりなんだよ……こ、こーこさんに褒めてもらおうと必死だったんだよ……なのにね……
働いて、お金を稼ぐようになれたら一人前、ってこーこさんに言われたけど、僕このままじゃ、いつまで経っても半人前だね。ちゃんとお仕事したいけど……でも、次のバイトを探すまで、しばらくお休みをもらっていい……? なんかね、最近、人と接するのがものすごく怖くなってきて……
僕、役立たずだね。ごめんね、こーこさん。
え? 心配? 誰が? こーこさんが? 違う?
常夏荘のみんなが?
バイトを始めた僕を心配して、様子を見に来てくれたってこと……?
そ、そうかな……あんまりそんな感じには思えなかったけど。でもよくよく考えてみたら、僕のバイト先に入れ代わり立ち代わり住人のみんなが現れるなんて、確かに不自然だよね。
そうなのか……
うん、そうだね、こーこさん。はっきりいって迷惑以外の何物でもなかったけど、怒ったりしてないよ。あの人たち、いろいろと問題はあっても、根っから悪い人たちじゃないんだよね。
え? 同じ境遇だから? どういうこと? なんでもない? そう?
……あー、こーこさんにこうして頭を撫ぜられると、本当に気持ちいいなあー。こういうのを、「幸せ」っていうんだね、こーこさん。なに笑ってんの? 僕、本当に心の底からそう思ってるんだよ!
うん、だからね、決意表明として、こうして記録に残しておこうと思うんだ。
──僕は、きっといつか一人前の男になって、こーこさんを幸せにします。
急がなくてもいいって? ありがとう、こーこさん。僕ね、まだまだ頼りないけど、頑張るからね。こーこさんが、いつまでもそうやって笑っていられるようにね。
ちょっとお休みしたら、またバイトを探すから。今度は、常夏荘のみんなには、秘密でね。悪い人たちじゃないんだけど……あの……やっぱり迷惑なんだよね、あの人たち。
それまではこーこさんのために美味しいご飯を作ったり、こーこさんのために部屋を綺麗に掃除したり、こーこさんのためにお洋服を洗濯したりするよ。ヒモ? 違うよ!
だってね、ちゃんとそれ以外に労働もするんだから!
あのね、管理人のナツメさんのお手伝い。ナツメさんの花壇、あれねえ、ぜんぶ、亡くなった旦那さんが好きだった花が植えられてるんだって。ロマンチックだよね! ただのおっかないケチなお婆さんだと思ってたけど、僕、感激しちゃったよ。だから、その手入れの手伝いをすることにしたんだ。
うーんとね、土や肥料を運んだり、地面を掘り起こしたり、新しい苗を植えたり。この世界でも、苗を植える時に、七色の水をかけたり呪文を唱えたりするんだねえ! そうすると、よく育つんだって。僕の世界の魔女も、そんなことやってたような気がするけど。
でもけっこう重労働だったよ。昨日は、三時間くらいずっと働いて、僕、くたくたになっちゃった。
え? バイト代? あ、うん、お金ね。もちろんもらったよ。
えーと……二百円。
あっ、ちょっと! こーこさん、怖い顔してどこ行くの?! え、ナツメさんのとこ? 大人の話? 折衝?
それって、バットを持っていく必要があるかなあ?!
ちょ、待っ、こーこさん、落ち着いてええーーー!!
(録音終了)