常夏荘の人々
ある休日、同居人がいきなり私の前に正座して、「こーこさん」と改まった表情で名を呼んだ。
「うん? なに?」
私は読んでいた雑誌から目を上げて、相手を見る。ついでに、横の窓のほうを向いて、外に煙を吐き出した。
煙草の白い煙は、開いている窓からふんわりと風に誘われるように外へと出ていき、大気と混じりながら拡散していく。二階の窓から見えるのは、下に植えてあるナナカマドの木の先端だ。真っ白で小さな花が美しく咲いて、艶々とした葉の緑にも、透き通るような青い空にも、秋の鰯雲にもよく似合う。
「鰯が食べたいなあ……」
「こーこさん、僕の話を聞いて?」
「聞いてるって。なに?」
肩の下まである髪をかき上げ、煙草の灰を窓の桟に置いてある灰皿に落としながら問うと、同居人はさらさらとした金色の髪の間に覗く、今日の空のような色をした瞳をこちらにひたと向けた。
「僕は、こーこさんにとっての、何?」
あ? と聞き返す。何を突然言い出したのかと相手の顔をまじまじと見返したが、そこに冗談の雰囲気はカケラもない。くりくりとした大きな瞳、すべすべの白い肌、すらっとした鼻と可憐な唇、外見は完璧な美少年のため、真剣な表情をするとどこか妙に凄味がある。
「何って」
「こーこさんは、僕のことをどういう存在だと思ってるわけ?」
「どうって、まあ……」
煙草を咥えて、一瞬考える。こいつは自分にとって何かと言われて、ぴったり当てはまる言葉というと……
「ペット」
「ペット?!」
ガーン、という擬音が聞こえそうなほど、同居人はショックを受けた顔をした。む? この表現はイカンかったか。
「じゃあ、ヒモ」
「ヒ、ヒモ?!」
さらにガガーンとショックを受けているようだ。なんか面倒くさくなってきたな。
「なんて言ってほしいわけよ」
「えっ……だから、それは……」
同居人はぽっと頬を染めて、乙女のように恥じらった。そこらにいる女の子よりも、そしてこの私よりも、よっぽど可愛らしい。今こいつが着ているのは、私が買い与えた普通のシャツとジーンズだが、頭にリボンをつけてフリフリレースのドレスを着せても似合うと思う。私にはショタ趣味も百合趣味もないので、時々イラッとする。
「そのう……大事な存在、とか、こっ、恋人、とか……」
言いながら、人差し指でカーペットにいくつも「の」の字を描いている。赤くなった頬に手を添えるのはやめんかい。
「恋人っつーのは、もうちょっと対等な関係を言うもんだと思うけど。私が衣食住のすべてを面倒見てるやつは、ペットかヒモとしか言いようがない」
「そんな! だって僕、仕事をしようにもまだ『ここ』のことがよく判らなくて怖いんだもん! こーこさんに養ってもらってるのは悪いと思うけど、その分、洗濯も掃除も料理も頑張ってるよ!」
「だからそういうのをヒモと呼ぶんでしょうが」
「その言い方にはロマンがない! 僕泣いちゃいそう! 大体、僕らまだキスもしてない清い関係なのに!」
「じゃあ、ヤる?」
「若い女性がそんなことを口に出すものじゃありません!」
その後、一時間にわたって、節度とか貞淑とかについてを懇々と説教された。日本人女性としての慎み深さはどこに行ってしまったのと嘆かれた時には、けっこう本気でムカついた。
異世界人のくせに、なに言ってんだ。
***
私が住むアパート「常夏荘」は、見た目からしていかにも崩壊寸前のオンボロアパートだ。
木造二階建て。一階に大家の居室と三室、二階に四室あるが、現在埋まっているのはそのうち五室。六畳二間と流し、あとはかろうじてトイレがあるくらいで、風呂はない。築五十年、メンテナンスもほとんどされないからそこら中が傷んでおり、夏は暑く冬は寒い。大家は未亡人ではあるが若くもなけりゃ美人でもない業突く張りのばあさんであるため、ハッキリ言って良いところはひとつもない。どんな悪徳不動産でも、客に紹介するのを憚ってしまうほどの劣悪物件である。
その常夏荘の門前で、三か月前、私は一人の男を拾った。
雨に打たれて膝を抱え、しくしく泣いていたその若い男は、自分は異世界人だと言った。
どこか別の世界のナンタラ国(忘れた)の王子で、ある日勇者を召喚するための儀式に王と王妃と一緒に同席していたところ、魔方陣にどこか欠陥があったらしく、いきなり暴走を始めて空間に歪みが生じ、ブラックホールのようになったそれに吸い込まれ、気がついたらこの世界に放り出されていたと、そういうことらしい。よく判らないからそのあたりは適当に聞き流しておいた。
とにかく、警察に行ったところでお巡りさんも困るだろうし、本人も病院送りにされるのはイヤだと言うので、私の部屋に連れていって着替えさせ、ご飯を食べさせ、眠らせた。ひっくひっくと泣きながらご飯を頬張る姿は、まさに捨てられた子犬そのものだった。
以来、なんとなく住みついて、面倒を見てやっている。
「そもそも、こーこさんは、どうして僕を拾ってくれる気になったの? あの時はなんて優しい人だと感激したけど、こーこさんて実際、そういう人じゃないよね? どっちかっていうと、自分で働いてなんとかしろボケ、って吐き捨ててとっとと歩いて去っていくタイプだよね?」
「まーね」
否定はしない。私はそういう人間である。
同居人はまた赤くなってモジモジした。
「僕を助ける気になったのは、その、やっぱり、運命的なものを感じたとか、そういう……」
「あんたの名前を聞いたでしょ、あの時」
「え、うん」
「それが気に入ったんだよね。ホラ、有名な煙草メーカーの名前と似てて」
「そんな理由?! せめて顔が気に入ったとかならまだしも、名前?!」
異世界から来た同居人の名前は、セラムという。
「そんな……こーこさんと僕は赤い運命の糸で繋がっていて、こーこさんは僕を見た途端、ビビッときたんだとばっかり……」
「あんた、私が働いてる昼間、一体どうやって過ごしてるわけ?」
拾った時はこの世界の何も判らず、冷蔵庫にもレンジにもいちいちびっくりしていた同居人は、三カ月経った今では、テレビを見ながらごろごろ寛ぎ、携帯ゲームで高得点を出して喜び、深夜までパソコンに張り付いてはネットサーフィンを楽しむ現代っ子になった。その順応性の高さで、どんどんこちらのどうでもいい知識まで吸収し、時には私に説教までしてくる始末である。流しの三角コーナーに煙草の灰を捨てるな、とか。こいつホントに王子か。
「そんなにこっちのことに詳しくなったんなら、外に出て仕事なり何なりすりゃいいじゃないよ。あんた外見はぜんぜん日本人には見えないけど、言葉は普通に通じるんだし、今どきそんなこと、さして気にされないって」
私は現在、派遣社員として外資系の企業で働いている。給料はけっこういいし、ボロいアパートだから家賃は破格に安いので、こんな小僧を養うくらいはわけなく出来る。しかし今まで行ったところが、近所のスーパーと銭湯だけ、というセラムの行動範囲の狭さは、さすがになんとかしたほうがいいんじゃないかと思ってはいるのだ。
「で……でも、僕、ネットでは普通に会話も出来るけど、いざ対人となると上手に喋れないし……リアルな人ってなんか怖いし……」
典型的な引きこもりだな。
「んじゃ、せめて、このアパートの住人に挨拶してみたらどうよ? この時間帯なら、大体揃ってるはずだと思うけど」
「え」
セラムは青い瞳を大きく開いて、口も丸く開けた。今度は、パチクリ、という擬音がつきそうな仕草だった。苛ついて頭を殴ってやったら、わあんひどいよ痛いよ! と可愛く唇を突き出し文句を言った。
「このアパートの住人かあ……そういえば僕、今まで誰とも会ってない」
頭をさすりながら、セラムが考えるように呟く。
「そうだね、ご挨拶はしておいたほうがいいよね。僕とこーこさんの未来のこともあるし……」
「未来は知らないけど、じゃあ、行く?」
こっくりと頷かれて、私は手にしていた煙草を灰皿に押しつけて消した。
「どんな人たちかな。ドキドキするよ」
何も知らないセラムはそう言って、胸に手を当てた。
私はその台詞を聞きながら、知らんぷりで口の端だけを少し上げる。
後悔すんなよ。
***
<五号室・卯西>
私が住んでいるのは七号室。六号室は空室なので、その隣の五号室に行った。
ドアをノックして、少しもったいぶった間を置いて出てきたのは、のっそりと背が高くて、髪が茶色で、顔が平べったく長い男だ。名を卯西という。確か四十の手前。職業は自称イラストレーター。
うちの同居人、とセラムを紹介すると、卯西は目を見開き、薄笑いを浮かべた。
「へえー、なんだ、こうこちゃんって年下好きだったんだあー。あ、なんだ、そーなんだ、へえー。そりゃあ俺の魅力に靡かないわけだあー、なんてね、ははっ」
一人で笑っている卯西は放っておいて、隣のセラムを見ると、かなりオドオドした風情ながら、ちょっとむっとした敵愾心も漂わせていた。なにこの人こーこさんに気があるの? とでも警戒しているらしい。アホだね。
「あ、あの、卯西さんは、どんなお仕事を……?」
意を決したように出した質問に、卯西はまた、ははっ、と笑った。
「え、それ聞いちゃう? 聞いちゃう、それえー? あのね、聞いたらちょっとビックリしちゃうかもよおー。なにしろ俺ってその世界ではけっこー有名? っていうかあー、聞く人が聞いたら、えっマジで?! っていうくらいの人だから、俺ってえー」
「え、そうなんで」
「そうだよおー、知らなきゃけっこー恥かくかもよー、なんてね! ははっ、いやー俺なんかハイだなあー、なにしろ昨夜三時間しか寝てなくて! 三時間なんてまー大したことないんだけどね、俺基準ではね! ははっ!」
卯西はそこで、困惑しているセラムから、そろそろ我慢の限界を迎えようとしている私のほうをくるっと向いた。大きく頭を振って、バッサーと前髪を払う。
「ね、ね、そういえばこうこちゃん、あの話知ってるー?」
「あの話ってなによ」
「え、え、聞いちゃう? それ聞いちゃう? ホントに聞いちゃう? うーんどうしようかなあー、教えちゃおっかなあー、やめよっかなあー」
「なによ」
「あのね?」
「うん」
「やっぱりいー、言・わ・な・い!」
「…………」
私はセラムを振り返った。
「今すぐ部屋に戻って包丁持ってきて。ギンギンに研いであるやつ」
「落ち着いてこーこさん! 殺人はダメだよ捕まるよ! こーこさんがいなくなったら僕生きていけないよ!」
「じゃあ、あんたの世界の魔法でこいつをどっかの山の中に埋めて」
「無理だし! 僕、魔法使えないし! 僕の世界でもそれ普通に犯罪だし!」
<四号室・狩戸>
コンコン、とノックをすると、またもしばらくの間が空いて、ギイ、とドアが開いた。
数センチだけ。
「……なにか……?」
隙間から見えるのは、真っ黒な髪を腰のあたりまで伸ばした、痩せた女だ。私と同年齢の二十七だと聞いたことがあるが、顔色が悪く、全身に気だるげで不健康なオーラをべっとりとまとっているため、下手をすると老婆にも見える。
職業は確か占い師。
「あのさー、これ私の部屋の同居人。ちょっと挨拶したいって言うもんで。これからちょくちょく見かけるだろうけど、不審者じゃないから騒がないでやってよね」
「……同居人……」
狩戸はセラムの姿を頭のてっぺんからつま先まで、じっくりと視線を動かして検分した。ドアの隙間は数センチなので、そこから覗くぎょろぎょろとした目の動きだけが強調される。
その大きい目の、おもに面積を取っているのは白目の部分だ。だから真っ赤に充血しているそれがくわっと見開かれると、かなり恐ろしげなものがあるらしく、セラムは完全にビビッていた。
「よ、よよ、よろしくお願いしま……」
「……若い男……金髪碧眼……美少年……」
泣き出しそうなセラムの挨拶は無視して、狩戸はぼそぼそと呟き続けている。
「……光の世界……闇の住人には縁がない……明るい未来……うっ、眩しくて目が潰れる……」
一通り呟くと、狩戸はセラムにみっちりと据えつけていた視線を私に向けた。それから非常に恨みがましい顔をし、無言でパタンとドアを閉める。
閉じた途端、ドアの向こうから、念仏のような意味不明な唸り声がかすかに洩れ聞こえてきた。
私はやれやれと溜め息をついて、ぽりぽりと頭を掻く。
「あーあ、こりゃ呪われるわ。あとで呪い返しのやり方を調べておかないと」
「呪いってなに?! 呪い返しって?! 怖い! 怖いよ、こーこさん!」
<三号室・藤作>
三号室からは一階だ。階段を降りてすぐのところにある部屋のドアをノックすると、今度はすぐにぱっと開いた。
中から現れたのは、べったりした長髪で、黒縁メガネをかけた、むっちりとした体格の男だ。三十代、職業不明。近くに寄るだけで、むわっとした汗の臭いと体臭が鼻をつく。
「あっ、こうこちゃんじゃないかー! 嬉しいな、また持ってきてくれたの?」
「違うわよ。私の部屋の同居人を紹介しようと思ってさ」
今までまったく隣のセラムが目に入らなかったらしい藤作は、私の言葉でようやくその存在に気づき、露骨に顔を顰めた。
「ええっ、なんだよ、同棲するってこと? つまんねえなあ、こうこちゃん。他の男のものになっちゃうなんて、楽しみが半減だよ」
「他の男のものも何も、もともとあんたのものじゃないし」
「なんだよ冷たいなー。こうこちゃんと僕はもう他人じゃないじゃん。だってさ、だって……」
ぐふふふと気色の悪い笑いを浮かべ、勝ち誇ったようにセラムを見る。セラムは顔色を変え、食って掛かった。
「な、なんですか、他人じゃないって」
「えー、僕の口からは言えないなあー、これは僕とこうこちゃんだけのヒ・ミ」
「パンツが欲しいって言うから、売ってあげたのよ、一万で」
「ええーーー?!」
あっさり言うと、藤作とセラムが同時に驚愕の叫びを上げた。
「ちょ、それそんなに堂々と言っちゃっていいの?! 恥ずかしがる顔を堪能するヒマもない!」
「こーこさん、なんてことを! どんなにお金に困っても、そんな真似はすべきじゃないよ! もっと自分を大切にしないとお父さんもお母さんも僕も泣く!」
「そーお? 別にいいんじゃない?」
私はしれっと続けた。
「だってあれ、庭に落ちてたナツメばーさんのパンツだし。一万を半分に分けたら、ばーさん喜んでたわよ」
ぎゃーーっっ!! と大音響の悲鳴を上げて、藤作が白目を剥いた。
<一号室・鎌田>
「こ、これが最後だよね……?」
セラムが疲れきった風情で言った。この短時間ですっかりげっそりとして、綺麗な目もちょっと虚ろになっている。せっかくの美貌が台無しだ。
「住人はね」
そう返して、コンコン、とノックする。今度もまたすぐにぱっと開いて、中から愛らしい顔がぴょこんと出てきた。
ピンクの髪の毛はポニーテール、小づくりな顔、ぱっちりした目、ぽてっとした唇、すらっと細い身体。ファッションも化粧も今どき流行りのスタイルを抜け目なく取り込んで、そのまま街に出たらすぐにでも男に声をかけられそうだ。
「あっ、こんにちはあー、こうこちゃん! えっ、やだあー、何この子、すっごく可愛いー! こうこちゃんの彼氏?」
はじめてのマトモな対応に、セラムは心底ほっとしたらしい。強張っていた表情をようやく綻ばせ、ぺこんと頭を下げた。
「こ、こんにちは。はじめまして、セラムと申し」
「やだあー可愛いー! ホント可愛いー! ねえねえいくつ?!」
「え、えーと、こちらの数え方でいうと、今年二十三に……」
「やん、あたしと一緒! うふ、あたし、アナタみたいな子、すっごくタイプなの! ねっ、今度、お店にいらっしゃいよ、こうこちゃんと一緒に! きっとモテモテよ! みんな喜ぶわあー!」
「お、お店……」
セラムがおそるおそるというように私を窺ったので、説明してやった。
「接客業の店に勤めてんのよ。言っとくけど、私はお断りだからね。あんたのところは好みじゃない」
「もうー、こうこちゃんたらキツいんだから! でもでも、そんなところもクールでいいわあー! こうこちゃんが来てくれたら、あたしも張り切って踊っちゃう!」
「お、踊り……?」
「あ、若い男の子は知らないか! あのねショーがあんの、そこでみんなで踊ったり歌ったりすんの! 楽しいわよ! あたしなんか毎日毎日が楽しくて、すぐお金使っちゃうもんだから、いっつも金欠よ! あはは!」
「なに、あんた金に困ってんの? だったら藤作がパンツ一万で買ってくれるってよ」
「なっ、ちょっ、こーこさん……!」
セラムは慌てたが、鎌田は嬉しそうに目を輝かせた。
「えっ、なんだそうなの?! やったー、じゃあ今から行ってこよ!」
「脱ぎたてなら三万出すって」
「きゃあラッキー! 新しいスカートが欲しかったのよね! あたしブリーフじゃなくてトランクス派だけど、いいかなあ?!」
「いいんじゃないの、別に」
鎌田は早速きゃっきゃと浮かれて三号室へと向かった。
少しして、ぎゃーーっっ来るなオカマあーーーっっ!!! という藤作の大絶叫が聞こえた。
<大家・ナツメばあさん>
大家まではいいかと思ったのだが、自分の部屋に戻ろうと階段を上りかけたところで見つかった。
「おや、こうこさん」
しゃがれた声を後ろからかけられて、思わずちっと舌打ちする。しょうがないので、くるっと振り向いた。
ナツメばあさんは年齢不詳の年寄りだ。頭は真っ白で腰も曲がり、身長は私の半分くらいしかないが、油断なく光る眼はそこらのチンピラ顔負けの迫力がある。
ばあさんは手に箒とチリトリを持っていた。アパートの庭を掃除していたらしい。敷地だけはまあまああるアパートの建物以外のスペースは、駐車場などではなく、すべて大家の趣味の庭となっている。ナツメばあさんがせっせと世話をする花壇では、「常に」鮮やかな花々が咲き誇り、植えてある木々も「いつでも」生き生きとした美しい花をつける。
「ナツメばーさん、私の同居人のセラム。これからも居着くことになるかもしれないからよろしく」
セラムはそれを聞いてぱっと嬉しそうな顔になったが、すぐに慌ててナツメばあさんに向かい深々とお辞儀をして挨拶した。
「は、はじめまして、セラムと申します。出来るだけ、みなさんにご迷惑をかけないようにしますので」
「ふん」
ナツメばあさんはじろじろとセラムを見て、口を曲げた。
「二人で住むんだったら、家賃も倍貰わないとワリに合わないねえ」
「はあ? なんて強欲な発言よ。こんなとこ、住んでもらってるだけで御の字でしょうが」
「男女が一緒に寝起きするなんて、風紀も乱れるしねえ」
「あんな住人たちばっかりで、今さら風紀もへったくれもないと思うけど」
「痴話喧嘩で壁に穴でも開けたら、自費で弁償だよ」
「穴なんてすでに開いてるけど、修理してくれたことなんてないじゃんよ」
「おおいやだいやだサカリのついた雌猫はうるさくて」
「くそばばあ」
「こ、こーこさん!」
セラムに焦った顔で止めに入られて、ナツメばあさんと私は、ふんっ! とお互いに背を向けた。
***
「濃い人たちだったね……」
部屋に戻ると、セラムがぐったりして言葉を落とした。
私はまた新しい煙草を取り出して火を点け、「まあ、そうね」と同意する。少なくとも、あまり一般的ではないね。
セラムはしかし、拳を握りしめ、気張ったようにむんっと顔を上げた。
「でも、僕、なんだか自信が湧いてきたよ! あの人たちに比べたら、僕のほうがよっぽど常識人だもん! この世界に生まれ育った人たちでああなら、僕のちょっと変わったところくらい、すぐに受け入れてもらえそうな気がする!」
「そりゃよかったわね」
まあ何にしろ、積極的に世間と関わる気になったのはいいことだ。
窓を開けて、白い煙を、ふう、と吐く。
外のナナカマドの白い花を見て、ちょっと笑った。
「……セラム、あんたさ」
「うん? なーに、こーこさん」
「テレビやネットで変なことを覚えるより、植物の勉強をしたほうがいいかもよ」
「え、なんで?」
セラムはきょとんとしたが、私はくっくと笑うだけで、それには答えなかった。
ナナカマドが白い花をつけるのは真夏。
鰯雲が流れる秋に、こんなに満開になるわけがない。
そればかりじゃない、この常夏荘の庭に咲く花は、すべてが夏の花だ。ナツメばあさんが丹精込めて育てている植物は、一年中、それこそ大雪の降る凍えるような真冬でも、狂ったように美しく見事に夏の花を咲かせるのである。
数限りなく入り組んだ時空の、歪みの先にある、常夏荘。
──ここに導かれるのは、みんながみんな、それぞれ異なる世界の住人ばかりだ。
「こちらの世界」に流れ着いた彼らは、はじめは戸惑いつつも、どうにかこうにか、いろんなことに馴染みながら生活することを覚えていく。異世界人にとって妙に居心地のいいこのオンボロアパートで、好きになれるものを探し、安心できる場所を確保して、こちらの人間として、こちらの景色に混じり、少しずつ生きるすべを見つけていく。
その過程で多少道を外れることもあるが、そんなことは大した問題じゃない。
どういうものであれ、みんな、ここでちゃんと自分の人生を歩んでいるのだから。
私もね。
「あっ、でも、仕事を見つけるには、それなりの手続きとかが必要だよね? 僕、戸籍とかないんだけど……どうしよう? そうだ、戸籍がないと、こーこさんと結婚する時も困っちゃうよね?」
「先走りすぎ。誰がいつあんたと結婚するなんて言った?……まあ、戸籍とかそういうことはなんとかなるから、そう気にしなくてもいいわよ」
ナツメばあさんに頼めば、大体のことはなんとかなる。業突く張りだから、ものすごく法外な料金を取られるが。
「そうなんだ……こーこさんはやっぱり頼もしいなあー。僕頑張るからね、こーこさん! ちゃんとした真っ当な大人の男になるからね! この世界で一緒に幸せになろうね!」
真剣に言うセラムに、私は苦笑して、はいはいと答えた。
住人の名前は、ウザい、カルト、倒錯、カマだ。いろいろすみません。