バッテン
藤川家と、吉田家は、お隣同士である。
片や四十代夫婦と男の子二人、片や六十代夫婦の二人暮らし、という家族構成は、通常であれば、たとえお隣同士であっても、何の共通項も見いだせない。しかし藤川家の両親が共働きで、しかも双方ともそれなりのポストに就いていたために、どうしても寂しい思いをさせてしまいがちな二人の男の子たちはお隣の老夫婦に面倒を見てもらうことが多く、それにより両家は普通の近所付き合いよりもかなり濃密な関わりを持っていた。
藤川家の男の子、広実と有紀は赤ん坊の頃からいつも優しくしてくれる吉田の老夫婦のことが大好きだったし、老夫婦のほうも、ずっと以前に一人娘を亡くしているという悲しい過去があったため、彼らを本当の孫のように可愛がっていた。そうやって、両家はそれなりに安定した幸福な関係を築いていたのである。
しかし冬のある日、そこに小さな爆弾が投げ込まれた。
──吉田家に、フランス人の女の子がやって来たのだ。
***
どういう成り行きで、吉田夫妻がその子を預かることになったのか、詳細はよく判らない。しかしまあとにかく、いつもただ「おじいちゃん」と呼ばれてニコニコしている吉田氏が、昔は世界のあちこちを飛び回るような仕事をしていたという事実ははじめて知った。その子は、その頃の知り合いの娘さんであるらしい。
「リル、というの。よろしくね。広実君と同じ齢なのよ」
「…………」
いつものように、こんにちはーと元気に玄関ドアを開けた途端、外人の女の子を吉田のおばあちゃんに紹介され、中学一年の広実と、小学三年の有紀は、揃って目を丸くして固まり、黙り込んだ。
……なんだ、この見たことのない生き物は。
としか、思いようがない。
透き通るような肌は、クラスでいちばん色白の女の子よりもずっと白い。そのくせ、頬はピンク色に染まって健康的だ。今まで一度も間近で見たことなんてない青い目がじっとこちらを向いている。細い栗毛はふわふわして人形のようだった。鼻は小さいのにすらりと高く、ふっくらとした唇が、今にも何かを話したそうにぴくぴくと動いている。
無理だ、と広実は直感的に思った。
いや無理。なんかもう、無理。こんなどこからどこまでも自分の知っている女の子とは違うモノ、関わりたくない。ただでさえクラスの女の子とも距離を置いて接する自分には、絶対的に無理。
強張った顔で隣にいる弟を窺うと、こちらも泣きそうな顔で後ずさり、すでに逃走態勢に入っていた。さすが我が弟、逃げる時は一緒に逃げよう。
「う、ん、わかった、じゃあ今日はこれで」
へどもどしながら広実は吉田家の玄関ドアのノブを掴む。今日は吉田のおじいちゃんおばあちゃんと一緒に夕飯を食べるという約束になっていたのだが、もうそれどころじゃない。がしっと自分の手を取る有紀の小さな手を力強く握り返し、ぴゅうっと走り出そうとした瞬間──
「ヒロミ! ユウキ!」
女の子に、名前を呼ばれた。
両親とも、友達とも、それどころか今までいっぺんだってされたことのない発音で自分の名が出されたことに、硬直する。思わず視線をそちらに向けると、女の子は満面の笑顔で、続けて口を開いた。
「~~~~~! ~~~~~? ~~~~!」
「…………」
うーわー、と広実は泣きそうになった。
なに言ってんだか、さっぱりわかんない……!
学校で習った英語とも、ぜんぜん違う。フランス語なのだろうが、それが挨拶であるのかも、自己紹介であるのかも、逃げるのかこのヘタレがという罵倒であるのかも、まったく不明だ。
女の子は、こちらが石になっているにも関わらず、きらきらと目を輝かせて、なおも意味不明な言語を発し続けている。有紀はさらにぐっと広実の手を握り締めると、混乱しきった表情で、「兄ちゃん、兄ちゃん、なんか言ってる、なんか言ってる」とうわ言のように同じ言葉を繰り返していた。弟よ、兄ちゃんだって、同じことを言いたいんだ。頼むから、なに言ってるの? という質問だけはするなよ。
「会えて嬉しい、と言ってるの。私たちが、よくあなたたちのことを話していたものだから、リルはすっかり興味を持ってしまってね。日本に来ることになって、いちばん楽しみにしてたのは、あなたたち兄弟に会うことだったんですって」
吉田のおばあちゃんが、ニコニコしながら通訳してくれた。おばあちゃんには、この意味不明の何かがちゃんと言語として認識できるらしい、と思うと、そちらのほうが驚きだ。ずっとお世話になって、可愛がってもくれて、本当の祖父母のように大事に思っている吉田家の老夫婦だが、今はなんだか別の惑星の生物に見える。
「仲良くしてもらえたら、私も嬉しいわ。リルはとても素直ないい子なの。日本には一カ月ほど滞在することになるけれど、その間、いろいろと教えてあげてね」
一カ月もこの妙なモノがここにいるのか、と思うと、広実は眩暈を起こしそうになった。両親が不在のことが多い藤川家の兄弟は、しょっちゅう吉田の家に来ては食事をさせてもらったり、宿題をしていったり、テレビを観たり、お風呂まで入っていくこともある。ほとんど自分の家のように入り浸っていたこの場所に、こんな訳のわからない存在が居着くことになるとは。
「でも、俺、フランス語とか、ぜんぜんわかんないし……」
なんとか「近づきたくない」という意思表明をしようとごにょごにょ言い訳をしはじめた時、リルがまた何かを言った。びくっとして言葉を呑み込んだら、彼女はその隙に、裸足のままぴょんと土間に飛び降りた。
そしていきなり、広実の頬にチュッとキスをした。
白い顔がすぐ近くに寄って、ピンク色の唇が頬を掠める。柔らかくて、温かい感触が伝わり、最初は茫然と、そしてすぐにかあっと身体が熱くなった。思考が麻痺して、なんの反応も出来ない。ただひたすら棒立ちになる広実から、女の子はすぐに離れて、今度は弟の有紀に同じことをした。
有紀は、一拍の間を置いて、今度こそ本当に泣き出した。
***
最初の出会いこそ、お互いにとってなんとも不本意なものになってしまったが、それでもその後は、少しずつ距離を縮めていく方向に、考えを改めた。
広実と有紀にとって、吉田の老夫婦は今やかけがえのない自分たちの家族である。幼いなりに、彼らには恩があることも十分承知している。いくら苦手だといって、夫妻の大事なお客である異国の少女を無視したり、冷たくしたりなど出来るわけがない。そういう点、藤川の兄弟は、ごくごく真っ当で健全な心を持った少年たちだった。
相手は滅多に接することのない外国人である。けれども、同じ人間で、同じ子供であることには変わりない。そうやって思考を切り替えた。携帯のゲームに興味を示したり、アニメを観て笑ったり、美味しい食べ物に喜んだりするところは普通の女の子だ。広実も有紀も、ぽつぽつとした調子ではあるが、自分からコンタクトをとってみるという努力をした。あちらもまったく日本語が判らないなりに、吉田夫妻の助けを借りて、藤川の兄弟と意思の疎通を図ろうと、一生懸命だった。
「リル、ゲームやる?」
「~~~~?」
「そう、ゲーム。これはアクションゲームだから、文字が判らなくてもできるだろ?」
「~~~~?」
「下手だな、違うって。これはこう……」
「~~~~!」
「そうそう。上手いじゃん」
そして意外と、言葉が通じなくても、人間同士というのは仲良くなることは可能なのだと知った。リルは陽気な性格で、よく喋り、よく笑った。楽しんでいる、喜んでいる、ということが判れば、それ以外はそう大した問題でもないように思えてしまうのだ。
いや、かえって、言葉が通じない分、無邪気に接することが出来る、という部分もあったかもしれない。広実はどちらかといえば同年代の女の子とは必要最小限しか喋らないほうなのに、一度慣れてしまえば、リルに対してはわりと平気であれこれ話せた。こちらの言葉は日本語のみで、返ってくる言葉は理解できなかったが、大体の気持ちは伝わる。それだけで嬉しくなる。不思議なもので、リルと、学校の女子とは、なんとなく別の生き物のような気がした。
広実という名前は少し発音がしにくいのか、リルが呼ぶと、イロミ、というように聞こえたが、それがなんだか舌足らずでちっちゃな子が甘えているようにも思えて、広実はリルに名を呼ばれると、いつもくすぐったいような気持ちになったりもした。
「ヒロミ、~~~?」
クッキーを差し出して、リルがにっこり笑う。
言葉は判らないけれど、何を言っているのかは判る。ありがとう、と言って受け取ると、また笑って、また何かを言う。リルは日本のお菓子が好きらしい。ぽすんと広実の隣に腰を下ろし、口の中に頬張る姿はホクホクしてやたらと幸せそうだ。広実もなんとなく幸せな気分になってクッキーを食べる。目を見交わして、美味しい、という言葉を日本語とフランス語で言って笑い合う。
そんなことが、ひどく楽しかった。
雪が降った日は、広実と有紀とリルで、吉田家の庭を走り回って遊んだ。ちょっとだけ積もった雪で雪合戦をし、綺麗な場所を見つけて足跡をつけまくる。最初の頃と打って変わって、すっかりリルのことが大好きになってしまった有紀は、まるで犬のようにリルのあとばかりついて廻っている。ハグというものを教わってからは、そればかりをせがんでベタベタくっつく。広実はけっこうムカッとするが、黙っていた。羨ましがってる、などと思われたらシャクだ。
そうやって毎日のように三人で一緒にいて、ご飯を食べたり、ゴロゴロと寝そべったり、頭を寄せ合ってイタズラの相談をしたりすることにも違和感を覚えなくなるほど打ち解けたのだったが、しかしどうしても慣れないことというのも、依然としてあるのだった。
キスだ。
これだけは、どうしても馴染めない。照れるし、恥ずかしい。身をよじって抵抗を示すとリルが世にも悲しげな顔をするので、なるべく心を空にして石になったようにじっと耐える。まだ幼い有紀はすっかりこの異国の習慣に馴染んで、自分の方からもリルの頬にチュッとしたりしているが、思春期一歩手前の中学一年生が、そんなこと出来るはずもなかった。
「ヒロミ、~~~~?」
リルが、自分の頬をちょんと指差して、何かを言っている。これまでの経験で、親愛のシルシをちょうだい、というようなことを言っているのだろうなとは推測できたが、広実は首を横に振った。
「それだけは、カンベンして」
そう言うと、リルがしょんぼりと眉を下げて、広実は胸がちくちくした。
***
けれどその幸福な時間は、はじめの予定通り、一カ月で幕を閉じた。
リルの両親が吉田家に迎えに来た日、広実も有紀も揃って外で彼らを見送った。結局、リルは少しだけ日本語を覚えて、少しだけ日本の習慣を身につけ、少しだけ日本の男の子たちと仲良くなっただけで、フランスへと帰るのだ。
有紀は三日も前から散々駄々をこね、帰っちゃやだ帰っちゃやだと泣き喚いては、両親を困らせていた。年のわりにあまりワガママを言わない有紀が、本当に珍しく手のつけられないほど泣いて暴れて大人の事情に反抗しようとしていた。
今も、ひっくひっくと泣きながら、ずっと地面に顔を向けている。広実は兄として、ほら、ちゃんとサヨナラしないと、あとで後悔するぞと諭したが、実のところ自分だって、喉から声を出すのもしんどいくらいだった。
日本とフランスなんて、一体どれだけ離れているのか、見当もつかない。それくらい、広実にとっては、精神的にも、実質的な距離としても、遠い場所だ。そんなところに住む人間、本当だったら一生の間、話す機会だってなかっただろう。それがどういう縁でか、こうして出会えて、たくさん笑い合うことも出来るようになったのに、こんな風に一方的に引き離される。
遊びの時間は終わりだよ、と。
もう二度と会うこともないだろう。こんなにもつらくて、悲しくて、心臓がぎゅうぎゅう締めつけられて痛いほど苦しいのなら、最初からこんな出会いを用意しなきゃよかったじゃないか。
リルを見ると、いつもピンク色の頬を青白くして、有紀と同じように下を向いていた。鼻が赤い。青い瞳を取り囲む白い部分も赤い。きっと、昨日一晩泣き明かしたんだろう。
「…………」
別れの言葉を出さなければ、というのは判っていた。
さよなら、元気でね、と言ってやらないと。この時のために、広実は昨日、ネットで検索して、フランス語での別れの言葉を探し出し、発音の練習までしたのだ。笑って見送って、リルがこの先も、この地での思い出を楽しいものとして残していけるように。
「……リ」
リル、と呼びかけた言葉が詰まる。喉に蓋がされているみたいだ。ダメだ、どうしても声が出てこない。
そうこうしているうちに、リルの両親は、吉田夫妻への挨拶を終えてしまった。娘の手を引き、さあ行くよ、というように微笑みかける。彼らは広実と有紀の兄弟に、「アリガトウ」と片言の日本語で礼を言ってくれたけれど、広実はちっとも嬉しくなかった。
両親に促され、リルがぽとりと涙を落としてから、背を向けた。
結局、何も話せないままだった。有紀がさらに声を張り上げて泣き叫ぶ。リル、リル、と何度も名前を呼んで、行かないでえ、と涙でぐしゃぐしゃになった泣き顔で懇願した。
リルの後ろ姿が縮む。こちらを振り返りはしなかったけれど、両手を顔に持って覆ったのが判った。風に乗って、細い泣き声が確かに耳に届いた。
その瞬間、頭が沸騰した。
広実はぐっと拳を強く握りしめ、地を蹴って駆けだした。
「リル!」
猛然としたスピードで走り寄り、小さな肩を掴む。びっくりした顔で振り向いたリルの頬に、自分の唇を強く押しつけた。
初めての自分からのキスは、ひどくしょっぱい味がした。
「またね」
リルの目を見て、ゆっくりとそう言う。いつも、吉田の家から、藤川の家に帰る時に口から出していた言葉だから、きっと意味は判るはず。さよなら、という意味とは違うことを、リルだって知っているはず。
また明日。明日は無理かもしれないけど、またいつか。
きっとまた会おう。
リルは涙を止めたまま、ひっくとしゃくり上げた後、ぎゅっと広実に抱きついた。
そしてふわりと広実の頬にキスを返すと、「マタネ、ヒロミ」と、たどたどしい日本語で言った。
***
──現在、藤川広実は高校二年になる。
学校が長期の休みに入るたび両親を説き伏せて日本にやって来るリルとは、しょっちゅうメールでやり取りをしている。最初のうちはほとんどフランス語で書かれてあって広実を何度も徹夜させたそのメールは、今ではかなりの割合で、ローマ字で打たれた日本語が混じるようになった。まだまだ奇っ怪な日本語も多いが、広実のほうで大分フランス語が読めるようになったので、さしたる弊害はない。
……今度の夏休みには、いよいよ広実がフランスへ行くのだ。
今はそのための旅費を稼ぐバイトに明け暮れる毎日である。無理はしちゃダメよ、と可愛いことを言うリルは、でも早く会いたい、などともっと可愛いことを言って広実を浮かれさせる。膨らむ期待とちょっとした不安で、そわそわとした気分は増加する一方だ。
ああそうだ、リルの両親に渡す手土産も買っておかないとな。緊張するが、好印象を持たれるように努力しないと。うん、将来のこともあるしね。
あっちに着いたら、リルの周りに変な野郎がいないか探りも入れておこう。なにしろリルは可愛いし、弟の有紀までが狙っている始末だ。誰がお前みたいな中坊に渡すかっての。昔、俺の目の前でリルにベタベタしていた恨みは深いんだぞ。
いやいや、そんなことよりも前に、リルに会ったら、思いきり抱きしめて、それから、それから……
「あー、早く会って、キスしたい」
広実は今朝届いたばかりのリルからのメールを見て、呟いた。
メールの文末には、広実の心を煽るように、絵文字のバツ印が愛らしく三つ並んでいる。