花売り娘の一日
花売り娘の朝は早い。
まだ窓の外が暗いうちにぱっちりと目を覚ましたニナは、ごそごそと寝床から抜け出すと、ベッドの脇に用意してあった服に手早く着替えた。
くすんだ灰色の、薄汚れたスカートは、最近ぐんと背の伸びたニナには少々きつい。ちょっとくらい丈が短くとも、また破れているわけではないのだから大丈夫だろうと思うのだけれど、これからのことを考えると少しばかり憂鬱だ。ニナは今年で十三、まだ大きくなるのだろうし、いずれ新しいスカートに替えなくてはいけなくなる。その時にはきっと、サラにいい顔をされないであろうことが容易に想像できた。
灰色のスカートの上に、もとは白かったが今ではすっかり灰色になりかかったエプロンをつけて、着替えを済ませる。家の中はまだ寝静まっているので、遠慮がちに冷たい水で顔を洗い、そうっと物音を立てないように移動して、部屋のドアを開けた。
門から出ると、空はまだ暗かった。けれどもすぐに下のほうから白みはじめるだろう。そうなる前には花屋に到着していなければ。ニナは急ぎ足で地面を蹴って、でこぼこ石の転がる道を駆けた。
「花束十個で十ペンダだよ」
花屋の主人は愛想が悪い。息を切らせて店に到着したニナを一瞥することすらなく、そう言い放って手を突きだす。周りには、同じ花売り娘が三人ほどいて、大人しく十ペンダを支払って花の束を買っていた。
三輪ほどの貧相な花が、大雑把に紐で括られ、紙に巻かれた「花束」。この花束を、ひとつ二ペンダで街の通行人たちに売るのだ。首尾よくすべて売り切ることが出来れば、十ペンダの儲け。逆に五束も売ることが出来なければ、花売り娘たちの損失となる。
十ペンダあれば、その日のパンが買える。身銭を切ってまで、その金で花屋から花を買うのは、少しでも多くの収入を得たいからだ。花売り娘たちはみんな、ニナと似たり寄ったりの年齢だったが、どの顔も真剣そのものだった。
ニナも十ペンダを払って、店主から花を買った。買った花は少し萎れかかっているものもあったけれど、そんな文句は言えやしない。少しでも不満を口にしようものなら、店主はニナの手から花束をすべて取り上げ、支払った十ペンダもろとも、ここを去ってしまうだろう。
花売り娘たちは、それぞれ思い詰めた表情で、自らの持ち場へと歩いて行った。
***
「お花、いりませんか。二ペンダです」
空が明るくなりはじめると、街にも活気が出てくる。
石造りの路地に立ち、ニナは一生懸命、人々に向かって声をかけた。職場に向かう人もいれば、これから商売に出る人もいる。慌ただしく通り過ぎる彼らは、誰も、小さな花売り娘のことなど気にかけない。ニナの声なんて聞こえないように通り過ぎていくか、うるさそうに手を振るか、そればかりだ。
朝ではなく、夜だったら、もう少し買い手もあるのだけど……と、ニナは細く息を漏らす。まだ寒いので、口から出るその息は白かった。
仕事を終えて、浮かれた気分でいる人々は、軽い気紛れでぽんと花を買ってくれることが多い。恋人と会う前に、手土産代わりに花を持っていこうと考える人だって少なくない。夜の花売り娘は、同じ花束でも、三ペンダで売っているが、それでも売り切れることがあるという話も聞く。
ニナだって、本当は朝ではなく、夜に花を売りたい。けれど夜は夜で、いろいろとやることがあって、ままならないのだ。与えられた仕事を、そう簡単に放り出すわけにはいかない。ニナは十三歳だけれど、ちゃんと自分のやるべきこと、しなければいけないことくらいは、しっかり弁えていた。
「ひとつ、もらうよ」
かけられた声に胸が高鳴った。そこにいたのは、ニナも顔を知っている、近所のおかみさんだった。彼女の家だって決して裕福というわけではないが、だからこそ家の中くらいは花の匂いがあるといいと考える人で、ニナがここで花を売る時は、いつも買ってくれるのだ。
「ありがとうございます、ニペンダです」
笑顔で礼を言い、お金を受け取る。恰幅のいいおかみさんは、差し出された花を手に取って、にっこりした。
「ああ、ありがとうよ。お互い生活は楽じゃないけどさ、笑いを忘れたらおしまいだからねえ。あんたも頑張るんだよ」
「はい」
返事をすると、おかみさんは顔を寄せて、こっそりと声を潜めた。性質の明るい彼女は、たとえ花売り娘に対しても、気さくにお喋りをしてくれる。
「……あのね、もしもパンを買うんなら、ドッフィーの店はやめたほうがいいね。軒並みパンの店が値上げしてる中で、あそこだけは以前と値段が同じだけど、その代わりに麦の質をどんと落としたんだ。いくらその値段でも、とても食べられたもんじゃない」
「というと……麦の値が上がったんですか」
ニナも眉を寄せて、同じように声を潜める。おかみさんはこっくりと頷いた。
「ひどいもんだね。このところの天候不順があって、麦が不作なのは誰だって知ってる。けどもそれに乗じて、大きな商人が買い占めしてさ。値上がりしてんのは、そのせいなんだよ。値段が上がりきったところで、売ろうって魂胆なんだろうよ」
「まあ……」
顔を顰めたおかみさんは「まったく、ひどいもんさ」ともう一度嘆くように言うと、じゃあ気をおつけ、と言い置いて、自分の家に帰っていった。
その後ろ姿を見ながら、
「麦の買い占め……」
ニナは独り言のように呟いた。
***
お日様がずいぶん上まで昇っても、花は三束しか売れなかった。この分では、四ペンダの損失だ。ニナは溜め息をついた。
昼までこの場所にいたところで、どちらにしろ花が萎れきって売り物にはならない。このあたりが諦め時だろうか、と思う。
帰ろうか、と足を動かしかけたところで、道の向こうから、身なりの良い紳士が歩いてくるのが見えた。嬉しくなって、急いでそちらに駆け寄る。
「お花、いりませんか。二ペンダです」
近づいたニナに、上等なコートを羽織った紳士は、露骨に蔑むような目つきをした。頭のてっぺんから足のつま先まで、ニナの粗末な身なりを見て顔を顰め、汚いものを追い払うようにしっしと手を振る。
「お前のようなものが、私に近づくな。汚らわしい。私は今夜、城の舞踏会に行かねばならんのだぞ。不快な臭いが移ったらどうしてくれる」
「あの、お花……」
「うるさい! 寄るな!」
思いきり、どんっと突き飛ばされた。手加減も、容赦も、まったくないやり方だった。そのままの勢いで倒れていたら、間違いなく石畳に叩きつけられて、頭や手足に、大怪我をしていたところだ。
しかし幸いにも、後ろにいた青年が、倒れかかったニナの身体を、しっかり受け止めてくれた。
紳士は、ふん、と憎らしげにニナと青年を睨み、ぺっと唾を吐いた。
「忌々しい。お前らみたいな、金持ちにたかる虫のようなやつらは、どこか見えない場所に引っ込んでおれ! 目障りだ!」
腹立ちついでにか、持っていたステッキで、ニナを打ち据えようとする。咄嗟に目を閉じたが、それは身体に当たる寸前のところで、後ろでニナを支えてくれていた青年の手によって、ぱしっと掴まれて阻止された。
「ふん、貧乏人め!」
最後に、吐き捨てるようにそう言うと、紳士はくるりと背を向け、ニナたちには一瞥もせずに、その場を立ち去っていく。彼の姿が見えなくなってから、ようやく、固唾を呑んで成り行きを見ていた見物人たちが、わらわらとニナの許へと寄ってきた。
「あんた、大丈夫?」
「子供に、なんて酷いことをするんだろうね」
「相手が悪いよ。近頃になって、メルディ伯は急速に力をつけたという話だもの。お金で爵位を買った成り上がりが、ようやく城の舞踏会にも呼ばれるようになったって、あちこちで吹聴しているらしいよ」
「ああ、今夜の……。まあ、あたしらには関係のない世界の話だけどねえ」
ニナは街の人々の話を耳に入れながら、黙って洋服についた埃を手でパンパンと払い落とした。
いつの間にか、ニナを助けてくれた青年の姿は消えていた。
***
結局、その後も花が売れることはなく、ニナは帰路につくことにした。
街の中心部は人通りも多く活気に溢れているが、そこから外れれば、ぱったりと人影が見えなくなる。下水道の臭いまでが漂ってくるような街はずれにいるのは、浮浪者や、あまりタチのよくない連中ばかりだ。
売れ残った花を持って、そのあたりを歩いていたニナは、いきなり伸びてきた誰かの手によって捕われ、暗い路地裏に引きずり込まれた。
口を塞がれて、助けを求めるヒマもなかった。両手はあっという間に背中に廻されて、逃げることも、反撃することも出来ない。首筋に、生暖かい息遣いと、へへへという忍び笑いがかけられた。
「騒ぐんじゃねえよ、お嬢ちゃん。なあに、ちょっとじっとしてりゃ済むこった」
口を塞がれたまま、ぐいと乱暴に顔の角度を変えさせられる。目に入ったのは、顔色と人相の悪い、背中の曲がった中年男だった。白目の部分がどんよりと濁り、口から吐き出される息は、むわっと酒臭い。
「──へへえ、こりゃあ」
ニナの顔を正面から覗き込み、男の目が意外そうに見開かれる。だらしなく開けられた口元が、にやりと喜悦に歪んだ。
「ずいぶんと別嬪さんだ。色は白いし肌も綺麗だ。こりゃあ、滅多にないほどの上物だ。これなら、俺が楽しんだ後、どこかに高値で売り飛ばして──」
そこで、ぷっつりと言葉が途切れた。
醜悪な喜びに輝いていた表情が止まり、ニナを拘束していた身体の動きも止まる。
うぐ……と一言呻いて、ニナに向かって前のめりに倒れかかる男を、後ろから伸びた手が、ぐっと掴んで引き止めた。
「もう……」
その力強い腕の持ち主である青年は、くずおれる男の体越しに、助けたニナと目を合わせると、
「……もう、勘弁してくださいよ」
と、泣きごとめいた台詞を口にした。
決して敵を見逃さない鋭い目つきは、今は情けなく垂れ下がっている。俊敏な動きと強さに似合わぬ、子供のような不満げな顔で、唇を突きだした。
「うむ、ご苦労だった、カレック」
「ご苦労だった、じゃないんですよ。ホントもうやめてくださいよ。なんでそう次から次へと厄介ごとに巻き込まれるんですか。せめて大人しく花だけ売っててくださいよ」
「私は大人しく花を売っている。厄介ごとが勝手に近づいてくるのだから仕方ないだろう。不可抗力だ」
「ウソだ! 絶対わざとやってるし! メルディのやつを見つけた時の、ニナ様の嬉しそうな顔ったらなかったもん! めちゃめちゃ遠回りになるのに、わざわざこんな街はずれにもやって来て!」
「視察だ」
「ウソつけ! 絶対楽しんでるだろ! 俺がついてると思って!」
「当たり前じゃないか。お前はそのために雇われているんだろうが。高い給料貰っているのだから、グダグダぬかすんじゃない。お前に支払う給料は、国庫ではなく、私の個人的な財産から出されているのだからな、金の分は働け」
「ぜったい騙された! 身分の高い可愛い女の子の個人的な護衛、優しく見守っていればいいだけの簡単なお仕事です、ってことだったのに!」
「人聞きの悪いことを言うな。どこがウソだ。私は可愛く、おまけに身分が高い。なにしろ、一国の王女だからな」
「おかしいだろ! まず、そこが異常だろ! 王女がこんなことすんなよ!」
「仕方あるまい? しきたりだ」
ニーナリティア王女は、平然とそう言って、肩を竦めた。
この国の王室には、昔から、代々伝わるしきたりがある。
──国を担うもの、その配偶者、その子供たち、すべてにおいて、市井に交わることを義務とする。
国を知り、人を知り、己が無知を知る。
課せられた責任に必要なものは何か。
身をもって知ることを是として、これに従うべし。
「数百年続いた伝統だな。父上も、母上も、兄上たちも、若い頃はこうして街に出て、平民に混じって働いたというぞ。それはそれは楽し……いや、大変であったと、今も苦労話をしてくれる」
「今、楽しかった、って言いかけただろ。偉そうなこと言ってるけど、それってぜったい、窮屈な城暮らしから逃避して息を抜くための方便だろ。そのしきたりを作った国王からして、間違いなくそうだろ」
「兄上の話では、ある日街角に立っていたら、男娼扱いされたらしくてなあ……その時、身を挺して代役を買って出たという護衛は、今は騎士隊長に出世したらしい」
「なにそれ怖い! 俺、そんなのイヤだからな! 大体俺、ただの平民だし! ニナ様に何かあったら、ホントの意味で首が飛ぶと思うと、生きた心地がしない! ちょっと腕に覚えがあるからって、軽い気持ちで志願しただけなのに! 辞めてもいい?!」
「これは王室の極秘事項であるゆえ、知った人間を生かして街に返すわけには……」
「ウソだろ?!」
「ウソだ。いずれ役目が終われば、相応の口止め料が支払われるから、心配するな。どうせこんなこと、誰に話したって信じてはもらえまいよ」
「う、確かに……」
いつも城の中で優雅に微笑んでいる、愛らしい十三歳の王女様が、街の中で、ひっそりと花売り娘をしているなんて。しかも、実態はこんな悪質な性格をしているなんて。
話したところで、誰も信じてはくれないだろう。
「役を解かれてもそのまま城にいればいいのに。私の婿にしてやってもいいぞ、カレック」
「ぜったいやだ」
「じゃあ愛人になるか?」
「もっとやだ! 十三の女の子が、二十二の男を捕まえて、愛人になれって言うな! お願いだから、これ以上、俺の可愛い女の子幻想を壊すのやめて!」
「まったくいいトシをして、お前は夢見がちなやつだな」
ふう、やれやれと頭を振ってから、ニナは毅然と前を向いた。
「よし、帰るぞ。今日あった諸々のことを、父上と兄上にご報告せねばならん。さしあたって早急の問題は、麦の買い占めか。メルディ伯の人となりについても、お耳に入れておかねばな。あとはこのあたりの治安をなんとか」
「……なあ、これ、まだ続けるのか?」
おそるおそる問いかけるカレックに、ニナはこともなげに頷いた。
「当然だ。王家に生まれた者の義務であるからな。数月に一度、こうして街の様子を直に見て、人々の声を直接聞く。それではじめて見えること、判ることもある。的確な対応も、素早く出来るというものだ」
それから、少しだけ目を伏せ、
「……まだまだ、この国は貧しいな、カレック」
と、小さな声で呟いた。
「けど、危ないだろ。今日だってさ」
「お前が守れ。信頼してる」
「え……そ、そう?」
すっぱり言うと、カレックは満更でもない顔になって、へへへと笑み崩れた。せっかく男前な容貌をしているのに、バカ丸出しで台無しだ。強くて顔も悪くないこの男が、ずっと彼女のいない理由がこれで判る。
「じゃあ、頑張ろうかな」
「うむ」
腕は確かだが、このちょろい性格は、なんとかしないといかんな、とニナは心の中で考える。すぐに悪い女に騙されそうだ。
「では、我が家へ帰るか」
「城って言えよ……言ったらどうですか、ニナ様」
帰ったら、まずは食事だ。お腹が空いた。働きに出る時は朝食抜きなので、育ち盛りにはけっこうきつい。
やっぱり、侍女のサラに頼んで、このスカート手直ししてもらおう。「王女様がこんなこと」としくしく泣かれるので、あんまり気は進まないのだが。
その後は勉強。家庭教師について、みっちりしごかれる。もちろん、行儀見習いなどもだ。
夜の舞踏会には、ニナも出席することになっている。その時要求されるのは、王女としての威厳と淑やかさだから、それ相応に振る舞わねばならない。息苦しいが、これも仕事だ。
そうそう、舞踏会では、あのメルディ伯と顔を合わせないように注意しないと。王家の人間に無視をされれば、どうせあの男の評判は地に堕ちる。他の貴族たちにも見向きされなくなるだろう。真面目に働く民を見下すような人間に、これ以上の権力なんて持たせてやるものか。バカタレが。
ニナはあれこれと頭の中で予定を組み立てながら、頼りになるのかならないのかよく判らない護衛のカレックを引き連れ、堂々とした足取りで、城への道を辿った。
……こうして、ニーナリティア王女の、「花売り娘」としての一日は終わる。