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短編集  作者: 雨咲はな
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ぼくのおくさん



 ただいま、と家のドアを開けると、奥さんが満面の笑みを浮かべて、僕を出迎えた。

「まあ、いらっしゃい! アーノルド」

「………………」

 アーノルドって、誰。

 と、僕はまず思う。僕は純日本人である。奥さんだって、日本生まれの日本育ち。もちろん僕の名前は、アーノルドなんかではない。

 仕事から帰ってきて 「いらっしゃい」 なんて言われるのはまあともかくとして、とにかく謎のアーノルドが誰なのかまったく判らない僕がリアクションに迷っていると、奥さんは嬉しそうにうふふふと笑ったまま、僕から鞄を受け取り、家の中に招き入れた。

 ていうか、ここは正真正銘、僕の家なんだけれど。

「待ってたのよ、アーノルド。さあ、ディナーにしましょう。あなたのために、腕を振るっちゃったわ」

「……そう」

 奥さんに手を引かれてLDKに入った僕は、焼き魚や野菜炒めが並んだ食卓を見ながら返事をする。なるほど、これが 「ディナー」 なのだな、と納得した。夕飯は夕飯なんだから、別に間違いではないよな。

 そんな僕を意味ありげに見つめたあと、奥さんはそっと目を伏せ、沈痛な表情をした。もちろん、声音を抑えることも忘れない。

「億万長者のあなたには、こんな食事はみすぼらしいものに見えるかもしれないけれど……でもあなたのために、精一杯用意したの。わかってくださるかしら」

 どうやら、アーノルドは億万長者、というぶっとんだ設定にあるらしい。そこで僕は、ピンと来た。

「……君、ハーレクイン小説でも読んだ?」

 僕の奥さんは読書好きだ。小説も漫画も読む。それはいい。そして学生の時、演劇部だった。それもいい。この二つの条件が重なる女性は、世の中にも数多いのではないかと思う。

 ……しかし、うちの奥さんみたいに、本を読んでいる時に、主人公に感情移入するあまり、突然台詞を高らかに音読して、身振り手振りまでつけ、主人公になりきってしまう人って、そんなにいるんだろうか。

 ましてや、夫にまで無理矢理本の中の登場人物の役を押し付け、こんな風に日常的に寸劇を始めちゃう人は、あんまりいないのではなかろうか。

 奥さんは、口を開いて疑問を提示しようとした僕を、優しく手で制した。

「待って、お話はあとにして。あなたが何を仰るか、予想はついているわ。でも、お食事は笑顔で楽しくしたいのよ。……たとえ、これが最後だとしても」

「え、なに、僕らは別れる前提なの?」

 戸惑いつつ、僕は訊ねた。

 いつも何の予告もなく、奥さんが突如として始める寸劇なのだが、僕に与えられる役割に対する説明があったことは、今まで一度もない。だから僕としては、奥さんから繰り出される台詞から、ストーリーと自分の役を推測するしかないのだが、正直言って、あんまりまともな役であったためしがない。

 この間は何を読んだんだか、僕はいきなり 「お嬢様を身を挺して守る執事役」 を割り振られたし、以前に酔っ払って帰ってきて、ソファに寝そべっていた時には、「待って、私を置いて死なないで!」 と、唐突に抱きつかれながら号泣されて参ったこともある。

 どうもそれは、「余命幾ばくもないのに結婚を誓い合った恋人同士」、という展開であったらしく、僕に求められる台詞がないのは助かったが、そのあと延々と奥さんは切ない独白を続け、僕は喉が渇いても水を飲みに行くこともできず、じっと 「死んだ恋人役」 をしなければならなかった。僕はその時、どうしてこんな迷惑な小説を書くんだと、心から作者を呪ったものだ。余命幾ばくもないのなら、恋人と結婚の約束なんてしてはいけない、という教訓も得たが、そんな教訓、一体なんの役に立つのだろう。

 そして、どうやら今回の話は、「億万長者の男と一般人の女」 が登場するもののようだ。どうしてまたそんな二人が、よりにもよって恋になんて落ちるのかは、さっぱり判らないのだが。

 奥さんは瞳の端にきらりと光る涙 (本物) を、そっと拭った。僕に気づかれないように、でもどうやったって気づいてしまう涙の拭き方である。そのわざとらしさはともかくとして、確かに健気だ。ちなみに、素の状態では、結婚前の付き合っている頃でさえ、僕は奥さんのこんな表情にお目にかかったことは、残念ながら一回もない。

「……ええ、だってあなたには、由緒正しい家柄の婚約者がいるんですものね」

「なんかちょっと最悪な男じゃないかな、僕」

 婚約者がいるのに、他の女にも手を出す億万長者。どう考えたって、単なる 「つまみ食い」 程度の意味しかないだろうと思えるんだが、きっと小説の中では、男は女の純粋さなんかに心を打たれて、婚約を解消し、家柄の違いや家族の反対なんかも押し切って、結婚を申し込んだりするんだろうなあ。

 そんな結婚、すぐ不幸になるのは目に見えているんだがなあ。

「でも、今だけ。今だけは、私を見て、私のことを愛してるって言ってちょうだい」

「……うーん」

 僕はちょっと悩んで、考えた。

 ここで、「もちろん愛してるよ、ハニー (彼女の役の名前が判らないからそう呼ぶしかない)。婚約者に愛情なんてないんだ、僕の冷え切った心を溶かしたのは君だ」 なんて言えば、奥さんは満足するのだろう。

 でも、それでは僕は不満なのである。

「いいや、それは出来ないよ」

 と真面目な顔になって言うと、奥さんは少し眉を寄せた。

「君との関係は、たった今お終いにしよう。僕は婚約者と結婚し、適当に女遊びをしながら、大した仕事もせず、だらだらと親から受け継いだ資産を食い荒らす穀潰しとして生きていく。君は真っ当に、庶民として地道にこつこつと毎日を積み重ねてくれ」

「……セリフがちがーう」

 奥さんがぷうっと頬を膨らまし、可愛いむくれ顔になって文句を言った。僕は笑って、膨れた頬をちょんと人差し指で突っつく。

「それがお互いの幸福のためだよ。ここで別れを切り出すだけ、アーノルドは誠実な男さ。君は億万長者と別れ、普通の暮らしに戻り、別に金持ちではないけれど優しくて温厚な男と巡り会い、結婚するんだ。そうして末永く、幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」

「──お金持ちじゃないけど、毎日毎日ちゃんと働いて、朝はゴミ出しも忘れず、お休みの日には妻とお買い物して、時間があればドライブに連れて行ってくれるような?」

 奥さんがくすくすと笑った。役を演じている時よりも声のトーンは低めだが、僕にとっては少し甘えるようなこの声のほうが、よっぽど耳に心地いい。

「そうそう。奥さんが本にのめりこんでも、いきなり寸劇を始めちゃっても、今更驚きもせず、根気よくそれに付き合ってあげるような」

 そう言って、僕はチュッと軽く音を立てて、奥さんの唇にキスをした。奥さんは楽しげにふふっと笑い、さっき膨らました頬を、今度は淡いピンク色に染める。

「じゃあ、お夕飯食べよっか」

 奥さんはにっこりしながら言って、陽気に鼻歌を歌いながらキッチンへと向かった。

 僕はその後ろ姿を眺めて、そういえば彼女が僕を巻き込んで始める 「劇」 は、いつも恋愛ものだなあ、ということを思いつき、思わず噴き出してしまう。



 ──僕の奥さんは本好きで、芝居好きで、妄想の世界で遊ぶのも大好きという変なひとだが、それでも僕は、彼女と一緒にいると、毎日が楽しくてたまらない。




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