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燕尾服の鬼神 序章 血と雪

【まえがき】


ご覧いただきありがとうございます。


本作は、明治初期という激動の時代を舞台に、かつて雪深い秋田・男鹿の地で最強の「侍狩り」――“なまはげ”として恐れられた孤高の浪人・佐藤慎之介が、数奇な運命から華族の令嬢の「剣」となり、文明開化に沸く帝都・大東京を駆け抜ける、時代変革アクション主従劇です。


孤独に死に場所を求めていた男が、気高き少女のめいによって再び現世に繋ぎ止められ、新たな時代でどう戦い、どう生きるのか。

血塗られた過去を持つ男と、亡き母の面影を追う姫君、そしてどこか憎めない御者の末吉が織りなす、混沌と華やかさが交錯する帝都での奮闘をどうぞお楽しみください!


もし面白い、続きが気になると思っておじゃましましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。


それでは、激動の物語の幕開けです――。

なまはげとは秋田は男鹿の地に伝わる、異形の来訪神である。


大晦日の夜、鬼の面を戴き、藁の衣をまとった男らが「悪ぃ子はいねが」と猛り叫びつつ家々を巡る。


人々の怠惰の心を戒め、 無病息災と豊穣をもたらすと云われ、その名は囲炉裏の火だこ(ナモミ)を剥ぎ取る挙動に由来するという。


ーーー時は明治初期、秋田にて。

年の瀬の男鹿の寒さは、牙を剥くように荒々しく骨の髄まで容赦なく凍みる。

日本海から吹く狂暴な東風は路傍の雪を散らし吹雪となり、山道をゆく者の視界を、白一色の無慈悲な絶望へと塗り潰していた。

その容赦のない白魔はくまの只中に、一代の馬車が馬車が立ち往生していた。

東京の華族、一条家の馬車の漆塗りの重厚な車輪は、深雪に嵌まり込んで空回りし、軸をきしませる。

御者台ぎょしゃだいに座る若い男、が、凍りついた手綱を握りしめた振り返る。

「旦那様、 お嬢様、この雪ではもう進めません、宿場に戻りましょう…」

馬車に座る男、一条伯爵は静かに頷く。

「ああ、仕方ない。末吉、戻れそうか?馬にも無理をさせたか…」

末吉と呼ばれた男は振り返り「ええ、なにも心配ありません。北国の丈夫な馬ですから」と手綱を引く。

――その時、荒れる白銀の幕を割り、ゆらりと赤黒い炎が浮かび上がった。

その声は恐怖に激しく震え、吹きつける暴風のなかにかき消されそうになる。

「 奴ら、刀を持ってる……! 吹雪で車輪が埋まって、これじゃあ前にも後ろにも動かせません!」

末吉の震えを見透かすように、薄汚れた男たちが闇の奥から這い出てきた。

狂おしく吹き荒れる地吹雪に紛れ、その足音は一切聞こえない。

ただ、彼らが手に掲げた数本の松明たいまつだけが、吹き付ける雪を焦がしながら、ぬらぬらと赤黒い影を雪面に落としている。

「逃げ場はねえぞ。大人しく金目のものを出しな」

四人組の一番前の頭目らしく男が慣れた調子で口にする。

新政府の「廃刀令」をあざ笑うかのように、その腰には血錆びの浮いた無骨な刀が差されている。

時代の潮流からこぼれ落ち、北の最果てまで落ち延びてきた――飢えた狼であろうか、浪人崩れの野盗やとうどもである。


「ふ、ふざけるな……! 命に代えても、お命だけは……!」

末吉は恐怖に歯を震わせながらも、懐から拳銃を引き抜いた。

それは、新時代(明治)の夜明けとともに彼が手に入れた、鈍く黒光りする護身用の回転式拳銃リボルバーであった。

凍える指で撃鉄を起こし、迫り来る闇へと銃口を向ける。

「ケッ、短筒か。そんな玩具が当たるかよ、寄越して失せろ」

銃を握る若者の、微かな動揺、そのグリップに刻まれた彫刻の唐草模様のような脆さを、野盗が見逃すはずもない。

引き金に指がかけられるより早く、草鞋で地雪を蹴った男が間合いを詰める。無骨な刀の柄頭つかがしらが、末吉の顎を容赦なく打ち砕いた。

――ゴン、と末吉は一撃でなぎ倒され、御者台から雪原へと転がり落ちた。

握られたままの拳銃から弾が一発、明後日の方向に放たれ、その爆発が雪を黒く淀した。

銃は手から落ち、冷徹な深雪の底へと虚しく埋もれていく。

末吉は叩きつけられた激痛に、若い身体が雪原の上で激しく痙攣させた。

唯一の盾を排除した野盗は飢狼の目を血走らせ、馬車の扉を乱暴にこじ開けた。

「ひっ……!」

吹き込む狂風に令嬢の少女、伶子が身を竦ませた瞬間、その視界を遮るように、一条伯爵の毅然たる背中が立ちはだかる。

「――そこまでだ」

ランプの灯りが残る車内に響いた一条伯爵の声には、不思議と怒りも、恐れもなく、凪いだ海のように静かで、深く、揺るぎなかった。

我が子を背に庇い、粗野な刃を向ける男たちを真っ向から見据える。

その眼光は、いくどか死線を超越した者だけが持つ、透徹した輝きを放っていた。

「いかにも私は一条信轍伯爵だ。積荷と金子が望みならば、この命ごといくらでも持っていくがいい。……だが、娘にだけは指一本触れるな。私の首と引き換えに、この子だけは生かして帰すと、男の誓いを立ててもらおう」

己を微塵も顧みぬ、あまりにも潔い請願。そのいっそ清々しいほどの気迫に、百戦錬磨の野盗どもさえも一瞬、圧されて足を止めた。

「この一条、逃げも隠れもしない、覚悟があれば斬るが良い」

しかし、吹きすさぶ白魔が彼らの正気を呼び戻すのは早かった。

「……フン、大層な御託だ。華族様の首なんぞより、目の前の金と女だなぁ!」

頭目があざ笑うと同時に、無慈悲な白刃が伯爵の肉を深く切り裂いた。

ざっくりと肉を断つ凄惨な音が響く。――だが、伯爵は倒れない。

「お頭、脱がせてから殺せばいいのによ!高く売れる服だぜ」

「馬鹿だな、洋服なんて足が付くだろうが」

男たちが下衆に笑う声、そして溢れ出る鮮血が伶子の純白のドレスを、心までもを無慈悲に染め上げる、一条伯爵は新時代を見据えた気高さだけで、きしむ骨肉を支えて立ち続ける。

二太刀目、三太刀目がその身体を苛んでも、伯爵の微笑すら湛えたような眼光は、決して衰えなかった。

「太刀筋は…悪くない…残念なこと……哀れな奴らだ」

満身に刃を浴び、どろどろの血を吐きながら、伯爵の唇から漏れたのは、目の前の男たちへの深い憐れみだった。

「こんな極寒の地まで落ちぶれ、私欲のために剣を汚して……お前たちの魂は、もうとっくに救われぬ闇の底にある。……だが、まだ間に合うぞ、新しい時代を生きよ、刀を収めよ」

伯爵は薄れゆく意識のなかで、窓の外に広がる無慈悲な白銀の景色をそっと見つめた。その瞳に宿るのは、死への恐怖ではなく、遠い日の温らかな記憶の残滓ざんしだった。

「……ここは、私の亡き妻の故郷なのだ。あれはよく言っていた……この地で悪さをすれば、なまはげという鬼神が必ず現れ、罰を与えると。……お前たちのような無軌道な者を、この男鹿の土地が、決して許しはしないだろう……」

死に瀕した男から放たれる、あまりにも不条理な慈悲と、祈るような警告。

その常軌を逸した潔さと憐れみの視線に、野盗どもは呪縛されたように総毛立ち、動きを止めた。

男たちは、血塗られた刀を握ったまま、互いに顔を見合わせた。

吹きすさぶ雪煙の向こう、松明の揺れる光の中で、狼狽を隠せない視線が交錯する。

これほどの傷を負いながら自分たちを憐れみ、実在せぬ「化け物」の伝承を静かに語る華族の異様さに、誰からともなく、小さく首を横に振った。――関わってはならない畏るべきものを見てしまった、そんな戦慄が群れを支配していく。

だが、頭目がその恐怖を強引に振り払うように、割れんばかりの怒鳴り声を上げた。

「黙れ! 死に損ないがっ! 幻でも化け物でも、これるもんなら出てきやがれっ!」

繰り出された痛烈な一撃が、ついに伯爵の命の灯火を奪う、無念の呻きを漏らし、それでも娘を守る最後の壁となるように、その足元へ崩れ落ちた。

「いや、お母様だけでなく、お父様まで…嘘…」

伶子はドレスの裾を強く握りしめ、迫り来る死を拒むように首を横に振る。

灯火が消え闇に包まれた車内には、彼女の浅い呼吸だけが風の音に混じって響いていた。

凍てつく恐怖が、彼女の華奢な輪郭を容赦なく震わせていた。

――その時だった。

狂風の咆哮が、ふつりと止んだ。

「……あ?」

野盗の一人が、間の抜けた声を漏らす。

吹きすさんでいた地吹雪が嘘のようにぎ、松明の炎だけが、じりじりと油を焦がす音を立てていた。

――ツ、と微かな、風を割る音がした。

次の瞬間、頭目のすぐ隣にいた男の頭部が、不自然な角度で激しくのけぞった。

「ガ、っ……お、頭…」

悲鳴すらならなかった。”お頭”が倒れた男を見やると、その眉間には、闇を穿って飛来した一本の黒羽の矢が、深々と突き刺さっていた。

「な、にッ……!?」

ーーードサリ、男の体はねじれて倒れ、雪の地面を赤く染めた。

敵の姿もなく、つるの音さえも聞こえなかった。

ただ、一瞬で仲間が「死体」に変えられた。その事実が、野盗たちの心臓を冷たく掴む。

息を呑む男が、唐突に背後に「なにか」を感じて振り返ろうとした、その瞬間。

再び吹き始めた吹雪の闇から伸びた影が、男の頭上からドロリとした粘り気のある冷たい液体を浴びせかけた。

「う、わ!? なんだこれ、油?――お頭! お頭助け――」

男がお頭に手を伸ばした瞬間、怯えるように振り回していた松明の火が、男の衣服に染み込んだ油へと引火した。

――ゴオオッ!!

凄まじい炎とともに、その身体は巨大な火達磨へと変わった。

「ぎゃあああああああッ!! あつい、あついぃぃぃッ! お頭ぁぁぁッ!!」

夜の静寂を切り裂く、狂気的な絶叫。

男は生きた劫火ごうかとなり、お頭の足元をのたうち回りながら助けを求めるが、炎は消えることなく、男を焼き尽くしていく。

部下が、燃え盛る火達磨の炎に照らされた闇の奥を見つめ、残りの者達もガチガチと顎を鳴らした。一人があまりの恐怖にお頭の服の裾を掴み、うわ言のように呟く。

「……き、聞いたことがある。この男鹿の雪山には、なまはげが!なまはげの面を被った『侍狩り』が出るって……。名前は、確か、たしか――お頭、助けてくれよ、そうだ!名前は――旧秋田藩士の・・・」

「おい、何を――」

お頭がその手を振り払い声を荒らげた、その瞬間。

肉厚で不気味な鈍光を放つ巨大な出刃包丁が視界に映った、静かに音もなく男の首に滑り込み、言葉を紡ごうとした喉元を、深く一文字に掻き切る。

「ひ……ッ、が、……」

溢れ出た鮮血がお頭の顔へと激しく吹きかかり、縋り付いたまま崩れ落ち、ただ痙攣けいれんするしかなかった。

恐怖に震えるお頭が松明で、部下を屠った闇の奥を照らし出す。 躍る烈火が浮き彫りにしたのは、世にもおぞましい異形の姿だった。

古びた藁のみのを深く纏い、夜の闇に同化するほど黒ずんだ野武士の風貌。

衣服はぼろぼろに裂け、そこから覗くのは岩のように頑強な体躯。

解き放たれた髪が雪風に揺れ、その顔には、いま掻き切った血飛沫を浴び、燃え盛る炎を禍々しく反射した、極めつけに頭には憤怒に歪む巨大な「なまはげの面」が掛けられている。

火達磨を背を照らされた姿、本物の鬼神が現世へ這い出してきたのか。

「ひ、人、なのか……?馬鹿な… お前が、本当に……本物の!」

足元に転がる部下たちの死体に囲まれ、一人生き残った頭目は恐怖のあまり腰を抜かし、雪の中に無様にへたり込んだ。

握りしめていた刀を振るおうとしても虚しく、雪の上にぱさりと音を立て、手からこぼれ落ちた。

現れた男、”なまはげ”はお頭の狼狽など意に介さず、ただ静かにその巨躯を揺らした。

雪を噛む足音が、再び規則正しく響き始める。

サク。

「――泣く子はいねが」

お面の奥から、地を這うような重低音が漏れ出た。

それは凍てつく夜の静寂を切り裂き、お頭の鼓膜を直接震わせる。

サク。

「――親の言うこど聞がねぇ、悪りぃ子はいねが」

一歩、また一歩と迫るごとに、血塗られた藁蓑から放たれる殺気が膨れ上がっていく。

お頭にとって、目の前の存在はもはや人間であるはずがなかった。

炎に照らされ、部下の血を滴らせるその姿は、本物の山神であり、逃れられぬ死そのものだった。

サク。

お頭は必死に雪を掻きむしり、無様に後ずさりしようとした。

だが、恐怖で硬直した身体は思うように動かず、指の凍傷さえも頭をよぎる。

ついに、禍々しいなまはげの面が、お頭の真上を覆った。

見上げる瞳に、巨大な出刃包丁の鈍い白刃が逆さに映り込んだ。

「な、なまはげ……なまはげぇッ……ああああ!あああああああああ!!」

喉をかき鳴らすような絶叫を上げたお頭に、鬼神は最後の一歩を踏み出した。

「おっだおっだ…泣く子がおっだ」

サク。

燃え盛る火達磨に照らされ、滴る血に濡れた出刃包丁が、お頭の鼻先で不気味にギラリと翻った。

「――親の言うこど聞がねぇ悪りぃ子、おめぇだな。数え切れねぇほどの罪を重ねて、この男鹿の土地を汚したなぁ。今まで犯した悪行、ここで全て数えろ。一本残らず吐き出さねば、その喉笛、今すぐなまはげが噛み千切って山さ連れてぐぞっ!!」

大地を震わせるような怒号と、鼻を突く凄まじい血の臭いと殺気、部下たちが一人ずつ、自分の足元で、助けを乞いながら無残に屠られていった光景が、お頭の脳裏に鮮烈に蘇る。

「ひ……ッ、ひいいいいいっ!!」

追い詰められた男の精神は、ついに完全に崩壊した。

賊の首領としての矜持きょうじも、野盗としての獰猛さもすべて消し飛び、ただの哀れな虫のように雪原に額を擦りつけ、ガタガタと全身を激しく震わせながら叫んだ。

「お、俺が悪かった! 俺たちが…いや俺が… 華族の馬車を襲ったのも、あの御者を痛めつけたのも、すべて、すべて俺の指図で! それだけじゃない、三年前の宿場町の追剥も、去年の商人の殺しも、数え切れないほどの盗みも、全部、全部俺がやらせたんだ! 助けてくれ、助けてくれぇぇぇッ!!」

狂ったようにこれまでの罪状をすべて白状し、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら許しを乞うお頭。 その絶望の告白を、血塗られたなまはげの面は、ただ無言で見下ろしていた。

――しん、と静まり返る雪原。

燃え盛る火達磨の男が力尽き、ジュウ、と雪に焼ける鈍い音だけが残る。

地吹雪さえもが二人を避けるように凪ぎ、ただ、お頭の荒い呼吸と、なまはげの蓑から滴る凍りかけた血の音だけが、不気味なほど等間隔に刻まれていく。

秒刻みの静寂が、お頭の皮膚をひりひりとく。

なまはげの男は動かない。許すのか、あるいは。

張り詰めた糸のような沈黙のなか、お頭はただ、面の奥にあるはずの「眼」の光を恐れ、雪を掴んだまま身じろぎ一つできずにいた。

そして、時間が流れた。

やがて、なまはげは、手にした出刃包丁をゆっくりと、微かな音も立てずに持ち上げた。

僅かな月光を反射してぎらりと輝く鈍色の刃が、お頭の首元へ、吸い込まれるように狙いを定める。

そして、お面の奥の暗闇から、地獄の底を揺るがすような低い声が、呪詛のようにぽつりと紡がれた。

「――おめぇの歩んだ道は、救いようのねぇ因果応報いんがおうほうだ。積みに積んだそのごうの深さ、もはや現世うつしよの生では償いぎれね」

お頭の息が、ぴたりと止まる。

「……三途の川の向こう、無間地獄むげんじごくの底で、おめぇに手を引かれて先にった仲間たちが、首を長くして待ってる。まずはあの世へって、己が罪のすべてを奴らに詫びれ」

その言葉には、怒りも慈悲も、対話の余地すらも残されていなかった。あるのは、これから魂を冥府へと引きずり込むという、絶対的な「執行」の宣告。

お頭が死を覚悟し、恐怖に目を瞑った――その時だった。

ガチャリ、と凍てついた夜の空気に、不釣り合いな硬い金属音が響いた。

襲撃され、半ば雪に埋もれていた馬車の扉が、内側からゆっくりと押し開けられる。

なまはげの出刃包丁が、わずかに空中で止まり、お頭は事切れるように伏す。

馬車から姿を現したのは、ドレスを血に汚した少女だった。

彼女の足元には、先ほど野盗に命を奪われ、物言わぬむくろとなった父親が横たわっている、怯え、崩れ落ちそうな足取りで、それでも令嬢は一歩、雪原へと踏み出す。

「……もう、おやめなさい……どうか、もうやめて」

鈴の音を震わせるような、しかし張り詰めた声が夜のしじまに響く。

令嬢は、血に塗れた巨大ななまはげの面を、そしてその手に握られた恐るべき凶器を、真っ直ぐに見つめ返した。

恐怖に涙を浮かべながらも、その瞳の奥には、決して引かない強い光が灯っていた。

「その男たちが……私の父を殺した悪党であることは間違いありません。ですが……それをあなたが裁き、命乞いするものの命さえ手にかけて奪えば、あなたもまた彼らと同じ、いえ、それ以上の血に飢えた獣になってしまう……!」

震える声を必死に絞り出しながら、伶子はなまはげの男へと語りかける。

それは鬼神の容赦なき殺界を切り裂く、あまりにも無垢で、切実な拒絶だった。

「あなたにどんなことわりがあろうとも、これ以上の殺生は……怨査の連鎖を生むだけです。お願いです……もう、誰も殺さないで……!」

父親を奪われた絶望の淵にいながら、なおも目の前の命を救おうと、そして「なまはげ」という怪物の狂気を止めようと説く少女。

その言葉を受け、出刃包丁を構えたなまはげの男は、ただじっと、微動だにせず少女を見つめていた。

少女の必死の訴えが、吹きすさぶ男鹿の冷気さえも溶かすように、静かに雪原へ染み込んでいく。

やがて、なまはげはふっと小さく息を吐いた。

――ガサリ。

目の前で無様に這いつくばるお頭には目もくれず、出刃包丁をゆっくりと腰の鞘へと収めた。

少女が息を呑むなか、男の大きな手が、自身の顔を覆う禍々しい「なまはげの面」へと掛けられる。

紐が解かれ、ゆっくりと面が外された。

揺れる松明の赤黒い炎に照らし出されたのは、一人のうら若い男の素顔だった。

鋭く切れ上がった強い双眸。引き締まった口元。汗と返り血で汚れてはいるが、その奥にあるのは、冷徹な中にもどこか哀愁を帯びた、酷く整った人間の容貌だった。

男は、手にした面を無造作に小脇に抱えると、初めてその「本当の声」を口にした。

それは先ほどの濁り芝居がかった言葉ではなく、低く、しかし驚くほど澄んだ、落ち着いているが訛った響きを持っていた。

「……ずいぶんと、お節介な深窓の令嬢だな」

男の視線が、真っ直ぐに少女を射抜く。

「こいつらが何をしたか、その目で見たはずだ。お前の父親を殺し、お前をもおもちゃにしようとした。……これ以上の殺生は怨査を生む、だと?」

男は自嘲気味にわずかに口元を歪め、一歩、少女の方へと歩み寄った。蓑から落ちた血が、雪を赤く染める。

「生憎だが、俺はとっくにその怨査の渦の中にいる。ここにいるのは、神仏でもなければ、お前の言うような『血に飢えた獣』でもない」

少女は怯えに身を震わせながらも、男の瞳から目を逸らさなかった。男の瞳の奥に、ただの殺人鬼にはない、深く暗い「何か」を感じ取ったからだ。

「では……あなたは何者なのですか?」

震える声で、しかしはっきりと問いかけに、男は静かに、己の存在を告げるように名乗った。

「なまはげ、あるいは……ただの、侍狩りだ」

伶子は、あまりにも濃密な血の匂いと、目の前の現実の凄惨さに頭が眩み、倒れそうになる身体を必死に支えた。

鼻を突く鉄の臭い。しかし、目の前の男の「素顔」と、その驚くほど澄んだ声が、彼女の薄れゆく意識の奥底で、記憶の古い扉を叩く。

ドレスの裾を握りしめたまま、少女はうわごとのように、かすれた声を漏らした。

「……。私、知っています」

男の眉が、わずかにピクリと動いた。

「この地の武士の娘であった私の母が、生前、よく話してくれました。……まだ母が幼かった頃、この村には、いつもなまはげの面を被って、悪さを戒める風変わりな男の子がいた、と」

伶子は、激しい目眩に耐えるように片手を額に当て、記憶を必死に手繰り寄せる。雪原に立つ男の佇まいが、母の語った人物と、奇妙なほどに重なっていく。

「ある時、母が地元のいじめっ子たちに囲まれて泣いていたとき……なまはげの面を被った子が、どこからともなく現れて、いじめっ子たちを追い払い、母を助けてくれたのだそうです。母は、その不器用な優しさをずっと忘れないと、愛おしそうに話していました……」

伶子は息を整え、真っ直ぐに男の双眸を見つめた。

「その、なまはげの男の子の名前は、確か……。確か、慎之介しんのすけ……」

――慎之介。

その名が静寂の雪原に響いた瞬間、男の瞳の奥で、凍てついた何かがかすかに揺らいだ。

男は、小脇に抱えたなまはげの面をじっと見つめ、それからゆっくりと伶子の方へと視線を戻した。その鋭い双眸に、驚きと、それ以上に深い動揺の色が走る。

「……まさか……」

男の口から漏れたのは、低く、どこか懐かしむような呟きだった。

その言葉を聞いた瞬間、伶子の胸の内で、散らばっていた記憶の破片が一つに繋がった。

母が大切に語っていた、あの優しくも気高かった少年の面影。そして、いま目の前に立つ、孤高な男の姿。

伶子はハッと目を見開き、血の匂いも忘れて一歩前へ踏み出した。

「母の名はお貞と言いました」

震える声は、もはや恐怖からくるものではなかった。

運命の悪戯いたずらか、あるいは雪山の神の導きか。

母の思い出話の中にだけ存在していた「あの人」が、いま、鬼神の如き姿で自分の目の前に立っている。

そのあまりの衝撃に、伶子は言葉を失い、ただ熱い眼差しを男へと向けた。

「私は母の貞と…父型、旧藩主の血を引く華族の娘、伶子れいこと申します。……母の残した言葉通り、やはり貴方様は、ただの『血に飢えた獣』などではなかったのですね、慎之介様」

吹きすさぶ雪風のなか、少女の清廉な名乗りが、二人の間に横たわる凄惨な戦場を、一瞬にして宿命の舞台へと変えていく。

伶子の凛烈りんれつたる名乗りは、凍てついた夜気をも切り裂くかのように雪原に響き渡った。

旧秋田藩主の血統――そのあまりにも尊き文字が、なまはげの面を外した男の胸を激しく突く。男の双眸が大きく見開かれ、次いで、己のこれまでの無礼を悔いるように、あるいは遠い過去の記憶にひざまずくように、深く、重く揺れた。

男は身に纏った蓑を小さく震わせ、おのれの無骨な手を雪にまみれさせながら、消え入りそうな声で言葉を紡ぎ出した。

「お貞…いえ奥様の…おら、……あ、いや、拙者――は」

戸惑うように、男は一度言葉を切り、それから決意を秘めた目で伶子を見上げた。

「……秋田藩拝領はいりょうの武士、性は佐藤、名を慎之介と申す。……武士の世はとうに終わり、こうして鬼神の皮を被り、おもてを隠して生きるしがない浪人にございます。ただ……いささか剣の腕が立つばかりに、この地を彷徨い、弱きをくじいて恥じぬ侍崩れを……この手で、この手で狩って歩いた次第でございまする…」

「浪人を狩って、いたの?たった一人で何人も?」

伶子の問いは、地吹雪の音に混じって、酷く物悲しく響いた。

「いかにも…ああ、もう侍言葉の時代でねえか…んだす、そうだず」

慎之介の口から、隠しきれぬ故郷の訛りが、あたたかく、しかし切なく零れ落ちる。

「今の世、刀を捨てきれねぁんで、それをば人殺しの道具に変える奴らが多すぎでな。……おらは、そんな彼らの『落とし前』ばつけて回っておっだようなもんで……」

降り頻る雪は、慎之介の肩に無情に積もっていく。その姿は、時代の潮流に取り残され、ただ己のごうを清算するためだけに雪山を彷徨う、孤高の獣であった。

伶子は、雪と血ににまみれた慎之介のかおを、ただじっと見つめていた。

剥き出しになったその双眸の奥には、旅路の果てに置き去りにしてきたはずの、底知れぬ孤独が沈殿している。

見据えるうちに、伶子の瞳にじわりと熱い涙が満ちてゆく。

東京の邸宅で、一言一句狂わぬよう厳しく仕込まれたはずの洗練された言葉が、目の前の男が背負う影に触れた瞬間、あえなく瓦解がかいしていく、代わりに彼女の唇をついて出たのは、幼き日に耳の奥へ深く刻まれた、優しくも切ない「母の国の響き」であった。

「……そんなたいした腕を持ちながら、こんなしばれる雪山で鬼ごっこなんて、鬼がわらうべ、もったいねぇべ」

震える声が、微かに、しかし確かな体温を伴って雪原に溶ける。

「おかあとおらの恩人が、独りきりで鬼のおもて被って、死に場所探して彷徨うなんて……見でられねぇ、恩を返しでえよ…」

こみ上げる情念を堪えるように、伶子は一度強く己の衣の裾を握りしめた。東京の令嬢としての己と、母の血を引く一人の少女としての己が交錯する。

「力貸してくれ、おらさ……わ、私の力におなりなさい。その余りすぎている力を、新しい世と私のために使いなさい。……あなたのような人が、お母様の愛したこの山の中で、誰にも知られず朽ちていくなんて、私は絶対に許さないわ」

伶子は涙を拭い、息を整えると、旧藩主の血を引く姫君としての気高さをその背に宿した。

血塗られた白銀の戦場を圧するほどの、凛とした眼差しで慎之介を見据え、厳かに、けれど切なる願いを込めて告げる。

「――慎之介。生きることを諦め、死に場所を求めるのはもうおやめなさい。これからは私のために、私の『剣』になってちょうだい」

それは、ただの憐れみではない。

時代の奔流に足元をすくわれ、ただ死に場所を求めて雪に埋もれんとしていた孤高の魂を、現世うつしよへと繋ぎ止めようとする、至高の「めい」であった。

侍狩りのなまはげは言葉を失った。ただ、雪の降り積もるこずえを、木木の間から覗くくらい冬のそらを見上げた。

死に場所を求め、おのれのごうに追われるように彷徨さまよい続けた修羅の道。それが突如として、消え入るような、しかし確かな人の温もりに繋がったことに、男の魂は激しく戸惑っていた。

「……慎之介、武士の時代は終わりました。国の言葉で話してちょうだい。」

玲子の微笑みに、慎之介は喉の奥で硬い音を立てて生唾を呑み込み、凍てついた唇を不器用に開いた。

「…姫様でねえが…おめさは…お嬢様が。おらさみでなむのでえがったら、この命、なんにも…なにひとつ…惜しくねぇす。おめえさまのために、おらの全部使うす」

答える伶子の声は、地吹雪の咆哮に消されてしまいそうなほど微かで、けれどひどく温かかった。

「母がこちらの生まれで……どこか、懐かしくて」

慎之介は、ようやくかすかな苦笑を浮かべた。

「殿様に嫁がれだあのお貞姫サも訛りねげねがっだんだな…」

その慎之介の無骨な顔に深く刻まれた険しいしわが、春の陽気を受けるようにふっと和らぐ。

長年、北国の厳冬に凍てついていた男の頑な芯が静かに解け、剥き出しになった瞳に柔らかな光が宿っていく。

「……へば、まずはそのご命令さ、ありがたくお受けするべした」

ぽつりと言った言葉は、先ほどまでの荒々しい怒号とは似ても似つかない、しんしんと降る雪のように穏やかな響きだった。

雪はまだ、やみそうになかった。 だが、白一色に染まる世界の片隅で、二人の歩む行く先には、凍てつく冬の殻を破るような、名もなき春の気配が微かに揺らめいている。

新しき主従となった二人の影が、果てしない白銀の雪原に、どこまでも長く伸びていた。


二人の間に通い合う切なくも温かな空気を、容赦なくぶち壊す音が響いた。

――ガサゴソ、ズサーッ。

雪に突っ伏していたはずの、御者の末吉すえきちが、まるで芋虫が這い出るような締まりのない音を立てて身動ぎした。

「……う、ううう……。ここは、どこだ……。おらは死んだのか……?」

両目を開けた末吉は、派手に頭を振りながら起き上がった。

額を強く打ち付けたらしく、目の前が激しく回っている。

恐怖に気絶していたことすら、半分ほど頭から抜け落ちているようだった。

しかし、目の前に立つ巨大な影――蓑を纏い鬼神の面を持つ男の姿が視界に入るや否や、彼の記憶が火花を散らして蘇る。

「そうだった!鬼が来て…ひぇっ! 鬼、鬼が出たぁッ!なまはげだ!」

末吉は飛び退こうとして、自分の足に引っかかって思い切り尻餅をついた。

さらに、懐から護身用の短銃を引き抜こうとするが、焦るあまり手元が狂い、雪の中にぼとりと落としてしまう。

「あわわ、冷てぇ、どこだ、どこにいった!」

雪をがむしゃらに掻き毟り、ようやく冷え切った鉄の塊を掴み取ると、彼は大慌てでそれを慎之介へと向けた。

両手で握った銃口は、寒さと恐怖で生まれたての小鹿のようにガタガタと震えている。

「う、動くな! おらにはこれがあるんだ! どんな化け物だって、鬼や神様にだって一発で風穴を空けてやるんだからな!」

必死の形相で脅しをかける末吉。だが、引き金にかけた指は震え、今にも誤射しそうなほど危うい。

そんな彼の姿を、慎之介はあきれ果てたような、底深く冷ややかな目で見下ろしていた。

「……おめぇ、撃つ前に、その銃の安全弁あんぜんべんが掛かったままだってことに気づかねぇのか」

「えっ?」

末吉が間の抜けた声を上げ、慌てて手元の銃器を見ようと視線を落とした――その瞬間だった。

慎之介の足が、電光石火の速さで雪を蹴った。

凄まじい速度で繰り出された鋭い手刀が末吉の手首を正確に捉える。

――パーンッ!

乾いた音とともに、短銃は末吉の手から容易く弾き飛ばされ、深い雪の底へと消えていった。手首に走る痺れに、末吉は自分の手を抑えて「あいたたた!」と雪原を転げ回る。

慎之介は倒れた末吉に手を差し出す。

「おめえと同じお嬢様の家来になっだ、慎之介だ。なまはげでねえよ、よろしく頼むな」

しかしその手は血まみれて、微笑む顔には血糊がついている。

それを見た末吉は再び気を失った。

――かくして、数奇なる運命の糸に手繰り寄せられた三人の旅路は、激動の「帝都・大東京」へと向かう。

かつて男鹿の雪深い山奥にて、容赦なき鬼神「なまはげ」として恐れられた孤高の浪人、佐藤慎之介。死に場所を求め、おのれの犯したごうに追われるように白銀を彷徨っていた男は、いま、一人の気高き姫君の「剣」となる誓いをその胸に深く刻んでいた。

過去の血塗られた泥を雪の底へと払い落とし。 麗しき主君のぬくもりと、珍妙にして愛嬌ある供を連れて、彼は新たなる時代の奔流へ、その大きな足を踏み入れる。

文明開化の灯が妖しく煌めき、華やかさと混沌が交錯する大帝都の空の下。 男鹿のなまはげ・佐藤慎之介の、激動の東京奮闘の日々が、いま静かに幕を開けようとしていた。

【あとがき】


最後までお読みいただき、ありがとうございました!


明治初期の雪深い男鹿の山中から始まった物語、いかがでしたでしょうか。

時代の潮流に取り残され、鬼の面を被って死に場所を探していた孤高の浪人・慎之介。そして、非業の死を遂げた父の遺志を継ぎ、毅然と立ち上がった華族の令嬢・伶子。

極寒の雪原で交わされた二人の「主従の誓い」と、そこに割り込むちょっと抜けた御者・末吉のコミカルな掛け合いによって、この風変わりな三人組の旅路が形作られました。


過去の業を背負った最強の「侍狩り」が、文明開化に沸く大帝都・東京という新たな舞台で、お嬢様の「剣」としてどのように暴れ、そして変革の時代を生き抜いていくのか――。ここから慎之介の、文字通りの“東京奮闘記”が本格的に幕を開けます。


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新しき時代を駆ける彼らの行く末を、これからどうぞ見守ってください。また次のお話でお会いしましょう!

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