氷が割れる音
その夜、風の音が違っていた。
窓を叩く風はいつもより荒く、屋敷の石壁を撫でるような低い唸りを立てている。
リリアは机に向かったまま、ふとペンを止めた。
――静かすぎる。
昼間の仕事の疲れが残っているはずなのに、神経が妙に冴えていた。
胸の奥に、言葉にできない違和感が引っかかっている。
「……気のせい、でしょうか」
そう言って、再び書類に視線を落とした瞬間だった。
かすかな音。
布が擦れるような、微細な気配。
次の瞬間、窓ガラスが砕け散った。
反射的に身を伏せる。
冷たい破片が床に散らばり、夜気が一気に流れ込んだ。
「――っ!」
影が、滑り込んでくる。
黒い装束。顔は覆われ、刃が月光を反射する。
考えるより早く、身体が動いた。
机を蹴り、距離を取る。
だが、完全に避けきる前に、肩口を掠める冷たい感触。
――切られた。
痛みは遅れてやってきた。
だが、それよりも先に、空気が変わる。
「……何をしている」
低く、抑えられた声。
次の瞬間、刺客の身体が宙に浮いた。
見えない力に引き裂かれるように、床へ叩きつけられる。
カイエルが、部屋の入口に立っていた。
いつもの無表情。
だが、その目だけが、凍てつくほど冷たい。
「――触れたな」
刺客ではない。
リリアの肩に向けられた言葉だった。
「だ、大丈夫です。少し、掠っただけで……」
言い終える前に、彼は距離を詰めていた。
「動くな」
短く、強い声。
肩に手が触れる。
手袋越しでも分かるほど、彼の指は冷えていた。
だが、次の瞬間。
その冷たさの奥に、押し殺された震えが混じる。
「……これを“少し”と言うな」
彼の声が、わずかに低くなる。
刺客が呻き声を上げる。
だが、カイエルは一切視線を向けなかった。
視界にあるのは、ただ一人。
「君に刃を向けた理由を吐かせろ」
空気が、凍る。
魔力が溢れ出し、床に薄く霜が張る。
刺客の呼吸が荒くなり、恐怖が目に見えて伝わってくる。
「……王都……」
かすれた声。
「命令、です……王太子直属の……」
その言葉が落ちた瞬間、室温がさらに下がった。
リリアは、初めて理解する。
――この人は、本気で怒っている。
「連れて行け」
短い命令。
影が現れ、刺客を引きずっていく。
扉が閉まり、静寂が戻る。
だが、その静けさは、先ほどまでとは違っていた。
「……すみません」
リリアが言うと、カイエルはゆっくりと振り向いた。
「何がだ」
「私がここにいるせいで……」
言葉の途中で、彼の手が机を叩いた。
音は大きくない。
だが、その一撃に、感情が込められていた。
「違う」
はっきりとした否定。
「君のせいではない」
一拍。
「――私が、君を守りきれなかった」
その言葉に、胸が詰まる。
「そんな……」
「私は、この領地の主だ」
低い声が、揺れる。
「守ると決めた。だから、次はない」
次はない。
それが、脅しではなく誓いだと分かってしまう。
「……怖く、ありませんか」
思わず、そう聞いていた。
自分が、ではない。
彼が、国を敵に回すことが。
カイエルは、少し考えた。
「怖いと思うものは、既に決まっている」
「何、ですか」
彼は、リリアを見た。
まっすぐで、逃げ場のない視線。
「君を失うことだ」
胸が、強く打たれた。
言葉が、すぐに理解できなかった。
理解してしまうのが、怖かった。
沈黙が落ちる。
やがて、カイエルは視線を外し、外套を脱いだ。
「怪我の手当てをする」
「……はい」
肩に巻かれる布の温度が、やけに熱く感じる。
――守られている。
その事実が、こんなにも重いとは思わなかった。
夜が更けていく。
砕けたガラスの向こうで、風が唸っている。
氷の公爵と呼ばれる男の中で、
確かに何かが、音を立てて割れた夜だった。
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