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言葉はなくとも

 朝の空気は、王都よりもずっと冷たかった。


 けれど、刺すような冷えではない。

 肌を引き締め、頭を冴えさせる種類の冷たさだ。


 リリアは窓を開け、深く息を吸った。

 肺の奥まで澄んだ空気が入り込み、昨夜まで胸に残っていた重さが、少しだけ薄れる。


 ――ここでは、朝がちゃんと朝だ。


 王都では、朝は常に始まりであると同時に戦場だった。

 社交、評価、立場、噂。

 一日が始まる前から、心はすり減っていた。


 だがこの屋敷では、誰も急かさない。


「……落ち着かない、ですね」


 独り言が漏れ、リリアは苦笑した。

 静けさに慣れていない自分に、少し呆れる。


 身支度を整え、部屋を出ると、廊下で使用人とすれ違った。

 年配の女性で、穏やかな表情をしている。


「おはようございます、リリア様」


 自然な声だった。

 探るようでも、媚びるようでもない。


「おはようございます」


 返事をしながら、胸の奥がわずかに揺れる。


 ――疑われていない。


 それが、これほどまでに心を軽くするものだとは思わなかった。


 食堂には、既に朝食が用意されていた。

 湯気の立つスープ、焼き立てのパン、素朴だが丁寧な料理。


 席に着こうとしたとき、机の端に置かれた数枚の書類が目に入った。


 無意識に、足が止まる。


「……魔法結界の、再設計案?」


 紙面に並ぶ術式は、見覚えのある形式だった。

 だが、どこか歪んでいる。


「この構成だと、魔力の流れが滞る……」


 指先が勝手に動き、空中に術式の流れをなぞる。


「ここをこうして……いえ、根本から変えた方が」


 気づけば、完全に集中していた。


「それは、どういう理屈だ」


 背後から声がして、はっと振り返る。


 いつからそこにいたのか。

 カイエルが、扉のそばに立っていた。


「……失礼しました。勝手に書類を」


「構わない」


 短く言って、彼は机に近づく。


「続きを言え」


 命令口調ではない。

 促すような声だった。


 リリアは一瞬迷い、それから説明を始めた。

 術式の流れ、魔力の収束、想定される負荷。

 王都で誰にも聞いてもらえなかった話を。


 話し終えた後、沈黙が落ちる。


 ――やはり、余計だっただろうか。


 そう思いかけた瞬間、カイエルが言った。


「その案でいこう」


「……え?」


「理にかなっている。無駄がない」


 それだけだった。

 だが、その一言が胸に落ちる。


「……よろしいのですか。私は、正式な立場では」


「立場で仕事を選ばない」


 きっぱりとした言葉。


「必要かどうか、それだけだ」


 必要。


 その言葉が、胸の奥で何度も反響する。


「……ありがとうございます」


 そう言うと、カイエルはわずかに視線を逸らした。


「礼は不要だ。仕事をしただけだろう」


 その言い方が、不思議と優しかった。


 それから数日、似たようなことが続いた。


 偶然のように相談が舞い込み、

 偶然のように、彼女の知識が役に立つ。


 だがリリアは分かっていた。


 ――これは、偶然ではない。


 それでも、問いただすことはしなかった。

 彼は何も言わず、何も誇らず、ただ環境を整えているだけだから。


 夜、執務室の灯りが落ちる頃。


 リリアは一人、書類をまとめていた。

 肩に疲労が溜まり、息をつく。


 そのとき、机の端に音もなく紅茶が置かれた。


 顔を上げると、カイエルが立っている。


「……気づきませんでした」


「集中していた」


 それだけ言って、彼は去ろうとする。


「……あの」


 呼び止めると、彼は足を止めた。


「どうして、ここまでしてくださるのですか」


 気づけば、口にしていた。

 聞くつもりはなかったはずなのに。


 カイエルは少し考え、そして答えた。


「君が力を発揮できない環境は、無駄だ」


 淡々とした声。


「それを正すのは、領主の仕事だ」


 領主として。

 公爵として。


 そう理解しようとして、胸が少し痛む。


「……そう、ですか」


 それ以上は聞けなかった。


 彼が去った後、リリアは紅茶に口をつける。

 ちょうどいい温度。

 ちょうどいい苦味。


 ――私のことを、よく見ている。


 その事実に、胸がざわつく。


 夜、部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。


 ここに来てから、泣いていない。

 苦しいはずなのに、眠れている。


「……ずるい人」


 小さく呟いて、布団に潜り込む。


 何も言わず、何も求めず、

 ただ“必要な場所”を用意する。


 そんな優しさを向けられて、

 平気でいられるほど、強くはなかった。


 リリアは目を閉じる。


 ――この人の隣に、立ちたい。


 まだ、そうと認める勇気はない。

 だがその想いは、確かに芽吹き始めていた。


 静かな辺境の夜が、

 その小さな感情を、そっと包み込んでいた。

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