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[エピローグ]当たり前になった温度

 朝、目を覚ましたとき、最初に感じたのは温もりだった。


 背中に、確かな重さがある。

 逃げ場を塞ぐようでいて、強くはない、慣れた腕。


「……起きているのか」


 低い声が、すぐ近くで聞こえた。


「はい」


 そう答えながら、リリアは身じろぎする。

 すると、その動きに合わせるように、腕がわずかに緩んだ。


「まだ、早い」


「ええ。でも……目が覚めてしまって」


 辺境の朝は静かだ。

 鳥の声と、遠くの風の音だけ。


 王都で目覚めていた頃のような、焦燥感はない。

 今日は何を失うのか、誰に疑われるのか、そんな不安もない。


「……不思議ですね」


 ぽつりと呟くと、背後の気配が少し動いた。


「何がだ」


「朝が、怖くないんです」


 カイエルの腕が、一瞬だけ強くなる。

 だが、すぐに力は抜けた。


「それは……良かった」


 その言い方が、あまりにも真剣で、リリアは小さく笑った。


 起き上がると、彼も一緒に身体を起こす。

 無言のまま、同じ時間を共有する。


 この沈黙が、心地いい。


 身支度を整え、二人で食堂へ向かう。

 使用人たちは、もう驚かない。


 最初の頃は、遠巻きに様子を窺っていたが、今ではそれもない。

 ここでは、この関係が「日常」なのだ。


「今日は、領境の視察でしたね」


 リリアが言うと、カイエルは頷いた。


「ああ。だが、無理はするな」


「分かっています」


「……分かっていない顔だ」


「そんなことありません」


 即座に否定すると、彼はわずかに眉を動かした。


「昼には戻る」


「命令ですか」


「約束だ」


 その言葉に、胸が少し温かくなる。


 視察の準備を終え、カイエルが屋敷を出ると、リリアは執務室へ向かった。

 机の上には、いつも通り書類が積まれている。


 だが、それに追われる感覚はない。


 必要とされている。

 それだけでなく、信頼されている。


 午後、彼が戻る前に仕事を切り上げ、庭へ出る。

 辺境の風が、髪を揺らす。


「……昔なら、考えられませんね」


 独り言が漏れる。


 誰かの帰りを、心穏やかに待つなんて。


 足音がして、振り返る。


「終わったか」


 カイエルだった。

 思ったより、早い。


「はい。視察は?」


「問題ない」


 それだけ言って、自然に隣に立つ。


「……あの」


「どうした」


「最近、少しだけ怖いんです」


 正直な言葉だった。


 彼が視線を向ける。


「こんな毎日が、当たり前になることが」


 沈黙。


「失うのが、怖くて」


 カイエルは、しばらく何も言わなかった。

 やがて、静かに口を開く。


「失う可能性は、ゼロではない」


 厳しいほど現実的な言葉。


「だが」


 一拍。


「だからこそ、選び続ける」


 彼は、リリアの手を取った。


「今日も、明日も。

 君を選ぶ」


 強くない。

 だが、逃げ場のない温度。


「……反則です」


 そう言いながら、指を絡める。


「私も、選びます」


 歩き出す。

 二人で、同じ速度で。


 追放されたはずの令嬢と、氷の公爵。

 そんな肩書きは、もうどうでもいい。


 ただ、ここにあるのは――

 当たり前になった温度と、選び続ける覚悟だけだった。

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