追放
舞踏会の夜は、いつもより香が濃かった。
花の甘さに紛れて、酒と香油と、人の欲の匂いがする。
リリア・アルヴェーンは大理石の床を踏む靴音すら、なるべく小さくなるよう意識していた。背筋は伸ばす。視線は落とさない。口元だけ、ほんの少し柔らかく見せる。
公爵令嬢としての仮面は、もう十年以上つけている。
これくらい、呼吸と同じだ。
――ただ今夜だけは、胸の奥が妙に静かだった。
王宮の大広間。天井のシャンデリアが星空のように輝き、貴族たちの宝石がそれに呼応する。笑い声が跳ね、ドレスが翻り、甘い囁きが泡のように弾けて消える。
その中心に、王太子エドワルドがいた。
明るい金の髪。誰にでも優しげな微笑。だが、今夜に限って彼の目は冷えた刃のように一点を刺している。
――私だ。
リリアは理解していた。
この数週間、積み上げられてきた小さな違和感の正体を。
視線が、寄ってくる。
好奇心。期待。嘲り。
そこに混ざる僅かな同情すら、リリアの肌にまとわりついて気持ち悪い。
「皆、静粛に」
王太子の声が広間に響く。楽団が音を止め、ざわめきが波のように引いていく。
静寂が落ちた瞬間、リリアの耳は自分の心臓の音を拾った。規則正しい。乱れていない。
「今宵、ここに宣言する」
エドワルドが、リリアの方へ一歩踏み出した。
その隣には白いドレスの少女――聖女と称されるミレイアが寄り添っている。透けるほど薄い笑みと、今にも泣き出しそうな瞳。正しい被害者の顔だ。
「リリア・アルヴェーン。貴殿との婚約を、ここに破棄する」
ひゅ、と誰かが息を呑んだ。
次の瞬間、あちこちから小さな囁きが生まれ、広間は生き物のように蠢き始める。
「……やはりね」
「聖女様に、あんなことを」
「公爵家も終わりだわ」
聞き覚えのある声が混ざっている。昨日まで笑い合った相手の声だ。
リリアは、それでも表情を崩さなかった。崩す理由が見つからない。
「理由を述べる」
王太子が言い、ミレイアが一歩前へ出た。
白い手袋を握りしめ、震える肩。涙を浮かべ、しかし健気に耐える。
「わたし……リリア様に……何度も、怖い思いをさせられました……」
甘い声。甘い涙。
彼女の周りの空気だけが、妙に暖かい。人は弱いものに優しくしたがる。
ミレイアは続けた。
「薬草庫でのことも……祈りの間でのことも……。わたしが聖女だから、邪魔だったのだと思います……」
「卑劣だ」
「恥を知れ」
「聖女様になんてことを」
言葉が矢のように飛ぶ。誰が最初に投げたのか、もうどうでもいい。
群衆は一度火がつくと止まらない。
王太子は、正義の顔で頷いた。
「証言もある。ミレイアの侍女、そして複数の者が見たと言っている」
複数。
便利な言葉だ。
リリアは、王太子の目を見た。
そこに迷いはない。あるいは、迷いを見る余地さえ与えないほど、彼は「正しい結論」だけを欲している。
「弁明はあるか?」
形式だけの問い。
答える前から、答えは決まっている。
リリアは口を開いた。
言葉は、いつも通り整然と並ぶ。
「ございません」
それだけ。
ざわ、と波が立った。
予想外だったのだろう。泣き叫ぶでもなく、詰め寄るでもなく、土下座するでもない。
王太子は眉を寄せ、苛立ちを隠さなかった。
「……ふざけているのか?」
「いいえ」
リリアは静かに言った。
「ただ、私の言葉が必要とされていないと理解しているだけです」
その瞬間、ミレイアの瞳がわずかに揺れた。
ほんの一瞬だけ、仮面の下の焦りが覗く。
――やはり。
リリアの胸の奥が、少しだけ冷えた。
悲しみではない。悔しさでもない。
ただ、確認だ。
王太子は唇を歪めた。
「公爵家の令嬢としての誇りだけはあるというわけか。ならば、その誇りと共に――」
彼の声が高くなる。
「リリア・アルヴェーンを、王都より追放する。アルヴェーン公爵家には相応の処分を下す。今後、彼女を擁護する者は王家に逆らう者と見なす!」
瞬間、空気が凍った。
誰もが、誰もを測り始める。
この場でどちらにつくべきか。どこまで声を上げていいか。
――そういう世界だ。
リリアは一度、瞬きをした。
まつ毛が触れる程度の小さな動きで、涙を落とす気配はない。
「承知いたしました」
自分の声が自分のものに聞こえないほど、淡々としていた。
「私はこれで失礼します」
ドレスの裾を持ち、礼をする。
完璧な角度。完璧な間。
完璧な公爵令嬢の退場。
背を向けた瞬間、背中に視線が突き刺さる。
刺され慣れている――そう思った。だから歩けた。
歩きながら、リリアはふと、心の片隅で数を数える。
十年前。
王城の地下に眠る魔法陣の補修。
七年前。
疫病対策の浄化結界。
三年前。
国境の防衛術式の再構築。
――誰が、やってきたと思っているの。
声には出さない。
出したところで、今夜の彼らに届く言葉ではないから。
大広間の扉が近づく。
重い扉。あの向こうは廊下。夜風。静けさ。
扉の前で、衛兵が道を塞いだ。
「追放者。勝手に歩くな」
命令口調。
彼らは王太子の正義を背負っているつもりなのだろう。
「……馬車の用意は」
「そんなものはない。今すぐ外へ出ろ」
周囲で、笑い声が小さく漏れた。
惨めさを味わえ、と言わんばかりだ。
リリアは一度、息を吸った。
香が濃い。甘い。気分が悪い。
「かしこまりました」
反抗しないのが最善だ。ここで騒げば、彼らはより喜ぶ。
そう理解している自分が、少しだけ嫌だった。
扉が開き、冷たい外気が頬を撫でた。
雪の気配。冬の匂い。
王宮の外廊。
遠くに灯りが揺れ、夜空には薄い雲が流れている。
そこに――黒い外套の男が立っていた。
背が高い。肩幅が広い。
装飾の少ない衣装は、貴族というより軍人のそれに近い。黒髪が月光を吸い、瞳は氷のように淡い色をしている。
場違いなほど静かで、場違いなほど落ち着いている。
リリアは思わず足を止めた。
知らない顔ではない。噂なら山ほど聞いた。
辺境を治める公爵。
冷徹で、人を寄せ付けない。
――氷の公爵、カイエル・グランディス。
彼は衛兵に目を向けただけで、空気の温度を下げた。
「道を開けろ」
低い声。命令ではなく、事実の提示のようだった。
「し、しかし……追放者です!」
衛兵が食い下がる。
カイエルは微かに眉を動かした。それだけで、衛兵の喉が鳴る。
「追放する権利は王家にある。だが、追放先を定めるのは――本人の命が残る範囲だ」
意味が、少し遅れて落ちる。
リリアは硬直した。
自分に向けられている、ということが信じられなかった。
カイエルが、こちらへ歩いてくる。
靴音は静かだが、ひとつひとつが確かな重さを持っていた。
「リリア・アルヴェーン」
名を呼ばれる。
王宮で名を呼ばれることは日常だったのに、今は異様に胸が締まる。
「迎えに来た」
「……私を?」
「他に誰がいる」
当たり前のように言う。
その表情は冷たいままなのに、言葉だけが、不思議なほど真っ直ぐだった。
リリアは唇を動かす。だが、すぐに言葉が出ない。
迷いではない。驚きだ。
「理由を伺っても?」
カイエルは少しだけ目を細めた。怒っているわけではない。
彼は淡々と答えた。
「君が無能なら、この国は十年前に滅んでいる」
一瞬、世界が静止した。
リリアは自分の胸の奥が、ほんの少しだけ揺れるのを感じた。
――知っている。
この男は、知っている。
誰にも評価されなかった功績を。
誰にも見られなかった努力を。
誰にも褒められなかった夜を。
リリアは、気づかないうちに息を止めていた。
吐き出すと、白い息が夜に溶ける。
「……私は追放者です」
「それがどうした」
「私を庇えば、あなたの領地にも影響が――」
「影響があるから迎えに来た」
カイエルは言い切った。
「君を失う影響の方が、遥かに大きい」
冷たい言葉のはずなのに、胸の奥が熱くなる。
それが怖くて、リリアは視線を逸らした。
今、泣いたら。
今夜だけは、仮面が剥がれてしまう。
カイエルは外套をわずかに持ち上げ、彼女の肩へ掛けた。
温度が移る。布の重みが、現実を押し付けてくる。
「寒いだろう」
――寒いのは、身体だけじゃない。
リリアは小さく頷いた。
「……お言葉に甘えます」
そう言ってしまった瞬間、胸の奥の何かが、ふっとほどけた気がした。
追放されたはずの自分に、まだ「行き先」がある。
遠くで、舞踏会の音が微かに漏れてくる。
あの光の中に、もう戻る必要はない。
カイエルは背を向け、馬車の方へ歩き出した。
その背中は冷たい夜の中で、妙に頼もしく見えた。
リリアは一歩、踏み出す。
――この夜から、私の物語は変わる。
そう確信しながら。
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