第3章:鏡の中の花
安藤美月が手にした童話集の最後のページには、手書きのメモが挟まれていた。
《SとSとSが出逢えば、檻はまた開かれる。》
“S”——それが誰を指すのか。冴子、志乃、詩織。かつて桜ホームで交錯した三人の“姫”たち。
美月は思う。「あれは、終わってなどいなかった」
名古屋市の再開発区域にある古びた公団住宅。そこに一人の女性が住んでいた。名を、佐野志帆。
記憶を失ったとされていた元入居者。
彼女の部屋には、壁一面に紙片が貼り付けられていた。それらはすべて、同じ文章だった。
《私は誰? 私は、私?》
志帆は一日中、鏡を見つめながら、誰かと会話している。だがその“誰か”の声は、外からは聞こえない。
「冴子、詩織……ううん、私が……あの時、見たのは……」
彼女の記憶が断片的に戻り始めた瞬間、訪問者があった。
それは橘刑事だった。
「佐野志帆さんですね。お話を聞かせてください」
志帆は静かに頷いた。その目の奥には、遠くから戻ってきた者だけが持つ深い澱が漂っていた。
一方、美月は新たな情報提供者に接触していた。元・あおば静養院の関係者であり、現在行方不明となっている研究員・望月涼子の弟、望月直樹。
「姉は、実験の対象者たちを“花”と呼んでいた。咲くか、枯れるか、それだけだって」
彼は震える声で語った。
「姉は、あの施設で“花姫”を造ろうとしていた。冴子たち三人は……その原型だったんだ」
そして、美月に封筒を差し出した。中には一枚の写真。
それは、地下の密室で撮られたとおぼしき三人の少女の写真。
全員が笑っていた。
しかしその笑みには、どこか空虚で、機械的な冷たさが宿っていた。
「これは、再現されている。誰かが、また“檻”を作ろうとしてる」
冴子、志乃、詩織。
彼女たちは、まだ終わっていない。
鏡の中で、微笑む“姫”がこちらを見つめていた——。
物語は、なおも続く狂気の扉を叩こうとしていた。