第10章:咲いて、散って、また咲いて
橘の指先は冷たく震えていた。
花骸——そう名乗ったその少女は、確かに美月の面影を宿していた。だが、あれは別の存在だ。麗と美月、そしてあの地下に閉じ込められた子どもたちの“記憶”が融合した存在。肉体ではなく、欲望と痛みと匂いで繋がった“集合的記憶”そのもの。
「逃がさないよ、橘さん。あなたも、花の檻に入らなきゃ」
声が耳元で囁かれたかと思えば、壁から這い出すように複数の少女たちが現れた。誰もが美月と酷似しているが、少しずつ異なる。片目だけが濁っている子、片足が義足の子、肌が焼けただれた子——それぞれが、過去に失われた少女たちの断片だった。
橘は拳銃を向けたが、誰に撃てばいいかわからなかった。
「誰が君をこんなものに……!」
「あなた、忘れたの? あの夜、地下に火を放ったとき……わたしたちはまだ生きていた。あなたが“全て終わった”と決めつけたあの瞬間に、残されたものの声は誰にも届かなかった」
橘の視界が揺れる。焦点がぼやけ、耳の奥で無数の花が咲く音がする。
「わたしを殺して。そうすれば、檻は閉じる。でもあなたは、わたしが誰だかもう分からない。美月? 麗?それとも……あなた自身?」
ふいに、天井から鈴の音が降ってきた。
そして、背後の非常口が開いた。
「……橘さん、今すぐこっちへ!」
美月だった。
いや、以前の“美月”とは違う。短く切り揃えた髪に、目には覚悟の光。彼女はかつて地下壕で姿を消した少女でありながら、別の存在として“戻って”きた。
「彼女たちは“選ばれなかった私たち”。でも、私はまだ生きている。記憶だけにされないために、来たの」
美月が手にしていたのは、火炎放射器だった。
「あなたを助けにきたんじゃない。彼女たちを、解放する」
橘が叫ぶ暇もなく、美月は火を放った。
業火が地下室を照らし出し、咲き乱れていた“花骸”たちが燃え上がる。
その中で、一人の少女が、うっすらと微笑んだ。
「やっと……咲けた」
悲鳴もなく、影が崩れ、匂いが残った。
*
燃え残った床に、ひとつの鍵が落ちていた。銀色の、古びた鍵。
美月はそれを拾い上げ、橘に差し出す。
「これは“最初の檻”の鍵。……まだ終わってない」
橘はそれを受け取り、ふと目を閉じた。
外では、桜が咲いていた。
だがその匂いは、もう何か別のものに変わっていた。