隣の席の怪しい(かわいい)天竺谷さん
「あ、消しゴムない」
一時間目の授業中、ノートを取っている最中に気が付いた。
家に忘れたのか、それともどこかで落としたのか。理由は分からないがとにかく消しゴムがない。
このままでは今日一日、誤字の修正ができない身で過ごすことになる。それはそれでそこまで不便なわけでもないが、なければないで落ち着かないし……仕方ないな。
「あの、天竺谷さん。消しゴム貸してくれない?」
申し訳なさを含めた小声で、遠慮がちに隣の席のクラスメイトに話しかける。
すると、開いているのかいないのか分からない目をした黒髪の女子が振り向いた。
「どないしたん? 失くした?」
妖しさのある笑みを浮かべる彼女の名は天竺谷牡丹。
最近転校してきたばかりで、サラッとした黒くて長い髪と細い目、京都弁のはんなりとした言葉遣いが特徴の狐っぽい顔をした美人さんだ。
「うん、ちょっとどこかにお出かけ中らしくてさ。悪いけどお借りできませんでしょうか」
「ええよ。予備も持って来とるさかい、今日のお供にどうぞ」
「ありがとう」
お礼を言いながら、片手を器にして受け取る。
良かった、これで今日一日の懐刀ができた。寂しい思いをしなくてすむぜ。
そんなことを思いながら、ノートの誤字を修正していると、
「貸しが一つ、できてしもうたねぇ?」
ポソッと、天竺谷さんが蠱惑的な笑みを浮かべて僕に耳打ちしてきた。
妖しさのある微笑みにドキッとしつつ、落ち着かない気分のまま授業の続きをノートに書き起こしていくのだった。
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「流。大丈夫なのか、お前」
昼休みの教室で弁当を食べていると、クラスの友人、池田口くんが何やら心配そうに話しかけてきた。
言葉の意図が分からず、疑問符を浮かべたまま甘い味付けの玉子焼きを口にしていると、「天竺谷のことだよ」と続けて言われた。
「天竺谷さんが、どうしたの?」
「どうしたの、じゃなくてな。お前、一時間目から絡まれてただろ。なんかしたのか?」
「消しゴム失くしちゃってさ。貸してもらっただけだよ」
端的に説明すると、池田口くんは「そうか」と言って前の席に座ってきた。
どうしてそんなことを訊いてきたんだ? と弁当の残りを平らげながら視線で訴えていると、それに答えるように池田口くんが口を開いた。
「いや何、言い方は悪いが……アイツ、正直色々と怪しいだろ? お前、隣の席だからってなんかよく話してるみたいだけど、心配でな」
「うーん……たしかにちょっと雰囲気はあるけど、普通の子だと思うよ」
空になった弁当箱を片付けながら、池田口くんの言葉に軽く反論した。
たしかに彼の言う通り、天竺谷さんはミステリアスだけど、特にこれといって悪いこともしていない。いたって普通の優等生だと思う。
そんな僕の評価に納得していないのか、池田口くんは腕を組んでさらに続けた。
「いやいや、考えてもみろ。色白で狐顔、そして京都弁……たしかに美人っちゃ美人だが、どう見たって色々怪しいだろ。ありゃ絶対にいつか裏切るタイプだと思うね」
「裏切るって何をだよ」
お前は裏切られるようなことをしでかす予定でもあんのか。そっちの方が心配になるわ。
「お前、消しゴム借りたって言ってたよな。なんか言われなかったのか?」
「貸し一つ、とは言われたかな」
「ほら見ろ。絶対後からなんか請求されるやつだぞそれ」
それ見たことか、と呆れた目で見てくる池田口くんの視線に対し、僕は頭を捻った。
「天竺谷さんがそんなことするかな?」
「する。雰囲気がそう語ってる。京言葉で本心を隠しながらなんやかんやで自分に有利な貸し借り作っていって、最終的には法外な見返りを──」
「えらい楽しそうにお話しとりますねえ?」
池田口くんが語っている途中で、その後ろから件の天竺谷さんが笑顔で語りかけてきた。
……なぜだろう。いつもとあまり変わらない笑顔なのに、なんだか見ていると薄ら寒いものを感じる。
「よし。俺はトイレに行ってくる。じゃあな」
池田口くんはそう言うと、すぐに立ち上がって後ろのドアから教室を出ていった。
アイツ、振り返ることすらしなかったな。なんだったんだ一体。
「あないに慌てんでも取って食やしいひんのに。おもろい人やわ」
去っていった友人の後を見ながら、天竺谷さんはくすくすと笑った。
ううむ、やっぱり怪しいというよりも可愛いと思う。どちらかといえば綺麗系の美人さんだけど、笑うと少し幼さを感じるというか……。
「何か、私の顔に付いてはる?」
あ、やべっ。顔見てるのバレた。
『貴女の顔に見惚れてました』なんて軟派なセリフを馬鹿正直に言えるわけがない。どうにか誤魔化そうと考えを巡らせていると、「まぁ、ええけどね」と向こうから話を切り上げてくれた。
それから天竺谷さんは自分の席に座ると、続けて話しかけてきた。
「さっきの話、キミはどう思てるの?」
「どうって?」
「私が怪しいとかなんとか言うてはったやろ。流さんにもそう思われてたなら、えらいショックやわぁ」
「うわぁ分かりやすい泣き真似」
大仰に両手で顔を覆って泣くような素振りを見せる天竺谷さんに対して、僕は依然として真顔である。
だって手の隙間から笑った顔が見えてるし。ここまであからさまだと呆れるどころか微笑ましいくらいだ。
「……ふふっ。ごめんごめん」
僕がジッと見つめている様が面白かったのか、天竺谷さんは顔から手を退けて軽く謝ってきた。
それからそのまま上機嫌な様子で自分の席に着き、笑みを浮かべたまま次の授業の準備を始めた。
……まあ、笑った顔が見られたからいいか。
そう考えると毒気も抜かれてそれ以上突っ込む気にもなれず、僕も授業の準備を始めたのだった。
ちなみに池田口くんは遅刻して教室に帰ってきた。何してんだあいつ。
▼
それから時は経ち、放課後。ホームルームが終わった途端、雨が降り始めた。
外を見れば空に灰色が広がり、雨粒が窓ガラスを打っている。勢いは激しく、所謂土砂降りというやつだ。
「うわ、めっちゃ降ってる。天気予報だと降らないって言ってたのに」
「ほんまやねぇ。昼なんかカンカン照りやったのに」
二人で窓の外を見ながらぼやく。
予想外の天候ということで、当然ながら僕は傘を持っていない。まあバス通学だからバス停まで走ればなんとかなるけど……最寄りが少し遠いんだよなぁ。
「……しょうがない、走って帰るか。天竺谷さんはどうするの?」
「私は折り畳みがあるけど……あ、流さん。ちょい待ってえな」
意を決して立ち上がったところで呼び止められ、天竺谷さんに視線を向けると、スマホをこちらに見せてきた。
その画面には天気予報アプリが表示されていて、傘と雲のマークが並んでいる。
「この雨、あと一時間くらいで止むみたいやで。この後時間あるんなら、一緒に待たへん?」
天竺谷さんの提案に乗った僕は彼女に連れられて教室を出た。
それから校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下まで移動して、のんびりと外の景色を見ながら雨上がりを待つことになった。
天竺谷さん曰く、「こっちの方が涼しくて落ち着くから」とのことだけど……。
「あのさ、天竺谷さん」
「何?」
「なんで僕を見つめてるんですか……?」
場所を変えてからというもの、僕の隣に佇んでいる天竺谷さんは何を話すでもなくジッとこちらを見つめてきていた。
その細くて開いているのか分からない目に無言で貫かれ続けているのに限界を感じ、僕は堪らず訊ねたわけである。
「いやぁ、深い意味はないねんけど……流さんは目ぇが大きいなと思ぉて」
「そうかな?」
そんなこと始めて言われた。
別に普通のサイズだと思うけど……まあ、僕自身あまり意識したことが無いというのもあるから分からないけどね。
「私はほら、こないな感じやし。喋り方もあってよく疑われたりやらするさかい、ちょい羨ましくて」
天竺谷さんはそう言うと、自分の細目を指さして控えめに笑った。その笑顔にいつものような明るさは見受けられない。
どこか力のない、暗く見える表情を見た僕は思わず「あぁ」と小さく声を漏らした。
昼の池田口くんとの会話の後、彼女は僕をからかっていたけど……本当は傷ついていたのだろう。
それを誤魔化すように気丈に振舞っていたのかもしれない。
とりあえず池田口くんは明日にでも叩き飛ばすとして……どう言葉を返したものかな。
適当に励ますのは簡単だけど、それはかえって彼女を傷つけるだろう。それならいっそ……いや、でもそれを言うのはちょっと、いやかなり気恥ずかしいような……。
ええい、どうにでもなれ!
自分の羞恥心からくる少しの逡巡の後、僕は意を決して口を開いた。
「僕は……」
「うん?」
「僕は天竺谷さんの目も、喋り方も、好き……なんだけど」
「……そ。おおきに」
僕の言葉に対して、天竺谷さんはそっぽを向いて取って付けたようなお礼を返してきた。
どうやら信じていないようだ。まあタイミングがタイミングだし、ただの薄っぺらな励ましだと思われたのだろう。
しかしこの言葉は本心からのものだ。そこを勘違いされたままというのは、なんだかすごく悔しい。というかなんかちょっと腹が立ってきた。
余所を向いたままの彼女に向けて、僕は続けて口を開いた。
「いや、冗談とかじゃなくて本気で言ってるからね? 切れ長の目って知的でクールだし、大人っぽいし……喋り方だって、すごく落ち着いてる感じがして雰囲気に合ってると思う」
「……」
天竺谷さんの態度は変わらず、無言の上にこっちを見ない。
……足りなかっただろうか。
「天竺谷さんは元々綺麗だけど、隣で座ってる時に見る横顔もその目のお陰で余計綺麗に見える。笑った時に薄っすら開いてる時とか、可愛いと思ってるよ」
「…………」
ムキになって続けざまに言葉を並べてみたものの、天竺谷さんは顔を背けたままだ。その様子に特に変化はない。
……ん? いや、変化はあった。よく見ると彼女の耳が赤くなっている。
どういう感情の変化だろうかと思い、黒い髪で隠れた頭を見ながら思案していると……一つの結論に至った。
これはもしや……ブチギレてらっしゃる?
そうだ。冷静に考えれば、僕が自分勝手色々と言葉を並べ立てたに過ぎない。
しかも気にしている容姿についてひたすら私見を述べまくるという下手すればセクハラとも言える行為。天竺谷さんからすれば不快にしかならないだろう。
うっわ考えれば考えるほど自分がキモイことした自覚が出てきた。後で生徒指導の先生に告発でもされたらヤバイんじゃないの僕?
「あの、天竺谷さん……?」
頭を冷やした僕は恐る恐る声を掛けた。
ヤバい、こんなに涼しいのに汗が止まらない。湿気のせいでしょうか。
止まない雨模様を尻目に変な責任転嫁をしていると、天竺谷さんが突然立ち上がった。
「雨、弱なってきたなぁ。先帰るわ」
天竺谷さんはそれだけ言うと、横に置いていた自分の鞄をひったくるように取って駆け足で去っていった。
僕へと最後まで振り向くことなく、逃げるように。
「…………終わった」
……明らかに弱まってなどいない雨を見ながら、僕は絶望の声を漏らしたのだった。
▼
次の日の朝。昨日のことを思いだして憂鬱になりながらも、僕はいつも通り自分の席に着いた。
隣に目を向けると、そちらはまだ空席。天竺谷さんはまだ来ていないようだった。
……彼女が来たら、なんて話しかけよう。
「朝から湿気た顔してるな。なんかあったのか?」
ドギマギしながら鞄から教科書を取り出していると、諸悪の根源、池田口くんが呑気な面で話しかけてきた。テメェこの野郎。
「キミのせいで色々と大変なことになりそうだよ」
「朝一でご挨拶だな流くんよ。俺が一体何をしたと……あ痛い! なぜ脛を蹴っ……執拗に攻めるな! そんなに痛くないけどちょっとだけ痛い!」
池田口くんの脛を存分に(軽く)いじめた後、僕は軽く事情を話した。
すると彼は「なるほどな」と呟いて、軽く自分の後頭部を掻いた。
「そりゃご愁傷様なことで。……しかし天竺谷には悪いことしたな。後で謝っとくよ」
「そうしておいて。……あ~~マジでどうしよう……」
「ドンマイ」
あらためて頭を抱える僕に対し、池田口くんが慰めるように肩へ手を置いてきた。複雑な気分である。
しかし元の原因は彼とはいえ、天竺谷さんの機嫌を損ねる発言をしたのは僕自身の失態。池田口くん同様、こちらも誠心誠意謝るしかないよね。
ただ、どう謝ったものかなぁ……、
「おっと、噂をすれば……おーい、天竺谷ー」
池田口くんの声に教室の後ろ扉へと目を向けると、天竺谷さんが立っていた。彼女にしては珍しく、いつもより少し遅れた到着である。
そんな到着時刻の違いなんて気にすることなく、池田口くんはいち早く彼女の元へと駆けていった。
何か短い話をしてから頭を下げ、天竺谷さんが微笑んで池田口くんも軽く笑いながら自分の席へと移動していった。どうやらちゃんと昨日のことを謝って、無事受け入れてもらえたみたいだ。
それから天竺谷さんも自分の席までやってきて、鞄を降ろした。
「おはようさん、流さん」
「お、おはよう、天竺谷さん」
少し緊張しながら、挨拶を返す。
特に変じゃなかったよね? なんていつも通りの自分が分からなくなりつつ鞄から荷物を出す天竺谷さんの様子を伺っていると、僕はあることに気が付いた。
「……天竺谷さん、なんか上機嫌だね?」
「え? そうかいな?」
本人は自覚していないみたいだけど、彼女の顔は笑っている。たしかによく笑顔を浮かべているところは見るのだが、今日はなんだかいつもより嬉しそうな雰囲気に思えた。
あ、いや……そんなことより、昨日のことを謝らないとな。こういうのは早い方がいいだろうし、うん。
「えーっと、天竺谷さん。昨日は、そのー……」
「流さん、ありがとうな」
僕が謝ろうと思った矢先、天竺谷さんがお礼を言ってきた。
「え?」
「池田口くんに言うてくれはったん、流さんやろ? だから、ありがとう」
「そんな、お礼を言われることじゃないよ。むしろ、昨日は怒らせちゃってごめんっていうか……」
「怒った……誰がです?」
「えっ」
僕の謝罪に対して、天竺谷さんは不思議そうに首を傾げた。
嘘偽りなく、何のことか分かっていない様子である。
「昨日走って帰ったから、怒らせたんだと思ってたけど……違うの?」
「フォローしてくれたんやさかい、怒らへんて。……嬉しかったわ」
言葉の端は声が尻すぼみになってよく聞こえなかったけど、怒ってはいないらしい。
ホッとしていると、天竺谷さんは荷物を取り出し終えた鞄を机の横にぶら下げ、再び口を開いた。
「今度は私が流さんに貸し作ってしもたなぁ。これはなんかお礼せんと」
「そんなの気にしなくていいよ。僕が勝手にやったことだし」
「そう? じゃあ、遠慮なく今回は貰うだけにしとくわ」
天竺谷さんはくすくすと笑うと、一時限目の授業道具を机に出し始めた。
朝のホームルームもまだだというのに、準備が早い。流石は優等生……ん?
「あれ? 今日って歴史の授業あったっけ?」
「今週の土曜が登校日やさかい、今日の一時限目だけ月曜の授業科目になる言うてはったよ。あ、流さんもしかして……」
「……忘れました」
しまった。天竺谷さんを怒らせたと思って上の空になっていたせいか、今日が変則授業であることなんて完全に失念していた。
念の為、机の中と鞄の中を確認してみるも、当然ながら歴史総合の教科書は見当たらない。
「……ふふっ」
必死に存在しない教科書を探す様子がおかしかったのか、隣からひっそりとした笑い声が聞こえてきた。
その声に反応して横目で見てみると、昨日と同じように天竺谷さんが妖しさのある笑みを浮かべてこちらを見ている。
「あの、天竺谷さん。教科書見せてくれない?」
「ええよ。机、後でくっつけようか」
昨日に引き続いての忘れ物なのに、彼女は嫌な顔一つせずに愉快そうに笑って快諾してくれた。
それからまた、昨日と同じように天竺谷さんは蠱惑的な笑みを浮かべた。
「また貸しができてしもうたねぇ?」
昨日の焼き増しのように耳打ちされ、胸が高鳴る。
驚いて振り向くと、天竺谷さんは悪戯が成功した子どものようにくすくすと笑っている。
完全に僕の反応を見て楽しんでるな……なんて呆れながらも、不思議と気分は悪くない。
隣の席で笑う彼女を見て、自然と頬がほころんでしまう。
うん、やっぱり──
──天竺谷さんは怪しくて美人で、時々かわいい。