第9話:忘れられた工房の試練
ガルの追手が迫る中、ニナが指差したのは、塔の部屋の壁に描かれた奇妙な螺旋模様だった。それは彼女が書庫で見た古い神殿の図面の片隅に、忘れられた通路の印として記されていたものと酷似していた。
「エンキさん、ここです! きっと隠し通路が!」
だが、どうやって開けるのか? 二人が壁を探っている間にも、兵士たちの怒声と足音が近づいてくる。
「エンキさん、力を!」ニナが叫ぶ。
エンキは消耗しきった体に鞭打ち、最後の力を振り絞って壁の模様に手を当てた。粘土ではない石壁。リビル・キシュの力は効きにくい。だが、念じる。(開け!)
指先が痺れ、激しい頭痛が襲う。しかし、壁はびくともしない。
「ダメか…!」
「待って!」ニナが壁の模様を注意深く観察し、特定の窪みに指を押し込んだ。「師の記録に、古い仕掛けは星の配置に関係すると…この窪み、もしかして…!」
ゴゴゴ……。低い音と共に、壁の一部がゆっくりと内側へ回転し始めた。狭く、暗い通路が現れる。
「早く!」
二人は通路へ飛び込む。背後でガルが「追え!」と叫ぶ声と、兵士たちが駆け寄る音が聞こえた。回転扉は自動的に閉まり始め、間一髪、追手を振り切ることができた。しかし、ガルのことだ、別のルートで追ってくる可能性は高い。
通路の中は、黴と古い土の匂いが充満し、空気はひんやりと湿っていた。松明の頼りない光が、苔むした石壁と、どこまでも続くかのような闇を照らし出す。時折、通路の一部が崩れかけていたり、不気味な反響音が聞こえたりして、二人の不安を煽った。
「大丈夫ですか、エンキさん」ニナが、ふらつくエンキの肩を支える。
「ああ…なんとか」エンキは虚ろな声で答えた。魔術の代償は想像以上に重い。
「この通路、どこへ繋がっているのでしょう…」ニナが不安げに呟く。
「分からない…。でも、今は進むしかない」エンキは壁に手をつきながら、一歩ずつ足を進めた。互いを支え合いながら、二人は暗闇の中を進んだ。
やがて通路は上りとなり、朽ちかけた木の梯子が現れた。梯子を登りきると、そこはウルク市内の、今はもう使われていない古い井戸の底だった。地上へと這い出し、満月が照らす人気のない裏通りに出た時、二人はようやく安堵の息をついた。
エンキが以前使った廃墟へとたどり着き、彼は壁に寄りかかると、そのまま崩れるように座り込んだ。ニナは水甕の水で彼の顔を拭き、持っていた最後の干し肉を分け与えた。エンキはそれをゆっくりと咀嚼しながら、先ほどニナから託された粘土板のかけら――師のメモ――を見つめた。
「…これを、読まなければ」
ニナは頷き、松明の灯りの下で、かけらに刻まれた古代文字と暗号の解読に取り掛かった。師から教わった知識と、彼女自身の優れた言語能力を駆使し、集中して文字を追う。エンキは、その真剣な横顔を、ただ黙って見守っていた。
やがて、ニナは顔を上げた。その表情は、興奮と、それ以上の深い動揺に彩られていた。
「エンキさん…分かりました。対抗呪文のヒント、そして…力の真のリスクが」
ニナは語り始めた。粘土板には、邪神の混沌とした力を打ち消すには、リビル・キシュの本来の力――「創造」と「守護」の意志を高め、特別な触媒を用いて、力を「秩序ある形」へと再構築し、封じる必要がある、と記されていたこと。そして、その特別な触媒が「星降る泥」と呼ばれ、ウルクの地下深くに眠る古代の工房跡にあること。暗号化された地図は、その場所――この廃墟からも近い、古い地区の涸れた泉――を示していた。
「それがあれば、大神官を止められるかもしれない…!」エンキの声に、僅かな希望が宿る。
だが、ニナの表情は晴れない。「しかし、エンキさん…」彼女の声が震えた。「師のメモには、リビル・キシュの精神汚染のリスクについても、より詳しく書かれていました。力を使い続ければ…幻聴や幻覚が現れ、破壊的な衝動に駆られ…最後には、邪神の狂気に精神が同調し、人間としての自我を完全に失ってしまう、と……」
自我の喪失。それは、死よりも恐ろしい結末かもしれない。エンキは全身から血の気が引くのを感じた。自分が手にした力は、奇跡などではなく、魂を喰らう呪いだったのか?
「……怖い……」エンキは正直な気持ちを吐露した。「俺は…怪物になりたくない…」彼は頭を抱え、震え始めた。力を放棄したい。逃げ出したい。だが、それではニナは? 母は? ウルクは?
「エンキさん」ニナが、震えるエンキの手に、そっと自分の手を重ねた。「怖いのは、私も同じです。でも、あなたは一人じゃない。私がいます。ピップもいます。そして、あなたの中には、力を破壊ではなく、守るために使おうとする強い意志があるはずです。私、それを信じています」
ニナの温かい手と、真っ直ぐな瞳。そして、肩の上で心配そうに鳴くピップの存在。それらが、絶望の淵にいたエンキの心を、かろうじて繋ぎ止めた。
(そうだ…俺は、まだ…)
「……行こう」エンキは顔を上げた。その目には、恐怖と、しかしそれを上回る決意の光が宿っていた。「地下遺跡へ。そして、俺たちの力で、未来を守るんだ」
夜明けを待って、二人は涸れた泉へと向かった。石蓋をずらし、現れた暗い階段を下りていく。地下遺跡は、想像以上に広大で、そして不気味な静寂に包まれていた。湿った空気、古い土の匂い、厚く積もった埃。壁には、リビル・キシュの魔術文字と共に、かつての繁栄と、それが引き起こしたらしいゴーレム戦争の悲劇を描いた壁画が残されている。床に転がる、様々な形や素材の、歪な失敗作ゴーレムの残骸が、当時の魔術師たちの試行錯誤と、力の危険性を物語っていた。
松明の光を頼りに奥へ進むと、広間のような場所に出た。中央には、巨大な人型のゴーレムが、ひび割れた天井を苦しげに支え、固まっていた。
「あれが、守護ゴーレム…!」
二人が近づくと、ゴーレムの石の目がカッと開き、二人を見据えた。威圧感はあるが、敵意は感じられない。むしろ、助けを求めているかのようだ。ニナが壁画を読み解き、このゴーレムが工房の守護者であり、崩落を食い止めて動けなくなり、侵入者の「資格」を試していることを突き止めた。
「資格…創造と守護の意志…」エンキは呟いた。試練の意味を理解した彼は、ゴーレムの足元に膝をつき、粘土を集めた。職人としての知識で構造的な弱点を見抜き、そこに魔術を集中させる。補強し、支えるためのゴーレム。激しい消耗感と、頭の奥で囁く邪神の声(気のせいか?)に耐えながら、エンキは意志の力で小さなゴーレムたちを生み出し、巨大ゴーレムを助けさせた。
すると、巨大ゴーレムはゆっくりと腕を下ろし、苦悶の表情が和らいだように見えた。そして、静かに頭を下げると(そう見えた)、広間の奥へと続く石の扉が、重々しい音を立てて開き始めた。
「……認められた…!」
開かれた扉の先は、小さな祭壇のような空間だった。中央には、一枚の大きな粘土板と、一つの質素な土の壺。壺の中には、星屑のようにキラキラと微細な光を放つ、不思議な質感の粘土が入っていた。
「星降る泥…!」
エンキは粘土板に刻まれた工房主のメッセージを読んだ。そこには、対抗呪文の具体的なヒント(魔法陣の核を突く方法、力を安定させる紋様など)と共に、未来への希望が記されていた。「…力は創造なり、希望なり。強く清き意志を持ちて振るうならば、混沌を鎮め、新たなる秩序を紡ぐ礎ともならん…」
だが、その言葉の後には、厳しい警告も刻まれていた。「…されど、心せよ。もし道を誤れば、この力はお前自身を喰らい、魂ごと破滅へと導くだろう…」
希望と絶望。星降る泥という武器と、自我喪失という破滅的なリスク。エンキは、その両方を手に、祭壇の前に立ち尽くした。日食は、もう目前に迫っている。彼の最後の決断の時が、近づいていた。