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第8話:月神(ナンナ)の塔への潜入

葦原に夜明けが訪れた。エンキは、泥と冷たい夜露にまみれた体をゆっくりと起こした。全身を鉛のような倦怠感が覆っているが、昨夜の絶望的な消耗状態からは、いくらか回復していた。隣では、ピップが心配そうに彼の顔を覗き込んでいる。


(ニナを助け出す……)


その決意だけが、エンキを突き動かす熱源だった。だが、どうやって? 怒りや焦りだけでは何も解決しない。エンキは深く息を吸い込み、強制的に思考を冷静へと切り替えた。まずは安全な場所へ移動し、体勢を立て直す。そして、計画を練るのだ。彼は、根っからの職人だった。行き当たりばったりではなく、手順を踏み、準備を整えることが性に合っている。


ピップに周囲を偵察させ、運河近くの打ち捨てられた煉瓦造りの廃墟を見つけ出すと、エンキはそこに身を隠した。乾いたパンを齧り、水甕の水を飲みながら、彼は持てる限りの情報を整理し始めた。ニナから聞いた大神官の計画、リビル・キシュの力とリスク、神殿の厳重な警備体制、そして自分の魔術の限界…。彼は拾った炭で、廃墟の壁に簡単な神殿の見取り図や、思いつく限りの潜入経路を描き出した。


(情報が足りなすぎる……ニナはどこにいる?)


エンキはピップに最後の望みを託した。「ピップ、もう一度だけ頼む。神殿へ飛んで、ニナを探してくれ。特に、ジッグラトの中腹あたりにある小さな塔…昨日、俺たちが襲われた場所だ。そこに何か手がかりがないか。でも、絶対に無理はするな。危なくなったらすぐに戻るんだぞ」


ピップは力強く一度鳴くと、朝日の中へと飛び立っていった。エンキは、小さな相棒の無事を祈りながら、潜入と救出に必要なゴーレムの準備に取り掛かった。廃墟にあった粘土質の土と運河の水を使う。消耗を最小限に抑えるため、大きさはピップより少し大きいくらいだ。壁を登るための鋭い鉤爪を持つ蜘蛛型、狭い隙間を偵察するための蛇型、そして、いざという時に音を出して陽動するためのせみ型。魔術を使うたびに指先が冷え、軽い頭痛と倦怠感が襲うが、エンキは歯を食いしばって耐え、一体一体に念を込めて形作っていった。それは、彼が初めて明確な目的意識を持って行う「創造」だった。


陽が傾き始めた頃、ピップが戻ってきた。怪我はないようだ。エンキは安堵し、ピップに意識を集中させ、彼が見てきた断片的な映像イメージを読み取ろうとする。


(塔…窓…人影…そうだ、ニナだ! 間違いない!)


ピップは、あの中腹の塔の窓の一つに、鎖に繋がれたニナらしき姿を確かに捉えていた。さらに、幸運なことに、その塔へ続く通路は、他の主要な通路に比べて警備が手薄に見えたこと、そして、古い窓の格子の一部が少し緩んでいるように見えたことも伝えてきた。


(行けるかもしれない……!)


エンキは詳細な計画を練り上げ、必要なゴーレムを選別すると、再び夜の闇がウルクを覆うのを待った。月が空高く昇り、街が寝静まった頃、エンキは廃墟を出た。懐にはピップと数体の小型ゴーレムを忍ばせ、その目は固い決意に満ちていた。


神殿の高い壁までは、夜陰に乗じて比較的容易にたどり着けた。問題は壁越えだ。見張りの兵士が規則的に巡回している。エンキは壁の影に身を潜め、タイミングを見計らった。そして、蜘蛛型のゴーレム「カギ」に念じる。(行け!)


カギは音もなく壁に取り付き、その鋭い鉤爪で煉瓦の僅かな凹凸を捉えながら、器用に登っていく。壁の上に到達したカギが、内側の様子を伝える。見張りはいるが、今は遠ざかっていくところだ。


(今だ!)


エンキはカギが垂らした粘土製の細い縄を掴み、一気に壁をよじ登った。魔術による身体強化は消耗が激しいため使えない。己の筋力だけで登り切ると、息を殺して壁の内側に降り立ち、すぐに身を伏せた。


神殿の敷地内は、昼間とは全く違う空気が漂っていた。荘厳な建物が巨大な影となり、月明かりの下に静まり返っている。しかし、その静寂は不気味な緊張感を孕んでいた。どこからか読経のような低い声が響き、焚かれた香の匂いが漂ってくる。そして、そこかしこに潜む見張りの気配。


エンキはピップの案内と自身の勘を頼りに、影から影へと身を隠しながら、中腹の塔を目指した。蛇型のゴーレム「ニョロ」を先行させ、通路の角や扉の隙間から内部の様子を探らせる。


何度か危機があった。予期せぬ場所に見張りが立っていたり、巡回のルートが予定と違っていたり。その度にエンキは咄嗟に物陰に飛び込み、あるいは蝉型のゴーレムに甲高い音を出させて見張りの注意を引きつけ、その隙に走り抜けた。心臓は激しく高鳴り、冷や汗が背中を伝う。魔術を使うたびに、確実に体力が削られていくのを感じた。頭痛も酷くなってきた。


(まだだ、まだ行ける……ニナが待ってるんだ)


恐怖を意志の力でねじ伏せ、エンキはついに目的の塔の麓にたどり着いた。入り口には二人の見張りが立っており、正面からの侵入は不可能だ。


(やはり、窓から…)


エンキはピップが示した、格子の緩んでいる窓を見上げた。地上からかなり高い位置にある。彼は再びカギに壁を登らせ、自分もそれに続いた。消耗は激しいが、もう後戻りはできない。


窓の外枠に手をかけ、慎重に中を窺う。薄暗い部屋。簡素な寝台。そして、壁に繋がれた鎖と、そこにぐったりと座り込む人影。


(ニナ!)


エンキはニョロを窓の隙間から滑り込ませ、内側の掛け金を外させた。音を立てずに窓を開け、部屋の中に静かに降り立つ。


「ニナ……ニナ!」小声で呼びかける。


ニナがゆっくりと顔を上げた。その顔は青白く憔悴しきっていたが、エンキの姿を認めると、驚きと信じられないという表情を見せた。

「エンキさん……! どうしてここに…? 無事だったのですね!」


「ああ、なんとか。助けに来た」エンキは彼女を繋ぐ青銅の鎖に目をやった。太く、頑丈そうだ。「すぐにこれを…!」


(どうすれば? 叩き壊すのは無理だ…そうだ、『熱』! この金属を熱で脆くすれば…!)


初めて試す応用魔術。成功する保証はない。失敗すれば、消耗するだけだ。だが、やるしかない。エンキは鎖の根本に手を触れ、意識を集中させた。脳裏に、燃え盛る炎、金属を溶かすほどの高熱をイメージする。


(熱くなれ! 熱くなれ!)


指先が、まるで直接火に触れたかのように灼けつく痛みを感じた。同時に、体中の血液が沸騰し、そして急速に冷えていくような、激しい消耗感。視界が白く点滅し、立っているのがやっとだ。頭の奥で、またあの不快な幻覚が蠢く。壁の石が歪み、嘲笑う顔のように見える。


(くそっ、負けるな…!)


エンキは歯を食いしばり、精神力で幻覚を振り払う。鎖に触れた指先から、莫大なエネルギーが流れ込んでいく。鎖の金属が、じりじりという微かな音と共に、赤みを帯び始めた。


「すごい……!」ニナが息をのむ。


鎖が高熱で変色し、僅かに歪んだ瞬間を狙い、エンキは近くにあった石の文鎮を拾い上げ、ありったけの力で叩きつけた!


キィン! という甲高い金属音と共に、鎖は根本から断ち切れた。


「やった……!」


達成感と共に、エンキはその場に崩れ落ちた。全身から力が抜け、指一本動かせない。意識が遠のきかける。


「エンキさん、しっかりして!」ニナが駆け寄り、彼の体を支える。「ありがとう……本当にありがとう…! でも、早くここから出ないと!」


ニナがそう叫んだ瞬間、部屋の扉が乱暴に蹴破られ、松明の光と共に数人の神殿兵士が飛び込んできた。そして、その後ろには、冷たい怒りの表情を浮かべたガルが立っていた。


「……やはり来たか、小僧。どこまでも手間をかけさせてくれる」ガルはエンキと、彼を庇うように立つニナを冷ややかに見据えた。「だが、それもここまでだ。二人まとめて、大神官様の元へ連れていく」


絶体絶命。エンキの体力は、完全に尽きていた。ピップが肩で必死に威嚇するように鳴いている。ニナは、最後の希望を託すかのように、懐から取り出した一枚の粘土板のかけらを、エンキの手に押し付けた。


「エンキさん、これを…! 捕まっている間に、ガルの部屋で見つけた師のメモの欠片です! 地下遺跡に…そこに、何か鍵があるはず…!」


その時、ニナは部屋の壁の一角にある、奇妙な模様に気づいた。それは、彼女が書庫で見た古い神殿の図面に描かれていた、忘れられた通路の印と酷似していた。


「エンキさん、あそこです!」


だが、兵士たちはすでに目前に迫っていた。

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