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第7話:逃亡者たちと力の代償

工房を飛び出し、ウルクの夜の迷宮へと逃げ込んだエンキとニナを、神殿兵士たちの執拗な追跡が襲う。月明かりは裏路地にまで届かず、松明の揺れる光と影だけが、二人の逃走経路を断続的に照らし出す。


「こっちです!」ニナが叫び、人々の喧騒がまだ残る市場へと駆け込む。露店はほとんどが閉じられていたが、酔客や夜通しの商人たちの姿がちらほら見える。人混みに紛れれば、追手の目を眩ませるかもしれない。だが、兵士たちは訓練されていた。市場の構造を熟知しているかのように連携を取り、じりじりと包囲網を狭めてくる。


「まずい、挟まれる!」エンキは焦った。その時、足元の水路――街中に張り巡らされた灌漑用水路――が目に入った。

「ニナ、飛び込むぞ!」

「えっ!?」

返事を待たず、エンキはニナの手を引いて、濁った水路へと飛び込んだ。冷たい水が全身を打ち、一瞬息が詰まる。だが、今はそれどころではない。腰まで水に浸かりながら、暗い水路の中を必死に進む。背後で兵士たちの怒声が遠ざかっていくのが聞こえた。


しばらく進み、岸辺の葦原に身を隠した時、二人は泥と水でずぶ濡れになり、息も絶え絶えだった。月明かりが水面に揺れ、遠くでカエルの鳴き声だけが聞こえる。追手の気配は、今のところない。


「はぁ…はぁ…助かった……」エンキは葦に寄りかかり、荒い息をついた。

「ええ……なんとか」ニナも肩で息をしながら頷いた。


束の間の静寂。だが、それはすぐに破られた。

「エンキさん、聞かなければならないことがあります」ニナは周囲を警戒しながら、小声で、しかし切迫した口調で切り出した。「あなたの力…リビル・キシュについて。そして、大神官ザイウスの本当の目的について」


ニナは語り始めた。師が遺した記録にあった、恐るべき計画の全貌を。数日後に迫った日食の日、ジッグラトの頂上で行われる邪神復活の儀式。そして、リビル・キシュの力が、その儀式の核として必要とされていること。

「大神官は、その力を使って、この世界に混沌と破壊をもたらそうとしています。彼自身の歪んだ理想のために…!」ニナの声には、抑えきれない怒りと恐怖が滲んでいた。


エンキは息を呑んだ。邪神復活? 世界の破滅? まるで悪夢のような話だ。

「そ…そんなことが、本当に……?」


「ええ。そして、エンキさん、あなたの力が…リビル・キシュは、ただ生命力を削るだけではありません」ニナはエンキの目を真っ直ぐに見つめた。「師の記録には、明確に記されていました。この力は、使い続ければ術者の精神をも蝕む、と。邪神の狂気に…汚染される危険があるのです」


精神汚染。その言葉の持つおぞましい響きに、エンキは全身の血が凍るような感覚を覚えた。最近時折見るようになった不快な幻覚、力の行使に伴う奇妙な高揚感と、その後の深い自己嫌悪。あれは、その兆候だったというのか…?


「そんな……じゃあ、俺は……俺はどうなるんだ……?」


「だからこそ、大神官に渡してはならないのです。あなたも、その力も」ニナはエンキの肩を掴んだ。「儀式を阻止しなければ。そのためには、あなたの力が必要です。危険なのは承知の上です。でも、どうか…力を貸してくれませんか?」


エンキは激しく葛藤した。自分の魂が蝕まれるかもしれない力。世界を破滅させるかもしれない計画。逃げ出したい。自分には関係ないと思いたい。だが、目の前には、自分を信じ、助けを求める少女がいる。そして、自分の力が、取り返しのつかない事態を引き起こすかもしれないという現実。


(……逃げられない)エンキは奥歯を噛み締めた。(俺が始めたことだ。それに、ニナを…見捨てるわけにはいかない)

「……わかった。協力する」エンキは震える声で、しかしはっきりと答えた。「俺に何ができるか分からないけど……やるしかない」


その言葉に、ニナの表情がわずかに和らいだ。しかし、安堵する間もなく、背後の葦原が大きく揺れた。


バサッ! 数人の人影が音もなく現れた。神殿兵士だ。だが、その姿は異様だった。服装は所々破れ、生気のない虚ろな瞳でこちらを見ている。顔には消せない苦悶の色が浮かび、機械のようなぎこちなさで近づいてくる。


「彼らは……生きている人間……?」エンキは愕然とした。


そして、その背後から静かに姿を現したのは、月光を浴びて冷たく輝く鎧を纏った、神殿兵士長ガルだった。その手には、緑色の不気味な光を放つ円盤状の魔道具――『隷属の円盤』――が握られている。


「……見つけたぞ、小僧。そして、神殿を裏切った書記官め」ガルは低い、感情のない声で言った。「抵抗は無駄だ。おとなしく大神官様の元へ来い」


(罠だったのか!)ニナが叫ぶ。虚ろな兵士たちが、ガルの合図と共に、一斉に襲いかかってきた。彼らは元は人間なのだ。エンキは咄嗟に力を振るうことを躊躇した。その僅かな躊躇いが、命取りとなった。


ガル自身が、驚くべき速さで距離を詰めてきた。エンキは慌てて足元の泥に「滑」の念を送ろうとするが、ガルはそれを読んでいたかのように、体勢を崩さずにエンキの腕を掴もうとする。


「危ない!」ニナがエンキを突き飛ばした。そして、隠し持っていた小さなナイフを抜き、ガルに向かっていく。だが、熟練の武人であるガルにとって、それは子供の遊びに等しかった。彼はニナのナイフを最小限の動きで叩き落とし、流れるような動きで彼女の腕を捻り上げ、その動きを完全に封じた。


「ぐっ……!」


「ニナ!」エンキが叫ぶ。助けようとピップに念じて飛びかからせようとするが、ガルはそれすらも冷静に対処し、ピップを片手で払い除けた。圧倒的な実力差。そして、エンキ自身の体は、先ほどの魔術の代償で鉛のように重く、思うように動かない。


「……小僧、お前は後だ」ガルはエンキを一瞥し、その消耗ぶりを見て取ると、興味を失ったようにニナに向き直った。「まずはこの裏切り者を大神官様の元へ連行する。抵抗すればどうなるか、分かっているな?」


「やめろ! 離せ!」エンキは力の限り叫んだ。


ガルは抵抗するニナを強引に引きずり、虚ろな兵士たちと共に闇の中へと消えていく。その冷徹な横顔には、何の感情も浮かんでいないように見えた。


一人(と一匹)、泥水に濡れた葦原に残されたエンキは、自分の無力さに打ちひしがれ、その場に膝をついた。肩の上で、ピップが心配そうに小さく鳴いていた。


(俺のせいで……ニナが……)


後悔と怒りが、エンキの胸の中で激しく渦巻いた。だが、今はただ嘆いている時間はない。


(助けなきゃ。絶対に)


消耗しきった体。強大な敵。そして、自らを蝕むかもしれない力のリスク。それでも、エンキの心には、一つの揺るぎない決意が生まれていた。ニナを助け出す。そして、大神官の計画を阻止する。そのためには、まず生き延び、回復し、そしてこの力を…リビル・キシュを、制御できるようにならなければならない。


エンキは肩の上のピップを見た。「ピップ……お前も、力を貸してくれるか?」


ピップは応えるかのように、小さく「ピィ」と鳴き、エンキの頬にその小さな頭を擦り付けた。その微かな温もりが、エンキの凍てついた心に、か細い希望の灯をともした。


月明かりだけが、打ちひしがれ、しかし新たな決意を胸に宿した少年の姿を、静かに照らしていた。

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