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第5話:書記官ニナの決意

大神殿の書庫は、静寂と、古い知識の匂いに満ちていた。ひんやりとした空気の中、高い窓から差し込む光が床に落ち、無数に並ぶ粘土板の棚に深い影を作っている。若き書記官ニナは、埃っぽい粘土板の山に向かい、黙々と整理作業を続けていた。彼女の指先は、慣れた手つきで粘土板を分類し、その表面に刻まれた複雑な楔形文字を淀みなく読み解いていく。神殿の書記官としての彼女の能力は、誰もが認めるところだった。


だが、その冷静な表情の裏で、ニナの心は静かに波立っていた。数日前から、彼女の頭を離れない疑念がある。それは、一年前に亡くなった彼女の師であり、親代わりでもあった先代書記官の死についてだ。公式には病死とされているが、あまりにも突然すぎた。そして、その死によって、大神官ザイウスが神殿の実権を完全に掌握したのだ。


(師は、ザイウス様の危険な研究に気づいていた…だから消されたのでは?)


ニナは、師がどれほど真理の探求に情熱を燃やしていたかを知っている。そして、権力に屈せず、常に正しいと信じる道を歩もうとしていたことも。師は知識だけでなく、「戦うための術」――真実を追求する執念と、時には非情さも必要となる現実――をもニナに教えてくれた。


作業の手を止め、ニナは書庫の奥深く、今はもう誰も近づかない区画へと足を向けた。重い粘土板の束を運ぶ際、華奢な腕に力が入り、思わず顔を顰める。彼女は知性には恵まれていたが、身体的な力はからきしだった。


そこは、師が密かに研究に使っていた場所だった。埃が積もった棚の間を進み、特定の粘土板を決められた順番で操作する。ゴゴゴ…と低い音を立てて壁の一部が開き、隠された小部屋が現れた。師が「万が一のため」と言い遺していた場所だ。中には、数枚の特殊な処理を施された粘土板が、大切に保管されていた。


ニナは松明の灯りを近づけ、その表面に刻まれた文字を読み始めた。師の几帳面な文字。だが、所々、走り書きのような乱れが見られ、彼の焦りや危機感が伝わってくるようだ。内容は衝撃的だった。大神官ザイウスが禁忌の邪神研究に手を染め、ウルクの運命をも左右しかねない恐ろしい儀式を計画していること。そして、その鍵となるのが『リビル・キシュ』と呼ばれる、忘れられた古代の魔術であること。


(リビル・キシュ……なんと古く、そして禍々しい響きを持つ言葉だろう)


粘土板には、その力の詳細と危険性が記されていた。術者の生命力を削り、精神をも蝕む諸刃の剣。師は、その力の正しいあり方を模索していたようだが、同時にザイウスが悪用することを深く危惧していた。そして、最後の記録には、ニナを戦慄させる一文があった。


「…このリビル・キシュの力が、ごく最近、ウルク市内で再び観測された。兆候は微弱だが、間違いない。発生源は川辺の職人地区と推定。関連キーワード『若き職人』『粘土』『病母』…。そして、目撃情報あり、『鳥の形をしたゴーレム』…」


(鳥の形をしたゴーレム……まさか、あの噂は!)


数日前から神殿内でも囁かれ始めた「動く泥人形」の噂。最初は馬鹿げていると思っていたが、師の記録と結びつくと、途端に現実味を帯びてくる。もし、その職人が自分の力の意味も知らずにいるのだとしたら? 大神官に知られれば、利用されるか、あるいは……。


(知らせなければ! そして、止めなければ!)


師の遺志を継ぐため。ザイウスの計画を阻止するため。そして、師が追い求めた「力の真実」を知るため。それらの思いが、ニナの中で一つの強い決意となった。彼女は書庫に戻り、神殿の記録(閲覧が制限されたものも、師から教わった方法でアクセスした)を駆使し、少ない手がかりから該当人物の特定を急いだ。神殿内の密偵の目を掻い潜り、時には信頼できる数少ない同僚にそれとなく情報を求める必要もあった。怪しまれれば、全てが終わる。恐怖と戦いながら、彼女は調査を進めた。


そして、ついに一人の名前にたどり着いた。エンキ。川辺の地区に住む、病気の母を持つ若い粘土板職人。


夕暮れが迫る中、ニナは書庫を飛び出し、ウルクの街を走っていた。肩にかけた革袋が重い。息が切れ、足がもつれそうになる。道行く家々から漏れる夕餉の匂いや、家族の笑い声が、天涯孤独な彼女の胸を締め付けた。これから自分は、見ず知らずの少年を、この街全体を巻き込むかもしれない危険な渦の中へと引き込もうとしているのだ。本当にそれが正しいことなのか? 彼に信じてもらえるのか? 恐怖と迷いが、何度も彼女の足を止めようとした。


だが、その度に、ニナは師の言葉を思い出し、ザイウスの冷酷な瞳を思い浮かべ、自分を奮い立たせた。(ここで退くわけにはいかない)師が遺した「切り札」(外部へ情報を漏らす仕掛け)が、最後の心の支えだった。


川辺に近い職人地区。古びた工房の前にたどり着いた時、ニナは息も絶え絶えだった。整えていた髪は乱れ、額には汗が滲んでいる。戸口に立ち、中から聞こえる人の気配に、彼女は最後の逡巡をした。だが、意を決して戸を叩こうとした、まさにその時。


中から、硬質で、しかしどこか生命を感じさせる鳴き声が聞こえた。


ピィ!


その声は、師の記録にあった「鳥の形をしたゴーレム」という記述を、ニナの中で確信へと変えた。彼女は息を呑み、震える手で、工房の戸を叩いた。これから起こるであろう嵐を予感しながら。

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