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第4話:神殿の影、ザイウスの目

ウルクの街と人々を睥睨へいげいするかのようにそびえ立つ、巨大な階段状の塔、ジッグラト。その最上階に位置する大神官ザイウスの私室は、下界の喧騒とは無縁の静寂と、病的なまでの整然さに支配されていた。磨き上げられた黒曜石の床には一点の塵もなく、壁には神々の戦いを描いた壮麗なレリーフが施されているが、その表情はどこか冷たく、生命感に欠ける。部屋の中央には、ウルクの街並みを精密に再現した巨大な粘土製の地図盤が置かれ、レバノン杉で作られた豪奢な椅子だけが、主の存在を主張していた。


ザイウスは、その椅子に深く腰掛け、側近の書記官が読み上げる報告書に耳を傾けていた。彼の痩身を包む純白の神官衣は、部屋の冷たい空気と相まって、彼を人間ならざる何かのように見せている。


「……以上が、市中より集められた主な報告です。例の『動く泥人形』に関する噂は、依然として錯綜しており、信憑性の判断は困難かと…」書記官が言い淀む。


ザイウスは無言で地図盤に目をやった。側近たちが、報告に基づいて街の各所に小さな印を付けていく。噂の発生地点、不審者の目撃情報、神殿への批判的な声…。まるで神のように、ザイウスはこの街の全てを把握しようとしていた。だが、その精度は完璧ではない。誤情報や、民衆の恐怖が生んだ幻も多く混じっている。


「ガル」ザイウスは、傍らに控える神殿兵士長の名を静かに呼んだ。


「はっ」ガルが一歩前に出る。屈強な体躯、冷静沈着な佇まい。彼はザイウスへの絶対的な忠誠を誓っているが、それは盲目的なものではない。彼は、有能な指揮官として、常に状況を客観的に分析しようと努めていた。


「お前はどう見る? この下らぬ噂の数々を」


「大神官様。噂の大部分は取るに足らないものでしょう。しかし」ガルは地図盤上の特定の印を指差した。「『鳥の形』『泥製』『動く』…これらの要素が、川辺の職人地区周辺で、同時期に複数報告されている点は無視できません。古文書に記された『リビル・キシュ』の力の兆候である可能性は、たとえ僅かであっても考慮すべきです。対象を絞り込み、集中的な調査を行うことを進言いたします」


ザイウスの口元に、初めて人間的な、しかし冷たい光を帯びた笑みが浮かんだ。「うむ。流石はガルだ。私の考えをよく理解している」彼は椅子から立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。窓の外には、彼が「停滞している」と断じるウルクの街並みが広がっている。「見ろ、ガル。人々は日々の糧に汲々とし、古い慣習に縛られ、変化を恐れている。神官どもでさえそうだ。長老会議の連中は口うるさいだけで、真の改革など望んではいない。この豊かさに見える繁栄は、緩やかな死に他ならんのだ」


彼の声には、静かな、しかし底知れない熱情が籠っていた。それは、かつて経験した大洪水によって全てを失い、人間の「死すべき運命」と世界の「不条理さ」を骨身に染みて感じた者だけが持つ、歪んだ渇望の現れだった。


「だが、終わりは始まりだ。混沌なくして真の再生はない。リビル・キシュ…忘れられた『再生の言葉』。それこそが、この淀んだ世界を打ち破り、死を超越した永遠の活力を生み出す鍵なのだ。我らが呼び覚ます古き神の力と合わされば…!」


その瞳には、常人には理解不能な、しかし彼自身にとっては絶対的な真理である理想世界の幻影が映っているかのようだった。弱者が淘汰され、強者が永遠に闘争し続けることで活力が保たれる世界。それが彼の求める「再生」なのかもしれない。ガルは、その狂信的な輝きを宿す主君の横顔から、思わず視線を逸らした。


ザイウスはガルに向き直った。「その『作り手』を見つけ出せ。噂の発生源、川辺の地区を徹底的に洗え。おそらくは、まだ己の力の意味も知らぬ、取るに足らぬ若造だろう。だが、決して侮るな。そして、必ず生かして私の元へ連れてこい」彼の声は再び冷徹な響きを取り戻していた。「その術者自身が、我らの大業に必要な『器』…あるいは、にえとなるやもしれんからな」


「器…贄…」ガルは、その言葉に微かな抵抗を覚えたが、表情には出さなかった。


ザイウスは、そんなガルの心中を見透かしたかのように、ふと言葉を続けた。「お前も、あの洪水を忘れてはおるまい…? 我らが全てを失い、そして生き延びた、あの混沌の日を」


その言葉は、過去の恩義への言及であると同時に、逃れられない呪縛のようにも響いた。ガルはただ、無言で深く頭を垂れる。「…御意」


「よろしい」ザイウスは満足げに頷くと、再び窓の外へ目を向けた。「すぐに見つかるだろうよ…この街で、私の目から逃れられる者はいないのだから」


彼の瞳の奥深くには、全てを見通し、全てを支配しようとする、冷たく歪んだ意志の光が、揺らめいていた。神殿の影は、まだ何も知らない一人の少年の上に、静かに、しかし確実に伸びようとしていた。

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