表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

第3話:響き始めた噂

ピップが生まれてから、エンキの日常は一変した。昼間は相変わらず単調な仕事に追われるが、夜、母が寝静まると、工房は彼とピップだけの秘密の王国となった。エンキは、あの粘土板のかけらに刻まれていた他の文字を試したり、ピップに様々な命令を与えてみたりと、まるで未知の技術を解き明かす職人のように、リビル・キシュの力の探求に没頭していた。


最初は恐る恐るだった力の行使も、繰り返すうちに、エンキの中に奇妙な「慣れ」のようなものが生まれていた。指先の冷えや軽い疲労感は常となり、時折見る不快な幻覚(壁の染みが蠢いたり、道具の影が奇妙な形に見えたり)も、「疲れのせいだ」と自分に言い聞かせることで、意識の隅に追いやることができるようになっていた。当初抱いていた神々への畏れや、禁忌を犯しているという罪悪感は、力の魅力と、それを制御できる(と思い始めた)全能感の前に、徐々に麻痺し始めていたのかもしれない。


だが、完全に恐怖が消えたわけではない。ふとした瞬間に我に返り、自分がしていることの異常さに気づくと、エンキは激しい自己嫌悪に襲われた。母に知られたら? イナンナに気づかれたら? いや、それ以前に、この力は本当に制御できるのか? 代償は、本当にこの程度で済むのだろうか? 答えの出ない問いが、彼の心を蝕んでいく。


そんなある夜のことだった。その日は母の咳が特にひどく、エンキの心は焦りでささくれ立っていた。気分転換が必要だったのかもしれない。あるいは、もっと強い力を引き出せば、母を救えるのではないかという、浅はかで危険な考えが頭をよぎったのかもしれない。エンキは、いつもより大胆にピップを工房の外、裏の空き地へと連れ出した。


「ピップ、もっと高く、もっと速く飛んでみろ!」


月明かりの下、エンキは無我夢中でピップに念じた。ピップは主人のたかぶる感情に呼応するかのように、いつもより高く、複雑な軌道を描いて夜空を舞う。エンキはその光景に、一瞬、現実を忘れて見入っていた。だから気づかなかったのだ。近くを巡回していた夜警の兵士が、闇の中で不規則に動く奇妙な影に気づき、訝しげに足を止め、松明を掲げてこちらへ近づいてきていたことに。


「おい、そこで何をしている!」


突然の鋭い声に、エンキは心臓が凍る思いで我に返った。まずい、見られた! エンキは咄嗟にピップを呼び戻し、懐に隠すと、返事もせずに工房へと駆け込んだ。背後で夜警が何か叫んでいたが、恐怖で耳に入らなかった。


(見られた……どうしよう……!)


その夜、エンキは一睡もできなかった。自分の油断と愚かさを呪った。あの夜警は、自分のことを覚えているだろうか? 神殿に報告したりしないだろうか? 不安と後悔が、鉛のように彼の心を重くした。この日から、エンキは力の探求を控え、再び工房に閉じこもるようになった。


だが、一度転がり始めた石は、止まらない。


数日後、エンキが意を決して市場へ買い物に出かけると、街の空気が以前とは明らかに変わっていることに気づいた。人々はひそひそと声を潜めて話し、互いを疑うような、あるいは何かに怯えるような視線を交わしている。そして、エンキの耳にも、あの不吉な噂がはっきりと聞こえてきた。


「聞いたかい? 川辺の地区で、夜な夜な鳥の化け物が出るって話だよ」

「ああ、泥でできた鳥が、石みたいな声で鳴くんだろ? まるで悪霊だ。うちの子供なんか、怖がって夜も眠れないよ」

「近頃の日照りも、あれのせいじゃないかって噂だ。神々の怒りの前触れだってね。昔、不吉な鳥が現れた後に、大洪水が起こったって古文書にもあるらしいじゃないか…」

「だからみんな、必死で魔除けの護符を買い求めたり、怪しげな呪術師に頼ったりしてるんだろ? 馬鹿げてるけど、気持ちは分かるね…」


エンキは全身から血の気が引くのを感じた。噂は、エンキが想像していた以上に広まり、歪められ、人々の恐怖心を煽っていた。そして、噂話をする人々が向ける視線――好奇、非難、そして恐怖。まるで自分が、その不吉な噂の中心にいるかのように感じられ、エンキは息苦しさを覚えてその場を逃げ出した。


(俺のせいだ……俺が、街をこんな不安にさせている……)


罪悪感が彼を打ちのめす。だが、その一方で、心の最も暗い片隅で、別の感情が微かに疼いた。「俺の力が、街をこれほど騒がせているのか…」恐ろしく、そして甘美な、歪んだ高揚感。エンキはすぐにその感情を否定し、激しい自己嫌悪に襲われた。


工房に戻ると、イナンナが心配そうな顔で待っていた。

「エンキ、あんた、どこをほっつき歩いてたんだい! 顔色が紙みたいだよ」

「……なんでもないよ」

「なんでもなくないだろう! この街の空気、あんたも感じてるはずだ。妙な噂が広まって、神殿の兵士どもがうろつき回ってる。おまけに、あんたみたいな若い職人にまで聞き込みに来る始末だよ!」イナンナは声を低めた。「気をつけな。何か騒ぎを起こしたら、この地区全体に迷惑がかかるんだ。お前の親父さんは、貧乏だったけど、誰にも後ろ指さされるような生き方はしなかった。お前も、あんな風に真っ直ぐ生きなきゃだめだよ」


その言葉は、エンキの胸に深く突き刺さった。イナンナの心配は、エンキ個人への情だけではない。この小さなコミュニティの平穏を守りたいという、切実な響きがあった。


(俺は……どうすればいいんだ……)


力への誘惑と恐怖、秘密を抱える孤独、そして迫りくる外部からの脅威。エンキは、自分がもはや後戻りできない場所に立っていることを、痛感していた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ