第2話:小さな翼、ピップ
あの衝撃的な出来事の後、エンキは数日間、工房の奥に隠した粘土板のかけらのことを考えないように努めた。忘れよう。あれは幻だ。疲れていたんだ。そう自分に言い聞かせ、ひたすら装飾板の仕事に没頭した。だが、一度知ってしまった奇跡の感触と、指先に残るあの微かな振動は、脳裏に焼き付いて離れなかった。
夜、母が寝静まった後、エンキは工房の作業台の前で一人、悶々としていた。窓の外では月が静かに輝いている。あの力は本物なのか? もし本物なら、一体何なのだ? 触れてはいけない禁忌の力か? それとも、失われた古代の叡智か?
(知りたい……)
恐怖心と同じくらい強く、未知への好奇心が彼を駆り立てる。そして、心の奥底からは、もっと別の、暗い囁きも聞こえる気がした。「あの力があれば、今の苦しい生活から抜け出せるかもしれない」「父さんだってできなかったことを、俺はできるかもしれない」「誰も知らない秘密の力を、俺だけが……」
その抗いがたい衝動に突き動かされるように、エンキは無意識のうちに立ち上がり、工房の奥へと向かっていた。昼間、固く誓ったはずの決意は、夜の闇と、心の奥底に潜む欲望の前にもろくも崩れ去る。震える手で地面を掘り返し、麻布に包まれた粘土板のかけらを取り出した。ひんやりとした感触が、再び彼の全身に奇妙な興奮を呼び覚ます。
(もう一度だけ……試すだけだ)
自分に言い訳をしながら、エンキは作業台に戻り、新しい粘土を捏ね始めた。今度は失敗しない。もっと意識を集中して、もっと明確な形を……。
(そうだ、鳥だ。自由に空を飛ぶ、小さな鳥)
彼は粘土を捏ねながら、自然と指が動くのに任せた。職人としての性か、ただ粘土を塊にするのではなく、滑らかな流線形、薄く広がる翼、小さなくちばしと尾…彼が知る鳥の姿を、無心に再現していく。そして、意を決して、あのかけらの文字を、今度はより多くの種類を組み合わせて、粘土の鳥に刻み込んでいった。
指先に神経を集中させると、あの感覚が再び訪れた。体の内側から何かが吸い取られ、指先が氷のように冷たくなる。だが、今回はそれだけではなかった。粘土と自分の境界が曖昧になるような、奇妙な一体感。そして、脳裏で、刻んだ文字が淡い光を放つような幻視。
エンキは息を詰めて見守った。粘土の鳥が、ゆっくりと震え始めた。表面に微細な亀裂が走り、そこから淡い光が漏れる。脈打つように、粘土が収縮と膨張を繰り返す。それは神秘的であると同時に、どこか生命の誕生を冒涜しているような、不気味さも感じさせた。
やがて、動きが収まり、光が消えた。エンキの目の前には、先ほどまでと変わらない、ただの粘土の鳥があるだけだった。
(……やはり、ダメか)
安堵と、それ以上の深い失望を感じた瞬間。
ピィ!
か細く、しかし、間違いなく命の響きを持った鳴き声が、静かな工房に響いた。
粘土の鳥が、小さな頭をもたげた。そして、黒曜石のかけらのような、つぶらな瞳(に見えるもの)で、じっとエンキを見つめた。
「……っ!」
エンキは息を呑んだ。驚き、歓喜、畏怖、そして…自分が無から有を生み出したことへの、神にも似た全能感。それらの感情が渦巻き、彼の心を激しく揺さぶった。
粘土の鳥は、ぎこちなく脚を動かし、おぼつかない足取りで作業台の上を歩き始めた。翼を不器用にぱたつかせ、まるで飛び方を思い出そうとしているかのようだ。
「動いた……本当に、生きてる……?」
エンキは恐る恐る指を差し出した。鳥は一瞬、警戒するように後ずさったが、やがて小さな体でエンキの指先にちょこんと乗った。ひんやりとした粘土の感触。だが、その奥には、エンキ自身の生命力が分け与えられたかのような、微かな温もりが確かに宿っていた。この小さな存在は、完全に自分の意志で動いている。自分が創造し、そして今、自分の指の上で生命を主張している。その事実に、エンキは言いようのない、孤独な優越感を覚えた。
「……ピップ」
自然と、そんな名前が口をついて出た。自分の創造物に名を与えた瞬間、エンキは自分が何か特別な存在になったような気がした。
だが、その高揚感は長くは続かなかった。ふっと強い眩暈が襲い、エンキは作業台に手をついてバランスを取る。目の前の燭台の炎が、一瞬、嘲笑うかのようにぐにゃりと歪んで見えた。疲労感と共に、指先の冷えが体の芯まで染み通るようだ。
(これが……代償か)
力の行使には、必ず代償が伴う。その事実が、エンキの心に冷水を浴びせた。ピップという「奇跡」を手に入れた喜びと、そのために支払った(そしてこれからも支払い続けるであろう)代償への不安。その二つの感情が、彼の心を不安定に揺さぶった。
その日から、エンキの秘密の生活が始まった。昼間は粘土板職人として働き、夜は母に隠れてピップと過ごす。ピップに簡単な命令を出し、その反応を観察した。「あそこへ行け」「これを突いてみろ」。ピップは健気に従おうとするが、やはり複雑なことはできない。それでも、エンキが落ち込んでいると肩にとまって慰めるように鳴き、エンキがこっそり与える粘土の粒(餌のつもりだった)を律儀につつく仕草は、彼の孤独な心を確実に癒していった。ピップは単なるゴーレムではなく、かけがえのない相棒であり、秘密の共有者になっていった。
しかし、その一方で、エンキは力への「依存」を深めていた。ピップと過ごす時間は、厳しい現実からの逃避でもあった。力の使い方を試すことに夢中になるあまり、仕事への集中力が散漫になることもあった。そして、ピップに命令を出すたびに感じる、微かだが確実な消耗。指先の冷えは常態化し、時折、軽い頭痛や倦怠感に襲われるようになった。疲労が溜まったある夜、彼は一瞬、壁の染みが蠢く蛇のように見える、という不快な幻覚を見た。それはすぐに消えたが、エンキの心の奥底に、言いようのない恐怖の種を蒔いた。
(この力は、本当に大丈夫なのか……?)
力の代償は、肉体的な消耗だけではないのかもしれない。そう感じ始めた矢先のことだった。エンキはまだ知らない。彼のささやかな秘密が生んだ波紋が、すでにウルクの街に広がり始め、巨大な影の注意を引きつけようとしていることを。




