第10話:星降る泥と再生の言葉
日食が始まったジッグラトの頂上は、この世ならざる光景と化していた。黒い太陽が空に浮かび、不気味な光が地上を照らす。吹き荒れる風の中、頂上中央の巨大な魔法陣から黒い靄のようなエネルギーが渦巻き、空間そのものが歪んでいるかのようだ。その中心に立つのは、大神官ザイウス。両手を天に掲げ、忘れられた言語で呪文を詠唱する彼の体からは、禍々しいオーラが放たれていた。
「来たか、小僧ども!」ザイウスが振り返る。その瞳は赤黒く輝き、常軌を逸した狂気と、しかし同時に、ある種の歪んだ確信に満ちたカリスマ性を漂わせていた。「愚かなる者よ。お前も、この淀みきった世界の停滞に苦しんでいるのだろう? だからこそ、その力を得たのではないか? 私と共に来い。古き神の混沌の力で全てを洗い流し、真の再生を、永遠の活力をこの世界にもたらすのだ!」
「ふざけるな!」エンキは叫んだ。「お前がやろうとしてるのは、ただの破壊だ!」
彼は懐から、星屑のように輝く特別な粘土――星降る泥――を取り出し、地面に叩きつけた。ニナの、母の、そしてウルクの人々の顔が脳裏をよぎる。恐怖はある。力の代償への、そして自分自身が怪物になるかもしれないという恐怖。だが、今はそれを乗り越える。守るために。
(応えろ、リビル・キシュ! 創造の力よ!)
エンキは意識を集中させ、最後の粘土板に記されていた「守護」の概念と、工房主が託した希望を練り上げる。星降る泥が眩い光を放ち、彼の意志に応えて形を成していく。だが、その力はあまりにも強大で、エンキの制御を超えて暴走しかける。
(まずい、抑えきれない…!)
精神が引きずられそうになった瞬間、肩のピップが鋭く「キィッ!」と鳴き、エンキの意識を現実に引き戻した。そうだ、俺は一人じゃない。
「顕れよ! 古代の守護者たち!」
光が収束し、そこには白銀に輝く数体のゴーレムが出現していた。盾を持つ屈強な戦士、翼を持つ聖なる獅子。それらはエンキの「守護」の意志を体現し、雄叫びを上げて、ザイウスが生み出したおぞましい異形ゴーレム――泥と骨、そして過去の犠牲者の怨念が混じり合ったかのような混沌の塊――へと突撃していった。
ジッグラトの頂上で、創造と破壊、秩序と混沌の代理戦争が始まった。守護ゴーレムは強力だったが、異形ゴーレムは邪神の力で何度でも再生し、数も多い。エンキはゴーレムたちに指示を送りながら、自らも戦いに加わった。職人としての知識でジッグラト床面の弱点を見抜き、「熱」の魔術で足場を崩そうとしたり、「滑」の魔術で敵の体勢を崩したり。ピップも、その小さな体で敵の注意を引きつけ、エンキを助ける。
だが、戦いが長引くにつれ、エンキの消耗は激しくなっていった。指先の冷えは全身に広がり、激しい頭痛と倦怠感が彼を襲う。そして、ついに恐れていたことが起こった。
《…力を…もっと力を欲しろ…憎め…破壊しろ…》
幻聴だ。邪神の囁きが、脳内に直接響いてくる。視界がぐにゃりと歪み、目の前の敵が、自分を嘲笑う巨大な怪物に見えた。破壊衝動が内から湧き上がり、エンキは思わず守護ゴーレムに、敵を粉砕しろと念じそうになった。
「エンキさん、しっかり!」
ニナの必死の叫び声が、闇に呑まれかけたエンキの意識を繋ぎ止めた。彼女は最後の粘土板を掲げ、儀式の弱点を探し続けている。そうだ、俺は破壊するために力を使っているんじゃない!
その時、ピップがエンキの肩から飛び立ち、彼の額にその小さな体を擦り付けた。ピップから、純粋な、温かい何かが流れ込んでくる。それはエンキの魔力の「原点」と共鳴し、邪神の汚染を和らげ、彼の精神を安定させる。だが、その代償か、ピップの動きは鈍くなり、光も弱々しくなっていく。
(ピップ…!)
さらに、ジッグラトの麓から、微かに、しかし確かに、人々の声が聞こえてくるような気がした。ザイウスの支配に抗議し、必死に祈りを捧げる、ウルクの民衆の声。その「抵抗の意志」が、微力ながらもザイウスの力を削ぎ、エンキの心を支える。
(俺は、一人じゃないんだ…!)
エンキは正気を取り戻した。そして、最後の手段に出ることを決意する。彼は懐から、全ての始まりとなった、あの古い粘土板のかけらを取り出した。力の源流そのもの。これを触媒に、対抗呪文の真髄――混沌を秩序ある形に封じる――を実行するのだ。
ニナが叫ぶ。「エンキさん、魔法陣の中心、エネルギーが渦巻くあの場所です!」
エンキは最後の守護ゴーレムにザイウスを抑えさせ、自身は魔法陣の中心へと駆けた。渦巻く黒いエネルギーに向かい、古びた粘土板のかけらを突き出す。
「リビル・キシュ! 再生の言葉よ! その真の力を見せろ! 混沌を、あるべき形に還すんだ!」
エンキは自らの生命力の大半を、粘土板を通して黒いエネルギーへと注ぎ込んだ。魂が燃え上がるような激痛と、意識が急速に遠のいていく感覚。だが、彼は念じ続けた。秩序を、調
和を、生命の輝きを。ニナの、母の、人々の未来を守りたい、と。
粘土板のかけらが、太陽にも匹敵するほどの眩い光を放った。黒いエネルギーが、悲鳴のような音を立てて粘土板へと吸い込まれていく。それは美しい光の奔流となり、やがて一つの凝縮された形――内部で淡い光が明滅する、黒曜石のような美しい結晶体――へと再構築され、粘土板の中に完全に封じ込められた。
「おお……我が力が……我が理想が……!」ザイウスの絶叫が響き渡る。
そして、訪れる静寂。日食は終わり、空には穏やかな太陽の光が戻り始めていた。魔法陣は消え、異形ゴーレムは塵となり、ジッグラトの頂上には、力を失い呆然と立ち尽くすザイウスと、黒く変色し、触れると氷のように冷たい粘土板のかけらを握りしめたまま、意識を失い倒れているエンキの姿だけがあった。粘土板は、時折、不吉な脈動を微かに見せているような気もした。
「エンキさん!」ニナが駆け寄る。
そこに、ガルが現れた。彼はザイウスの狂的な最期と、エンキの自己犠牲的な行動を目の当たりにし、その心に大きな変化が訪れていた。彼はザイウスを一瞥すると、エンキを介抱するニナに短く告げた。
「……行け。大神官は私が引き取る。お前たちは、もう自由だ」
ニナはガルに一礼すると、エンキの体を必死に支え、肩で弱々しく鳴くピップと共に、変わり始めた空の下、ジッグラトの頂上を後にした。
エピローグ
数週間後。エンキは工房の奥の部屋で、ようやく意識を取り戻した。体力の大部分と、リビル・キシュの力のほとんどは失われていた。ピップを動かす程度の、ごく僅かな力しか残っていない。そして、時折、あの邪神の囁きの残滓のようなものが頭をよぎり、彼は顔を顰めることもあった。後遺症は、完全には消えないのかもしれない。だが、彼は生きていた。隣の寝台では、母が穏やかな寝息を立てている。ザイウス失脚後、神殿の正常化と共に良質な薬草が出回り始め、彼女の容態は少しずつ快方に向かっていた。
ウルクの街も、大神官の圧政から解放され、徐々に活気を取り戻しつつあった。穏健派の神官たちと、自らの過ちを認め、贖罪のために尽力するガル兵士長(彼はニナに、師の死が事故に見せかけた追放であったことを告げ、深く謝罪した)の主導のもと、治水事業が見直され、神殿書庫も再び知の拠点として機能し始めていた。ザイウスが遺した危険な魔道具や研究資料は、彼らの手によって厳重に封印、あるいは破壊された。しかし、社会に根付いた差別や格差がすぐになくなるわけではない。改革の道はまだ遠い。
ニナは、その改革の中心人物の一人として、神殿で忙しい日々を送っていた。書庫の管理と記録の整理・封印という重要な役割を担いながらも、彼女は頻繁にエンキの工房を訪れた。
「エンキさん、体の具合はどうですか?」
「ああ、だいぶ良いよ。見てくれ、これ」
エンキが示したのは、母が大切にしていたが欠けてしまった古い土器だった。彼は残された僅かな力と、職人としての技術、そして魔術を通して得た素材への深い洞察力を使い、その土器を元の形に近い状態へと「再生」させていた。完璧ではない。だが、そこには確かな創造の喜びと、新しい可能性があった。
「すごい…! これが、リビル・キシュの…」
「ああ。破壊のためじゃない、生み出すための力。俺たちは、これからこの力の本当の意味を探していかなければならないんだろうな」
二人は顔を見合わせ、静かに微笑んだ。彼らの間には、言葉にしなくとも分かる深い信頼と絆があった。共に未来へ歩むパートナーとして。
エンキは窓の外を見た。活気を取り戻したウルクの街。彼が守りたかった日常。手のひらの上で、少し元気を取り戻したピップが「ピィ」と鳴いた。
封印された粘土板は、今も神殿の奥深くで静かに眠っている。だが、リビル・キシュの力が完全に消え去ったわけではない。いつか再び、その力が求められる時が来るのかもしれない。あるいは、エンキとニナが、その力の真実を求めて、ウルクの外にある「忘れられた文字」の痕跡を探す旅に出る日が来るのかもしれない。
未来はまだ、白紙の粘土板のように広がっている。エンキは、確かな希望と、そして背負ったものの重さを感じながら、再生した土器を、そっと母の枕元に置いた。




