第1話:川辺の泥と最初の文字
巨大な窯の熱が街全体を包み込んでいるかのようだった。陽光は容赦なく降り注ぎ、日干し煉瓦で造られた家々を灼き、乾いた土埃を舞い上がらせる。チグリスの恵みに支えられた大都市ウルク。その喧騒も、川辺に近い職人地区の、この狭く薄暗い工房まではあまり届かない。
エンキは、目の前の粘土板に意識を集中させていた。家畜の数を記録するだけの、単純な作業。だが、彼が使う粘土は質が悪く、ざらついていて尖筆の走りが悪い。今日で三日目になるこの低賃金の仕事に、彼の内側で何かがささくれ立つのを感じていた。
(またこれか……。父さんなら、こんな仕事……いや、どんな粘土でも見事にこなしたんだろうな)
二年前に亡くなった父は、腕の良い粘土板職人だった。その父から受け継いだこの工房と、わずかな道具。そして、埋めようのない技術の差。エンキはまだ十五で、職人としては半人前にも満たない。焦りと苛立ちが、粘土を捏ねる指先に力となって籠る。
その時、工房の奥、葦のカーテンで仕切られた部屋から、か細く、しかし胸を抉るような咳の音が聞こえた。母だ。エンキは動きを止め、そっとカーテンの隙間から中を窺う。簡素な寝台に横たわる母の顔は、月のように青白く、呼吸も浅い。高価な薬を買わなければ。その思いだけが、エンキを日々の労働に縛り付けていた。
昼下がり、水汲みに出たエンキは、工房へ戻る途中、隣の地区で陶器を作っている老婆、イナンナに呼び止められた。彼女の工房の前には、豊かな曲線と力強い模様が施された美しい水差しが並んでいる。ウルクの工芸技術の高さを物語る品々だ。
「おや、エンキじゃないか。精が出るねぇ。だが、根を詰めすぎるんじゃないよ」イナンナは皺くちゃの顔に鋭い目を光らせ、エンキの貧相な水甕を一瞥した。「母御の具合はどうだい? あいかわらず薬代も大変なんだろ?」
「……うん。ありがとう、イナンナさん」
「ふん。あんたも早く一人前の職人になって、楽させてやらなきゃねぇ。……まあ、あの子の親父さんも、腕はピカイチだったけど、欲のない朴念仁だったから、結局あんたたちに楽はさせてやれなかったけどねぇ」イナンナは懐かしむように、しかし少しだけ棘のある口調で言った。「あんたは、あんな風になっちゃだめだよ」
その言葉は、エンキの劣等感を的確に刺激した。だが、老婆が悪気なく、そして自分たち親子を深く気遣ってくれていることも知っている。彼はただ、「頑張るよ」と力なく返すだけだった。
市場でいつもの安い粘土を仕入れた帰り道、思いがけない声がかかった。
「待ちなさい、そこの若者。君がエンキという粘土板職人だな?」
振り返ると、上等な紫の縁取りがある貫頭衣を纏い、指にはこれみよがしに金の指輪を光らせた、恰幅の良い男が立っていた。一目で裕福な商人と分かる。その値踏みするような視線に、エンキは反射的に身構えた。
「は、はい。そうですが……」
「ほう、噂通りの貧相な工房だな」男はエンキの工房を見回し、鼻で笑った。「だが、腕は確かだと聞いた。急ぎで特別な契約書板を誂えてほしいのだ。なにしろ、これは偉大なる主神ナンナ様に捧げる神殿への奉納に関わる、非常に重要な契約でな。来るべき『特別な日』までに必要なのだ。間違いがあれば、お前のような下層の職人はどうなるか…分かっているな? もちろん、首尾よく仕上げれば、礼ははずむ。お前の母親の薬代くらいにはなるだろうよ」
男が示した羊皮紙には、星の運行を模したような複雑怪奇な幾何学模様と、神々への賛美の言葉を流麗な文字で刻み込んだ、豪華絢爛な装飾粘土板の意匠が描かれていた。エンキの今の技術では、到底無理かもしれない。だが、断ればこの機会は二度とない。母の薬代、そして職人としての僅かなプライド。
「……お任せください。必ずや、ご期待に沿うものをお作りいたします」エンキは唾を飲み込み、答えた。
「ふん、威勢だけは良い」男は疑わしげだったが、前金の銀貨数枚と羊皮紙のメモを押し付けるように渡すと、「三日後だ。遅れるなよ」とだけ言い残し、尊大に去っていった。
工房に戻ったエンキは、プレッシャーで手が震えるのを感じた。あの装飾を再現するには、父が遺した古い見本を探すしかない。普段は開けない、工房の奥の埃まみれの棚。積み重なった古い粘土板や、用途不明の道具の束を掻き分けていく。
その時、指先に硬い、異質な感触が当たった。取り出してみると、それは手のひらほどの大きさの、黒っぽい粘土板のかけらだった。表面には、見慣れた楔形文字とは似ても似つかない、奇妙な模様が刻まれている。流れるような曲線と、点を繋いだような複雑な図形。ウルクで一般的に使われる粘土とは明らかに違う、ひんやりと滑らかな質感。そして、風化しているはずなのに、妙に生々しい存在感を放っていた。
(なんだ、これは……?)
指先が触れた瞬間、エンキは微かな目眩と共に、奇妙な感覚に襲われた。遠い昔に嗅いだような、乾いた粘土と…何か甘く、芳しい香油の匂いが鼻腔を掠めた気がした。そして、頭の奥で、忘れていたはずの誰かの低い囁き声が響いたような……いや、気のせいだ。疲れているのだろう。
だが、その文字から目が離せない。まるで、文字自体が意志を持って、エンキの内側にある何かを呼び覚まそうとしているかのようだ。父の遺したものか? いや、父はこんな得体のしれないものを……。
(……もし、これを真似たら?)
衝動が、恐怖を上回った。未知への好奇心。そして、心の奥底から聞こえる、ささやかな声。「力を得たい」という、抗いがたい囁き。
エンキは唾を飲み込むと、震える手で作業台の隅にあった粘土の切れ端を捏ねた。そして、かけらに刻まれた奇妙な文字の一つ――鳥がまさに飛び立とうとする瞬間のような、優美な曲線を持つ文字――を、尖筆の先でおそるおそる書き写してみる。息を詰めて、見守る。
書き終えた、その瞬間。
……ククッ……。
粘土が、内側から微かに震えた。生命を得たかのように。
「ひっ……!」
エンキは短い悲鳴を上げ、後ずさった。幻覚ではない。指先に伝わる、確かな振動。それは、この世ならざるものの胎動。
(なんだ……なんだこれは!? まさか、本当に……魔法!?)
恐怖が全身を貫いた。これは神々の領域を侵す、禁忌の力ではないのか? 触れてはいけない、呪われた術なのではないか?
エンキは半狂乱で粘土板のかけらを掴むと、工房の最も奥深く、地面に掘られた小さな穴の中に投げ込み、土を被せて隠した。動いた粘土の塊も、何度も何度も足で踏みつけ、跡形もなくなるまで潰した。
(見なかった。何もなかったんだ。忘れろ。忘れなければ……)
激しい動悸を抑えながら、エンキは壁に背をもたせ、荒い息をついた。忘れるんだ。明日からはまた、元の退屈で、しかし安全な日常に戻るのだ。
だが、エンキは知っていた。もう、戻れないかもしれないことを。指先に残るあの奇妙な感触と、心の奥底で産声を上げた未知への渇望は、決して消えることはないだろう。それは、彼の運命の歯車が、静かに、しかし確実に回り始めた音だったのかもしれない。