第一章7話 結 初めての戦いって怖すぎない?!
夜明けの光が木々の隙間から差し込み、鳥の声が森に広がった。
結は寝袋から身を起こし、少し冷えた空気に肩を竦める。昨夜の焚き火での会話、デルとのやりとりがまだ胸に残っていて、妙に目が冴えていた。
「おはよーっす! ふぁぁー……!」
翔が豪快な欠伸をしながら伸びをする。その声に朱里が眉をひそめる。
「ほんと朝からうるさいわね……」
けれど、その表情は昨夜より少し和らいで見えた。
亮は黙って荷物を背負い、隣の静香に視線を向ける。
「寒くない? 外套、もう一度貸すよ」
「……あ、ありがとう……」
静香はおさげを揺らし、恥ずかしそうに小さな声で答えた。
そんな仲間たちのやりとりに、結は自然と笑みをこぼした。
――いいな、こういうの。病室の天井ばかり見ていた日々とはまるで違う。こんな時間が、ずっと続けばいいのに……。
「さてさて、皆様」
御者席に座ったデルが、わざと芝居がかった声で手綱を鳴らした。
「本日も馬車は順調に進みます。目的地、目標地、目印の“終焉の地”までは、そう遠くはございませんぞ」
「終焉の地……」
結は小さく呟き、その響きに胸の奥がざわつくのを覚えた。
馬車はがたん、ごとんと揺れながら森の奥へ進んでいく。
木々は濃く、陽光も遮られ、やがて空気はどこかひんやりとしていった。
それでも翔は剣を肩に担ぎ、にやにやと笑っている。
「へっ、大したことなさそうだな! 魔物の一匹や二匹、出てきたら俺がやっつけてやるよ!」
朱里は呆れたように視線を逸らす。
「その軽口がどこまで持つかしらね」
亮は真剣に辺りを見回し、静香は不安そうに本を抱きしめる。
そして――。
「……おやおや」
デルが手綱を引いた。馬がいななき、立ち止まる。
がさり、と茂みが揺れた瞬間。
黄色い眼がいくつも光り、影が森から溢れ出した。
「な……ゴブリン!?」翔が叫ぶ。
短剣や棍棒を振りかざす小鬼たちが、甲高い声で笑いながら馬車を取り囲む。
デルはにやりと笑い、肩をすくめた。
「狡猾、奸智、ずる賢き魔物にございます。――さあさあ、勇者様方。腕の見せどころでございますぞ」
周りの騎士達はディッシュの命令により、いつでも翔達を助けられるように見守っている。
結はごくりと唾を飲み込んだ。
胸の鼓動が高鳴り、手の中の剣がずっしりと重く感じられる。
――これが、私たちの初めての戦い……!
こうして結達の、最初の戦闘が始まった。
翔が真っ先に飛び出し、剣を構える。その顔は強がっていたが、どこか高揚してもいた。
「へっ、初戦にしちゃ丁度いいじゃねぇか!」
朱里も眉を寄せながら両手を組み、光を編む。
「回復は任せて。翔、突っ込みすぎないで!」
亮は拳を握りしめ、炎を纏わせた。
「僕が前に出る! 静香君は援護を!」
「……は、はいっ!」
静香はおどおどしながらも詠唱を始め、小さな風の弾を作り出す。
結も剣を握りしめて駆け出した。
胸の鼓動は高鳴っていたが、仲間がいる。みんなと一緒なら、勝てる――そう思った。
「はぁっ!」
剣を振るえば、ゴブリンの棍棒は紙切れのように容易く弾き飛ぶ。
結の腕には、自分でも信じられないほどの力が宿っていた。
――これなら、勝てる!
だが、その瞬間。
一体のゴブリンが朱里に飛びかかる。
「きゃっ!」
朱里は杖を落とし、尻餅をつく。
「朱里ちゃんっ!」
結は剣を握りしめ、全身を震わせながらも飛び出した。
刃は振り下ろせない。代わりに身体を盾にしてゴブリンにぶつかり、必死に朱里を庇った。
「や、やめてっ……! 絶対に朱里ちゃんには触らせない……!」
その声は涙混じりだったが、必死さは伝わる。
結の剣筋はぎこちなくても、力だけは圧倒的で、ゴブリンを吹き飛ばすことができた。
次の瞬間、別のゴブリンが静香に短剣を振りかざす。
「ひっ……!」静香は本を抱え、動けない。
「静香ちゃん、逃げてっ!」
結はまたも前に出て、盾のように割って入った。短剣が結の腕を掠め、血が滲む。
痛みに顔を歪めながらも、必死に静香を背に庇い、剣を構える。
「怖い……怖いけど……みんなを守りたい……!」
結の目には涙が滲んでいた。
恐怖に震えながらも、ただ仲間を守るために剣を握りしめていた。
精一杯に剣を振いステータスの圧倒的な差で徐々にゴブリンを追い詰めていく。
だが――。
ゴブリンが呻いた。
「……タス……ケテ……」
血を流し、地に伏したゴブリンの喉から漏れた声。
意味を知っているわけではない。ただ、これまで殺されてきた人間の断末魔を、猿真似しているだけ。
だが、その濁った声は結の耳に、確かな“命乞い”として届いてしまった。
「……っ……」
結の剣が震え、止まる。
翔も後ずさりし、青ざめた顔で「……な、今……助けてって……?」と呟いた。
朱里はその場で固まり、唇を震わせる。「……やだ……人間みたいな声……」
静香は耳を塞ぎ、亮は拳を下ろしたまま動けなくなる。
結は必死に振り払おうとした。
――これは魔物だ、敵だ。倒さなきゃ。
でも、目の前にあるのは恐怖と苦痛に歪んだ“顔”。
病室のベッドの上でしか命を見送れなかった過去の自分が蘇る。
「……無理……無理だよ……私……殺せない……!」
剣が手から滑り落ち、地面に突き刺さった。
沈黙が広がる。
「……愚かだ」
冷ややかな声が、その場を断ち切った。
ディッシュが前に出る。
無造作に剣を振るい、呻くゴブリンの首を刎ねた。
返り血が飛び散り、赤い雫が結の頬を濡らす。
「敵は敵だ。声を真似ただけで惑わされるとは。――命を奪う覚悟なき者に、魔王を討つなど不可能」
結は涙を浮かべて膝をつき、翔は歯を食いしばって顔を背けた。
朱里は唇を噛み、静香は震え、亮は拳を握りしめるしかなかった。
そんな彼らを見下ろしながら、ディッシュは心の奥で冷たく決断していた。
(……勇者も仲間も、結局は子供。甘さに惑うだけ。
この程度の連中に、聖剣を託すわけにはいかん。
聖剣は……我らが王のために奪うべきだ)
森の中は再び静まり返っていた。
倒れたゴブリンたちの死骸から血の匂いが漂い、湿った土に沁み込んでいく。
結は剣を握ったまま、その場に膝をついて震えていた。
「……私、殺せなかった……みんなを守りたかったのに……」
その声に、朱里がそっと隣に膝をついた。
「……結。助けてくれてありがとう」
結は顔を上げる。朱里の瞳はまだ恐怖に揺れていたが、その奥には確かな温かさがあった。
「私、正直……怖くて動けなかった。でも、結が庇ってくれたから……生きてる」
朱里はぎこちなく笑い、結の手を強く握った。
「だから……ありがとう。ほんとに」
「……朱里ちゃん……」
結の瞳に涙がにじみ、自然と笑みがこぼれた。
翔も少し気恥ずかしそうに頭をかきながら言う。
「ははっ……俺もさ、ビビっちまったけど……結が前に出てくれて助かった。勇者ってのはやっぱりすげぇな」
亮も頷き、真面目な声で続ける。
「……静香君を守ってくれてありがとう。僕だけじゃ支えきれなかった」
「……わ、わたしも……」静香は小さく俯きながらも、結を見て呟いた。
「結さんがいて……助かった……」
みんなの感謝の言葉に、結の胸は熱くなった。
――守れた。命を奪うことはできなかったけど、それでも私は……仲間を守れた。
そんなやりとりを、少し離れたところでデルは腕を組みながら見ていた。
にやりと笑みを浮かべつつも、その目には一瞬、別の色が宿る。
「いやはや……未熟、稚拙、青二才。まだまだお子様方でございますな」
そう呟き、わざとらしくため息をつく。
ほんの一瞬、彼の表情が変わった。
笑みを崩し、かつて誰かを守ろうと必死にもがいた“別の顔”がちらりと覗く。
しかしすぐにまたおどけた口調に戻った。
デルは結に視線を戻し、にこやかに言った。
「勇者殿。守る、護衛、庇護……その心ばかりは嘘ではございますまい。どうぞお忘れなく。その無防備さこそが、貴女を貴女たらしめておりますゆえ」
結は意味を測りかねながらも、その言葉に少しだけ勇気を得たように頷いた。
「……うん。ありがとう、デルさん」
デルはその笑顔に一瞬だけ言葉を失い、次いで大げさに肩をすくめて夜空を仰いだ。
「いやはや……恐ろしいお嬢様だ。人を疑わず、人を救おうとする……。壊れやすく、脆弱で……それでも、眩しい」
そう呟いた声は、彼自身にしか届かなかった。




