第4話
「やれやれ。結婚できるか、今から心配だ」
元気いっぱいな幼い娘アンナを思い出して、夫婦の部屋の居間に入ったアントンは言った。短時間の外出なら大人しくしていられるが、家では違う。このままでは婚約中に気付かれて破談になるかもしれない。
「婚約もしていないのに、気が早いわよ」
妻のラヴィニアに言われて、アントンは苦笑した。娘の素の姿を見て婚約解消するなら、そこまでの男でしかない。いもしない娘の婚約者についてアレコレ考えることは馬鹿げている。
社交界の常識の下に隠された娘の性格が受け入れられない男と婚約させるくらいなら、他家に嫁になど出さなくてもいいのではないか。いっそのこと、身分は違っても、幼馴染である使用人の子どもと結婚させたほうがいいのではないか。とまで、考えは巡る。
「そうやって甘やかすから、あの子はアントンにベッタリなのよ」
「まあまあ。『お父様、大好き!』なんて言ってくれるのは、今だけだから」
アントンは拗ねた声の妻を抱き締めて宥めた。この部屋以外では使用人や子どもの目があって、こんな風にはできない。
家の中でも人の目があるのだ。尊敬の念をなくさない為にも、二人きりの密室以外ではこんなことはできない。
「エヴァンス卿」
「その分、跡取りはしっかりしているだろう、ラヴィニア?」
ラヴィニアが夫婦の私室以外で夫をファーストネームで呼ばないのは、使用人の前でも淑女たる仮面を付けているからだ。条件が合っただけで結婚しているのなら、こんな風に夫に素の自分を見せることもなかっただろう。
素の自分に戻れるのは、生家から連れて来た気心の知れた腹心の侍女だけというのは、よくある話だ。
夫との関係がこんな風に居心地の良いものになるとは、ラヴィニアは思っていなかった。
「ええ、そうね」
しっかりしていると言われている息子にも、同じような結婚をして欲しいと思うのは、ラヴィニアが幸せな結婚をしているからだろう。
社交界にも、使用人にも、紳士淑女の姿を見せなければならない。優秀な使用人というものは、横暴な主人に耐える使用人ではなく、主人と同様に社交界の常識が身に付いている使用人である。主人に常識があるかどうかも判断できる為、常識のない働きにくい家を見捨てて常識のある働きやすい家に移ってしまう。そして、常識のない家には常識を知らない使用人しか残らない。
だから、社交界の常識が身に付いている使用人に残ってもらう為に、自室や他の人の目がない密室でしか、息を抜けない。
気を許せる友など、本当に貴重だ。
乳母や乳兄弟が実の親や兄弟よりも親しいのも、密接に過ごした仲だからだ。
だからこそ、気を許せる相手との結婚は一生分の幸運を使っても得られるとは限らない。
結婚するまで、ラヴィニアはこんな風に幸せになるとは思っていなかった。
所詮、社交界で人気のある人物だからと見染められただけだと、思っていた。
見染められた理由は別にあったが、アントンが仮面の下に隠された素顔をよく観察した結果だった。
選んだのはアントン。
でも、惚れて婚約したのもアントン。
ラヴィニアは意向を必要とされていなかった。家にとって、都合の良い相手との婚約にすぎない。
選ぶことを許されなかったラヴィニアだったが、同じような婚約をした女性たちと違うことは、当て馬にされるような優しくて良い人に選ばれたということだけだ。
納得していないものの、心在らずといった妻の横顔を見て、アントンはお喋りな男の言葉を思い出した。
『あんたの敗因は良い子ちゃんすぎたとこだ。当て馬にされた挙句、死んじまうなんて、あの女は一年もあんたのこたー、覚えちゃいねーぜ』
(もし、私が死んだらラヴィニアは一年以上、覚えていてくれるだろうか? エリスとも、こんな風に話していて、破談になった。死に戻る前のエリスとも、こんな風に話していた。でも、一年も覚えていられないと、言われた)
アントンは跡継ぎの成人前に当主が亡くなった家の未亡人たちの話を思い出した。
親族は爵位を横取りしようと、あの手この手でなりふり構わない。
友人知人も夫に金を貸していた、と自称していた人間に早変わり。
異性からは男漁りに余念がないと見られ、同性からは夫にちょっかいをかけるふしだら女扱い。
誰も信用できず、誰も頼ることができない。
(いや、今、私が死んだら、息子が成人するまで、悲しむ余裕などない)