第85話 家族の新たな生活が始まる
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春陽を待っている間、美優はきょろきょろと室内を見回してしまった。
本当に物が少ない。
そんな中、吸い寄せられるように、テーブルにあるペンギンのキーホルダーが付いた鍵と髪留め、雪愛と写っているプリントシールに目がいった。
この部屋で唯一と言ってもいい色づいた一角だ。
であれば、プリントシールだけでなく、どれもが雪愛との思い出の品なのだろうということがわかる。
美優は思わず雪愛を見た。すると雪愛と目が合った。
雪愛も初めて来たときには美優と同じような感じだったため、何を思ったのかがわかったのだろうか。
目が合った雪愛は小さく笑った。
美優はそんな雪愛を見て、温かい気持ちになり雪愛と同じように柔らかな表情になるのだった。
春陽が作ってくれたコーヒーに美優と麻理はお礼を言うと、マグカップに口をつけた。
一つ息を吐き二人がテーブルにマグカップを置いたところで春陽が聞いた。
「姉さんが一人暮らしできるのはよかったと思うけど、引っ越しまで随分急じゃないか?」
春陽の疑問を受けて、美優そして麻理が話す内容はこうだ。
保証人の話をされた麻理は、そのとき美優に言ったのだ。春陽と同じアパートの一室が空いていることを。以前に美優から一人暮らしをしたいと聞いていた麻理は一応と思い、空き状況を調べていた。
だから春陽とフェリーチェで話したあのとき、美優は麻理からそのことを聞いて、麻理にお願いすることを決めた。
そして、文化祭の一般公開だった日曜日。
学校を出て、沙織も一緒に三人でフェリーチェで色々と話している中で、美優の引っ越しの話になり、美優が早く家を出たいと思っていることもあり、善は急げじゃないが、家を出るのに問題がないのであれば早く行動した方がいいのではないか、という流れになった。
美優にしても平日なら継母と異母弟も家にはいないので動きやすいというのもあった。
そこで、昨日の月曜、美優は麻理と一緒にアパートの内覧に行った。
「どう?この部屋は?」
一通り見て回った後、麻理が美優に訊いた。
「ええ。綺麗だしいいと思います。家賃も高くないですし」
「よかった。ちなみに、この下がハルの部屋よ」
麻理の言葉に思わず美優の目が床に行ってしまう。この下に春陽が暮らしている。その事実に自然と美優の口元に笑みが浮かんだ。
春陽とご近所になる生活を色々想像しているのかもしれない。
その後、契約を済ませた二人は家具や家電などを買いに行った。
麻理の言っていた店を休む予定というのはこのことだったのだ。美優に一日付き合っていたため、店を開くことはできなかった。
どの店でも翌日配送してもらえるものはすべてお願いして、それらが今日の午前中運び込まれていた。
家に帰った美優は大学関係のものや服などを段ボールやキャリーケースに詰めて荷造りをした。大きなものや必要不可欠なもの以外はすべて置いていく。
そうすれば大した量でもないため、荷造りはすぐに終わった。
このとき、美優は僅かな段ボールとキャリーケースを見つめ、ぼんやりと物思いに耽っていた。
これまでの色々なことが思い出される。いい思い出なんてほとんどない。だが、明日には新しい場所で新しい生活が始まる。
一人でずっと悩んできたのに、春陽と話せて、仲直りできてからとんとん拍子に進んだ今回の引っ越し話。
不安はもちろんあるが、それよりも楽しみの方が大きかった。この家から出られることはもちろん、行先には春陽がいるのだ。
そのことを考えるだけで胸の辺りが温かくなる。
少なくともこの家で住むようになってからは初めての感覚だ。
美優はずっとずっと暗闇の中にいた。そこに光が差したようなそんな感覚。
その光をもたらしてくれたのは間違いなく春陽だ。
美優はここまで来てバレる訳にはいかないと細心の注意を払って最後の日を過ごした。
そうして今朝、継母が異母弟を保育園に連れて行くため二人で家を出た後、麻理がレンタカーで軽トラックを借りてきて、少ない荷物を荷台に運び、美優は家を出てきたのだ。
あまり意味はないと思うが、直哉の書斎には一人暮らしをするということと大学には通わせてほしいというメモを残してきた。
これでもし万が一学費が払われなくなれば、奨学金など何か手立てを考えなければならない。学生のうちから借金をするかもしれないと考えると不安になるが大学はちゃんと卒業したい。おそらくは大丈夫だろうと思っているが。
麻理が補足する形で美優が話す内容を春陽と雪愛は黙って聴いていた。
「今週は大学いっぱい休むことになっちゃったけど、これからはここに住めるんだと思ったら今動いて本当によかったって思ってるの。明日も配送されてくるものはあるし、生活用品を買ったり、住所変更とか色々手続きしなきゃいけないことがあったり、やることはまだ残ってるからしばらくはバタバタしそうなんだけどね」
そう言って笑う美優はすっきりした顔をしている。それほど家を出られたことが嬉しいのだろう。
この数日でそんな激しい動きがあったことに驚きはしたが、何はともあれ。
「よかったな、姉さん。おめでとう」
「おめでとうございます、美優さん」
「ふふっ、ありがとう、春陽、雪愛ちゃん」
この後、しばらくお喋りをした四人は、皆で美優の部屋を見に行ったのだが、まだ片付いていないことを差し引いても春陽の部屋よりも家具家電やインテリアが充実しているし、物が多いように感じたのはご愛敬だ。
それから引っ越し祝いにと、夕食に麻理が出前でお寿司を頼んだ。
お寿司が届くまでの間に、お茶がないということで麻理と春陽で買い物に出ることになった。一人暮らしを始めてから春陽は食事のとき水を飲む習慣だったし、雪愛もそれに付き合って水だったため、春陽にはお茶を準備するという考えがなかったのだ。
麻理にそれくらい冷蔵庫に入れておきなさいと言われてしまったため、今後、春陽の冷蔵庫にはお茶も常備されるようになるかもしれない。
ちなみに麻理はお茶ではなくアルコールを買うために同行した。
二人がスーパーでの買い物を終えた帰りの道中でのこと。
「麻理さん、今回のこと本当にありがとうございました」
「ふふっ、何?突然。お礼を言われるようなことはしてないわ」
「いえ、姉さんを救ってくれましたから」
「そんなの当然のことをしただけよ?」
麻理はいつもそうだ。今回のことだけじゃない。これまで自分にしてきてくれたことも全部。
簡単なことのように言うが、そんな訳がないのだ。
麻理の言動からは無償の愛、そんな言葉が思い浮かぶ。
他人にそんなものを向けられる人がいるだろうか。
春陽も、そしておそらく美優も経験したことはないが、これは親が子に与えるような、家族が家族を想って損得抜きで行動するような―――。
「……麻理さん、本当にありがとう。今回のことはもちろん、これまで俺にしてくれたことも全部」
「っ!?……ハル?」
「姉さんと話しててわかったんだ。俺は麻理さんのこと家族のように感じてた。……いや、麻理さんだけじゃない、貴広さんのことも。今ならわかる。俺がそう感じるほどに二人がそう接してくれてたんだって。だから、ありがとう」
(貴広さん……。ハルが、ハルが……!)
春陽がこんなことを自分に言ってくれる日が来るなんて。
様々な感情が押し寄せてくる。
春陽の言葉を聴いて、麻理の心の中が今どうなっているのか。それは麻理にしかわからない。
静香から引き離すことはできたが、麻理も貴広も春陽にできたことはとても少ない。それでも春陽への想いだけは心からのものだったから。
麻理は色々な想いをぐっと堪え、そして笑った。
春陽の頭を乱暴に撫でる。
「バカ!何そんなこと改まって言ってんのよ。それこそ家族なんだからそんなことでお礼なんて言う必要はないの」
「そっか」
「……でもありがとう。そんな風に言ってもらえて嬉しいわ。きっと貴広さんも喜んでる!」
「だと、いいな……」
春陽は小さく微笑んだ。貴広のことを思い出しているのかもしれない。
「ただ、ハルがそう言ってくれるなら一つだけ。私に対して過度に丁寧な言葉を使う必要はないわ。家族ってそういうものよ?」
春陽の目が大きくなる。
それは美優に言われたことと同じだったからだ。
今までの自分は無意識にそうして壁を作っていたのかもしれない。あくまでも他人なのだと……。
だけどもうそれも終わりだ。
「っ、ああ、わかった」
春陽の返事に麻理は満足げに笑い、再び春陽の頭を乱暴に撫でるのだった。
春陽と麻理がアパートへと戻り、四人は届いたお寿司を美味しくいただいた。
そろそろ解散して帰ろうかとなり、全員で春陽の部屋を出たところで、美優が春陽に言った。
「春陽、麻理さんのことちゃんと送ってあげてね。あと、これからよろしく。何かあればいつでも声かけて」
「ああ。わかってる。こっちこそ、いつでも声かけてくれ」
そうして、美優は自分の部屋へと戻り、春陽は雪愛と麻理を送っていった。
雪愛が麻理を見て春陽に言う。
「麻理さん、大丈夫かな?かなり酔ってるみたいだけど……」
「大丈夫だとは思うけど、かなり珍しいな。麻理さんがこんなに酔ってるところ初めて見るかもしれない」
「こんなのぜんぜんもんだいないわよー。よったうちになんかはいらないんだからー」
「はいはい。わかったからちゃんと掴まっててくれよ」
しっかり喋れている、ようには思うのだがどこかおかしい。
顔はほんのり赤い程度だ。
そんな麻理に対して春陽の言葉はぶっきらぼうだが優しい。
雪愛はそのことに微笑む。お寿司を食べているときから何だか二人の間に遠慮がなくなったというか、距離が近くなったのは見ていて感じていた。
具体的なことはわからないが、二人の間に何かがあったのだろうということはわかるから。そしてそれがいい方向のものだとも。
なぜ、美優が麻理のことに言及したかは現在の状況が物語っている。
麻理は今春陽にしがみつくようにして歩いているのだ。
春陽に言われた言葉が嬉しくて、通常よりアルコールを飲むペースが速く、その分、量も増えてしまった。
気分と相まって、随分酔いが回ってしまったようだ。
今にして思えば、お酒を飲むのは麻理だけなのに、ボトルを買ったのが間違いだったと春陽は反省している。それも三本も。
結局麻理一人で全部のボトルを空けてしまって今この状況なのだから。
春陽と雪愛は、何とか麻理の家に着き、二階の部屋まで送り届けた。
鍵は春陽も持っているため、その点は問題ない。
「それじゃあ俺らは帰るから」
「はーい。じゃーねー」
麻理はそのままベッドでごろんと反対を向き、すぐに寝息を立て始めた。
春陽と雪愛が思わず顔を見合わせ苦笑する。
それから静かに家を出て、春陽は雪愛を送っていくのだった。
今日から美優は春陽と同じアパートで一人暮らしをしていくことになる。
大学とバイトで忙しい中、春陽にご飯を作って持って行くなど春陽の世話をする美優が頻繁に見受けられるようになるのだが、それはまた別の話だ。
そして美優は春陽だけでなく、麻理や雪愛とも仲を深めていくことになる。
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