第47話 彼の姉は思いを馳せる
美優は自分の部屋でベッドに座り、膝を抱えていた。
(やっちゃった……)
思わずため息がこぼれる。
思い出すのは春陽との六年ぶりの再会。春陽は格好いい男の子に成長していた。あれなら、さぞかし女の子にモテることだろう。
雪愛、というのがどちらの女の子のことかはわからなかったが、春陽は自分達と離れて存分に青春を謳歌しているようだ。それは本当ならとても喜ばしいこと。
そして、春陽との会話。
あんな風にするつもりはなかった。
春陽が今楽しく過ごせているならそれは応援してあげるべきことだ。それに、自分は春陽に昔のことを謝らなければならないはずだった。許してほしいとかそういうことではなくて、誠心誠意謝罪しなければならないはずだったのだ。
それなのに美優がしたことは過去の傷を抉るようなものだった。それも春陽から真剣な表情で言い返されてしまったが。
初めて好きになったとか、付き合い始めとか言っていたから、今が一番楽しい時なのだろうなと美優は思う。思って、またモヤモヤしてしまい、自己嫌悪に陥る。
美優は知らない。
今の春陽は雪愛が一緒にいるからこそのものであって、少し前までの春陽と、もしくは学校での春陽と出会っていたら、格好いいなんて思いもしなかっただろうことを。
美優は知らない。
春陽がつい最近まで、青春を謳歌するどころか、人との関わりを避け、一人で居続けていたことを。
美優は知らない。
春陽が美優達や母親と離れてからも、心の傷は深く残り続けていることを。
自己肯定感の低さが窺える、美優はそう思ったが、そんな生易しい程度のものではないということを。
美優は知らない。
見た目はもちろん、精神的な部分も、今の春陽があるのは雪愛のおかげというのが大きいということを。
美優は知らない。
そんな雪愛と付き合うことになるまでに春陽がどれほどの恐怖を乗り越えてきたのかを。
もちろん、そんなことを察することなんてできないだろう。だけど本人に聞くことは美優次第でできたことだ。そして美優はそれをしなかった。自身の感情を制御できなかったというのもあるが、自分の中で完結してしまった。
だから今の美優は本当の春陽のことを少しも理解できていない。
結局、自分から春陽に聞くばかりで、春陽から美優に質問することは一度も無かった。
春陽との話を終えた後、何もやる気が起きず、美優は帰りたくもない家にまっすぐ帰った。
父の再婚相手である継母と、その継母と父との子である異母弟がいる家へ。
父が再婚した当初も居心地の悪さは感じていたが、二人に子供ができてからは、それが顕著で、継母は美優のことを自分達家族に割り込む異物のように邪険にしてくる。
厄介なのは、父がいる前では平穏を装うことだ。その度に美優は気持ち悪いものを感じていた。
この家の中ではダイフクだけが美優の心の拠り所だった。昔、春陽が見つけてきた白猫だ。
けれど、そのダイフクももういない。
それは、まるで美優の大学受験がすべて終わるまで見届けてくれていたかのように、受験がすべて終わった翌日のことだった。
気づいたときには最初理解できなかった。でも触れたらいつもの温かさがなくて……。大学受験が終わり、緊張の糸が解けたことも合わさって、美優は泣いた。子供のようにわんわん泣いた。それからも涙を流さずにいられるようになるまで随分時間がかかった。けれど一つだけ。美優は一緒に暮らす誰の前でも泣きはしなかった。泣くときは決まって部屋で一人になってから。美優が悲しみを共有できる人はこの家にはいなかった。
大学に受かった時、ダイフクもいなくなってしまった美優は、もうこの家には居たくなくて、一人暮らししたいと父に伝えた。けれど父からはグチグチと色々言われ、簡潔に言うと、必要ないの一言で終わってしまったのだ。
ベッドの上で膝を抱えた姿勢のまま、今日出会った春陽と今の自分を比較して、再びため息が出てしまう。
そして思う。
春陽も昔はこんな思いをしていたのだろうか、と。
それは父が再婚してから美優が何度も考えたことだった。
美優は、父直哉と母静香の第一子として生まれた。
美優、という名前は、内面の美しい、優しい子になってほしいという想いから直哉と静香、二人で考えて付けたのだと、美優が小学校低学年の時に、自分の名前の由来を調べる、という宿題を出された際に静香から教えてもらった。
直哉は仕事人間で、毎日帰りが遅かった。
静香も働いており、美優を生んで半年間の育休を取った後、職場に復帰した。
この頃の静香は仕事が楽しいのか、生き生きとしていた。
この家族にとって、この頃が最後の平穏な時だったのだろうと今の美優は思う。
あくまで表面上は、だが。
そして、静香が再び妊娠し、美優が二歳のときに、弟が生まれた。
その子は静香が春陽と名付けた。
春陽を生んだ静香は、すぐに保育園探しを始め、生後三か月になる頃には春陽を保育園に入れ、職場に復帰した。
その頃からだろうか、静香が美優に対して指図するようになったのは。
これをしなさい、あれをしなさい、これはしちゃ駄目、あれはしちゃ駄目と美優に細かく言うようになったのだ。
それはまるで、美優が自分のものであるかのように、美優のすべてを自分の思う通りにしようとしているようだった。
美優が静香の言う通りにしている限り、静香は美優をとても可愛がった。
「美優はいい子ね」
「すごいわ、美優」
そう言って機嫌がいいときの静香は美優のちょっとした我が儘を色々聞いてくれた。
我が儘といっても、今日は何が食べたいとか、あのおもちゃが欲しいとかそんな可愛らしい我が儘だったが。
逆に、静香の指図に、美優が少しでも嫌がろうものなら、静香は髪を振り乱すようにして喚き散らした。
そして、そうなった静香は最後に決まって同じ言葉を言った。
「あなたは私と直哉さんの子供なんだから!私の言う通りにしていればいいの!そうすれば何も問題はないんだから!」
美優はそんな静香のことが子供心にとても怖かった。
それでも、機嫌のいいときの静香は優しかったし、美優は耐えていられた。
それに春陽の存在も大きかった。春陽はまだハイハイをしていたような小さな頃から美優に懐いていた。それが可愛くて、美優も春陽を可愛がった。
春陽が五歳の時だっただろうか。
春陽は小さな白猫を連れて帰ってきた。この頃には、春陽が一番信頼してくれ、心を寄せてくれていたのは美優だと自意識過剰ではなく、そう思う。
怯えた様子で母にその子猫を飼いたいとお願いしている春陽を見て、美優は春陽の味方をした。
美優が小学生になって、静香による美優への指図は増えていたが、その分静香に従っているときの美優の我が儘は通ることが多かったからだ。
静香の逆鱗に触れる内容でない限り。
今回のことは大丈夫だったようで、静香は飼うことを許可してくれた。こうして、春陽がダイフクと名付けた白猫が新しく家族になった。
このことがきっかけとなったのか、ただでさえ美優に懐いていた春陽がより懐くようになった。
成長するにつれて、静香の干渉はどんどん酷くなった。
小学校高学年になる頃には、美優は完全に静香の操り人形だったと思う。
習い事や勉強、友達付き合いなど静香の指示通りに動き、静香の嫌がることは何もしない。
静香からの干渉に美優は心をすり減らしていった。でも誰にも言えることではない。何て言えばいいのかもわからない。そうして美優はずっと我慢して生きてきて、我慢することが当たり前になっていた。美優の心が悲鳴をあげていることに美優自身が気づけなかった。
これまで、いつもお姉ちゃんと呼んで笑顔を向けてくれる春陽が、美優の心の支えだったが、春陽が小学生になった頃からその関係も徐々におかしくなっていった。
美優からしてみれば、静香は子供に対しては皆同じように干渉するのだと思っていたのだ。
それが、春陽に対しては何も言わない。その違いが美優には理解できなかった。
けれど美優は、自分がお姉ちゃんだからとか、春陽はまだ小さいからとか、自分は女の子だからとか色々と自分の中で理由をつけていた。そうして納得したフリをしていた。
美優には、あまり食欲がない時でも、ご飯はちゃんと食べなさい、と言って食べさせるのに、春陽には、あんまり食べたくないと言っているからとご飯を少なくしてあげていた。
美優には好き嫌いせず食べなさいと小言を言うのに、春陽には何も言わない。ただ、春陽の分のご飯を出すだけだ。
美優にはテストで百点を取っても、もっと勉強を頑張りなさいと言うのに、春陽が百点じゃなくても何も言わない。
美優が友達と遊びたいと言っても、習い事があるでしょと言って遊ばせてくれないのに、春陽はいつも遅くまで外で遊んでいる。
言い出したらキリがない。
春陽は何でも自由にやらせてもらえて、自分ばかりが静香の言いつけを守らなければならない。
そんな日々が続き、美優の心はどんどん疲弊していった。
自分だってもっと遊びたい、自分だってもっと好きなことをしたい、そんな気持ちが強くなっていった。
そして、春陽が小学三年生、美優が五年生のある日、直哉もいる前で春陽がミニバスのチームに入りたいという話をした。
いつも外で遊んでいたのはどうやら友達と公園でバスケをしていたらしく、友達がやるから自分もやりたいとお願いしたのだ。
直哉は自分がスポーツが苦手なため、まさか春陽がそんなお願いをするなんてと驚きに目を大きくしたが、それほど興味もないのか、すぐに表情を戻し、やりたいことをやればいいと了承した。
今ならわかる。
直哉が気にしているのは世間体ばかりで、子供のことにそれほど興味を持っていなかったということが。
また、子供心に静香はどんな反応をするのだろうか、とちらりと見て美優は身体を強張らせた。このとき静香は、直哉に対して我が儘を言ったことに怒っているのか、恐ろしい形相で春陽を見つめていたから。それでも直哉が許したことだからか、結局静香は何も言わなかった。
こうして春陽はミニバスのチームに入ることが許された。
美優はそのときの絶望にも似た気持ちを今でも覚えている。
なぜ、春陽ばかりがやりたいことを自由にできるのか。
自分が友達と一緒に水泳を習いたいと言った時は、静香に、スポーツなんてやる必要はないと一言で断られてしまったというのに。
直哉が今度の休み、家族で出かけようと言った時もそうだった。
これも世間体を考えた直哉が家族サービスをしていると周りに言うための提案だったのだと思う。
その日、美優は友達と遊ぶ約束をしており、そちらを優先したかった。
正直、家族で出かけるよりも友達と遊んでいる方が楽しいからだ。
正直な気持ちは伏せ、なるべく刺激しないように、友達との約束が先にあるから、行くなら三人で行ってきて、と静香に言った。
だが、それは静香に即刻却下された。
美優は泣く泣く友達に謝ってその日の約束を取り消した。
それなのに、当日、春陽がいないのだ。
不思議に思い、静香に聞けば、春陽は友達と遊ぶらしいから、今日は家族三人で行きましょう、と笑顔で返された。
直哉もそれなら仕方ないかと言って特に気にしていない。
美優の心は荒れた。
なんだそれは、と。
春陽の言い分は、自分と同じではないか。
なのに、なぜ春陽だけが許されて自分は許されないのか。
自分はここまでのことをされなければならないほどの何かをしただろうか。
春陽を羨む気持ちはずっとあった。
けれど、それ以上に春陽に対する憎しみが美優の中で芽生え、美優の心は蝕まれていった。
それは日々を積み重ねていく中で、どんどん大きくなり、まだ子供と言っていい美優の限界が近づいていた。
そして、春陽が小五、美優が中一の時に決定的な出来事が起こる。
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