47.破滅へ
ハイドラはずっと憎んでいた。
故郷を奪われた時からこの世界を…
それでも世界の平和を望んだ。
エクレールがいる世界を愛そうと思った。
世界が好きだと、思ってもいない事を思い続けた。
自身を偽った。大嫌いな世界でも好きだと、自身の心を偽った。
そのうち彼の天恵は『飾』から『偽飾』へと変わった。
全てを逆さまに飾る能力。
見たくない世界を見たいと思えるように夢を飾る能力。
彼は勇者となった。護りたい人が悲しまない世界を作る為に…
勇者となって平和な世界を目指した。
他人の苦しみを見ないフリをした。
見たら自分が潰れてしまいそうだから…
だから例え誰かの気持ちを踏みにじったとしても前に進む事に決めた。
世界を平和にしてエクレールが幸せに暮らす為に…
彼にはもうエクレールしかいなかった。
彼女を失えば自身には憎しみしか残らないのを知っていたから…
けれどどんなに頑張っても世界は平和にならない。
王が争いを望んでいたから…争いによる利益を享受する為…
王が憎かった。王を肯定する人間も少しずつ憎み始めるようになる。
そんな王を慕う民も許せなかった。
それでも平和を願った。だから魔族と戦い続けた。
けれど魔族は争いを望んでいなかった。
自分達が武器を構えたから、自身を守る為に相手も武器を構えていた事に気付いた。
自分を守るための武器が、相手を傷つける為の口実になっていた事に絶望した。
だからハイドラは剣を…武器を捨てた。
けれど勇者である為に、その証である神剣は捨てられなかった。
これだけが自身が勇者であると言う存在証明だったから。
勇者であることは辞められなかった。
死ぬまで勇者であり続けないといけない事に彼は絶望した。
ハイドラは自身さえ憎み始める。罪のない者を殺し過ぎた。
勇者である事が魔族から憎しみを受ける原因となっていた。
奪われて失った者が、何も失っていない者から奪い続ける。それを繰り返す。
終わらない憎しみの連鎖に絶望した。
だから『勇者』ハイドラは自身を含めた全てに絶望し、全てを憎むようになった。
彼は自身さえ『偽り』続けた。記憶を…感情を忘れさせる事で…
憎しみを誤魔化さなければ、もう彼自身が壊れてしまうから…
バケモノになってしまうから…
もう彼は世界を愛せなくなった。何もかも分からない…
人間であるかさえも既に分からなかった。
いつしか彼は全てを少しずつ失い始めていた。
幸せも感情も感覚も体を含めた全てを。
それはバケモノになってしまう前に自身の手で終わらせたい願望だったかもしれない。
自滅すれば誰も傷付けずに済むから…
憎んでいても、誰も傷つけたくはなかったから…
………だから魔王の元に命を引き換えに平和の交渉をした。
でも命は無くならなかった。自身に幸せを与えてくれた。
だからイリスの為に命を賭ける事を決めた。
彼女の為に死のうと決意した。
…………
けれど…それさえ無理になった。
バケモノになる自身を再び憎んだ…
誰かが自身を殺してくれる事を願って、彼は全てを閉ざした。
最後まで壊れた道化を終わらせてくれる事を信じて…
ただただ暗闇の中に堕ちて行く。
「そうだ…俺は全てが憎かった。俺達の家族を…親しい人々を奪った魔族も…それをそそのかした王も…
何も知らずに平和を享受し、綺麗事ばかり抜かす偽善者が…
何も出来なかった無力な俺自身も…
見て見ぬフリをしてきた自分が…」
ハイドラは苦しみ始める。まるで思い出したくないものが全てフラッシュバックするかのように…
「世界を平和にする為に俺は大切なモノを失っていき、どんどんバケモノになっていく。」
ハイドラは血の涙を流し続け、彼の周囲に霧の様な黒い邪悪な何かが現れ始める。
「ハイドラ…大丈夫だから…わたしがいるから。」
イリスはハイドラに近付いていった。
そして心繋の宝玉ごとハイドラの手を握る。
(死にたい…殺してくれ…)
不意にハイドラの声が頭に流れ込む。
『禍飾』
ハイドラの体は黒いオーラに包まれる。それと同時にイリスは吹き飛ばされた。
「ハイドラを助けるには…どうすれば…」
イリスは悩む。瞬時に判断しなければならない…
それでもどう助けるか分からなかった。
「俺が苦しんでいるのに、争いを誰も止めようとはしない。
争いは終わらず、罪のない人々がどんどん死ぬ。」
「世界が…全てが憎い…俺自身も…もっと俺に力があれば…」
血の涙はとめどなく溢れ続ける。涙は黒く変色していく。彼自身を黒く染めて
邪悪な霧はどんどん広がっていく。この戦場を覆うように…
世界を覆うかのように…
「こんな醜い世界など終わらせてしまおう…
『心繋の宝玉』よ。俺の魂と引き換えに世界を呪い、全てを閉ざせ!」
『|夢偽怒≪メギド≫』
ハイドラの体は闇に溶ける様に完全に黒く染まった。
黒く染まった彼自身から黒い泥が流れ始める。
泥は大地を覆い、青空をも黒く染めて全てを閉ざした。
辺り一面は光が見えない邪悪な闇へと変貌を遂げる。
まるでそれはこの世から幸福な気持ちが失われて行くような感じだった。
真っ黒の地面から無数の手が伸びてくる。
それはまるで死者の怨念が生者を地獄に引き込むかの様に…
「ハイドラ…止めて!こんな終わりは誰も…」
イリスは正気を失うハイドラを呼び戻そうとする。
「え…?」
イリスは口から血を吐き出した。だがそれが血なのかも分からない。目に見える全てが分からなくなっていく。
全く何も分からない状況だった。
「このままじゃ、他の人達が危ない…」
イリスは周囲の魔力を隷属し、魔力を回復しようとした…
しかしそれが出来ない。
魔力や自分の天恵をどう使うか分からない。
それでも他の人を助ける為に必死に走ろうとする。
いつの間にか転んでいた。上下左右の方向全てが分からなくなっていた。
地面からどろどろの人間が這い上がって来る。
それなのにイリスは何もかもが分からなくなり動けない。
「タスケテ…」
「クルシイ」
「シニタクナイ」
その人間がイリスに触れる。
殺される苦しみ・親しい者を失う悲しみ・憎しみが洪水のように頭に流れ込んでくる。
何人も何人も次々と触れてきた。
苦しみの記憶の追体験をしていた。
(何なの…?これ?)
一言で表すなら地獄。救いが無い暗闇。
自身が思う以上に苦しい地獄。
(これが…『悪夢』…)
ハイドラが言っていた封印した技…
それとは違う気はしたが、恐らくそれに近い技だと感じる。
想像した以上に酷くおぞましい力だった。
ありとあらゆる苦痛がイリス達を襲う。
「ハイドラを止めなきゃ…」
それでも体が動かない。体の感覚がないのだ…
動かしようがなかった。
(動かなきゃならないのに…)
視界も真っ暗で先が見えない。自分が今倒れているのか、立っているかも分からない悪夢…
(イタイ…クルシイ…)
どうしようも無い状況だった。この地獄は永遠に続きそうだった。
(何が…それを使ったら「俺を殺してでも止めてくれ」よ…)
「使ったらもう止める事が出来ないじゃない…」
全てを諦める事にした。その痛みに声を出す事も出来ずにイリスは倒れた。
意識が闇に溶けていった。