30.「俺はお前のモノで」「わたしはあなたのモノ」
「では姉上…任務に行ってきます。」
そう言ってグリフィスはイリスに敬礼をする。
「ハイドラ…無理するなよ?」
グリフィスはハイドラの左側まで動いていき、肩に手を置いて挨拶をする。
「あぁ。」
ハイドラもグリフィスの挨拶に応える。
そうしてグリフィスは城を去って戦地に向かう。
「じゃあ俺達も…」
ハイドラもイリスに次はどこに向かうのか聞こうとする。
「ったく、あの子はわたしに吐く嘘だけは本当に下手くそね…」
イリスは少し困ったようにため息を吐く。その後ハイドラの正面に立つ。
「ねぇハイドラ…正直に答えてね?」
イリスはグリフィスを見送った笑顔から一変。急に真剣な表情になる。
「……どうした?」
ハイドラも真剣な表情でイリスを見る。
「ハイドラ…もしかして右手が動いていないんじゃない?それだけじゃない。右の耳も聞こえていないんじゃないの?」
ハイドラは一瞬体が硬直する。
「いや大丈夫だ。」
「ハイドラ…今私の左手は何を持っている?」
そう言って左手を横に伸ばす。イリスはハイドラの顔を見る。イリスの質問に対してハイドラの左目だけが、イリスの左手に向かって動いていた。
「何も…持っていないな…」
ハイドラはいつも通り淡々と答える。だがその返答でイリスは確信した。
「ハイドラ…あなた今右目も見えていないのね…」
イリスは涙を流した。
「どうして…どうしてなの?正直に答えてって言ったよね?全然大丈夫じゃないよね?」
イリスは膝をつきその場にしゃがみ込む。あまりの絶望感によって脱力したのだ…
「すまない…」
「すまないじゃないよ…ハイドラ…あなたいつからそんな体になっていたの?」
イリスはそれを聞く。
「いつか…話す。」
「ねぇ?そのいつかっていうのは本当に来るの?私は怖いの。このままあなたが何も言わずにどこかに消えてしまうのが…」
「確かに…そんな日はもう来ないかもしれないな…」
ハイドラは覚悟を決めたように一息つく。
「イリス…俺は近いうちに死ぬ。だからせめてこの命を平和の為の礎にするつもりだ…」
「ねぇ?それはハイドラがやらなくちゃダメな事?魔王のわたしだっているんだよ?わたしじゃダメなの?どうして一人で背負っているの?なんでわたしに任せてくれないの?」
イリスは泣きながらハイドラに訴える。彼を想っているからこそ、ハイドラが正直に言ってくれないのが悔しかった。
「俺は世界を平和にする為に力を求めた。そして無力な自分を呪い続けた。その代償によって俺は力を手に入れると同時に、俺を蝕み続けた。」
「じゃあもうハイドラは戦わないで?お願い。わたしがあなたを幸せにするから…お願い。もう無理しないで?死が近いからと全てを受け入れないで?お願い。」
「イリス…あと少しだろ?お前の事を理解してくれる人間の友達が出来た。争いの原因の王は討った。あと少しなんだ。それなら俺も頑張れる。」
「でもそのあと少しであなたが死んだら嫌なの。仮に平和が近いとしても…あと一歩のところだとしても、わたしはハイドラに戦場へは行かせたくない。戦わせたくない。」
「でも俺は……勇者だ…それこそが俺の存在価値なんだ…」
(苦しい…ハイドラと話すのが辛い…)
「だったら勇者なんて辞めてしまえ。平和な世界になれば勇者も魔王も必要のない称号だ。」
「俺は…勇者であり続けなければならないんだ。そうでなければ俺は…俺には帰る場所ももうないからさ…戦場にいることが、俺の存在理由だ。」
「………どうして…そこまで…」
イリスは両手で顔を覆う。涙を隠すために…
勇者には帰る場所も理由も無いとイリスは知った。もう失う物がないのだと分かった。彼を繋ぎ止めるモノは…
(エクレールって子も…)
イリスは越えられない存在であるエクレールを思い浮かべる。でもその彼女もハイドラが遠ざけてしまった。
彼は逃げ道を無くす為か…大切なモノを全て捨てた。
これからも引き返せない道を歩み続ける為に…
(ハイドラを引き留める理由がもう無い…思い浮かばない…)
ハイドラは世界が平和になるまで、もう立ち止まる事が無いだろう。だからこそ『死』に対して恐怖が無く、彼を引き留めるモノは無かった。
「イリス…命令を。世界の平和の為に俺に理由をくれ。お前に俺の命を預けるから…」
(そう、ハイドラに今必要なのは全てを捨てた彼を繋ぎ止めるモノ。彼が帰る為の場所や理由…)
今のハイドラは命綱無しで危険地帯を進むようなものだとイリスは分かっている。だからこそ彼が帰って来れるように繋ぎ止めるモノが必要だった。
(わたしには浮かばない。悔しいけど|エクレール≪彼女≫しか…)
でもエクレールはいない。仮にいたとしても、彼女が引き留める理由は無いかもしれない。
(いいや…どうしてわたしは弱気になっているの?どうして彼女には勝てないと諦めているの?)
エクレールの代わりになる存在が必要だった。だからイリスは決断する。彼女の人生を賭けての…
「分かったわ。ハイドラ…あなたに命令します。」
イリスは涙を拭いて立ち上がる。崩れた顔のままではダメだった。最高に恰好をつけなければならないから。
人生に一度きりのことだから…
(今は彼女を越えられなくても良い。いつか越えられる日がくれば良い。いいえ越える必要はないかもしれない…)
覚悟を決めて真剣な目でハイドラを見つめる。
(だってわたしはわたしだから。)
イリスは決心する。ハイドラを繋ぎ止めるモノが無いなら、自分がハイドラを繋ぎ止める存在になろうと。
『自分がハイドラの生きる理由になろうと』
「ハイドラ、わたしと結婚しなさい。わたしがあなたの生きる理由になるから。」
「は?」
ハイドラは急なイリスの命令に頭がついていけていないようだった。
「ハイドラ…わたしはあなたを尊敬しているし、愛しています。」
「出会ってそんなに経っていないのは分かっている。けれどわたしはあなたを幸せにしたい。もうわたしにとって、ハイドラ…あなたはかけがえのない存在になってるの。」
「だからわたしの傍にずっと一緒にいて下さい。あなたの背負うモノもわたしに背負わせて下さい。」
そう言ってイリスはハイドラを抱きしめる。これ以上は伝えられない。伝えたら泣いてしまいそうだから。
「………」
ハイドラは迷っていた。イリスの言葉に応えるかを…
「俺は…もう長くないぞ?」
ハイドラはイリスを拒絶しようとする。
「それはあなたが思っている事でしょ?あなたの勘違いかもしれない…」
「俺はもう右の半身が思ったように動かない。お前を支えられない。」
「わたしが支えるって言っているでしょう?あなたが支えられないと思っていても、あなたがいることがわたしの支えになる。」
「俺は人間だぞ?魔族のみんなが反対するに決まっている。」
「その時は反対する魔族みんなが敵よ。あなたみたいに魔族なんて捨てて、新しい居場所を探すわよ。」
「俺は…お前を……もう幸せに出来ないかもしれないんだぞ?」
ハイドラの瞳から涙が出ていた。
「バカね。あなたを幸せにするって言ったじゃない?あなたが幸せになる事がわたしには幸せなの。」
イリスの瞳からも涙が出ていた。
「俺は…俺はまだ生きていていいのか?」
「当たり前じゃない。病める時も健やかなる時もお互いに支え合って生きていきましょう?」
ハイドラも左手でイリスを抱きしめ返す。
「暖かいな…俺はまだ生きているんだな…」
「当たり前じゃない…だってわたし達は生きているんだから。種族は違っても温もりを感じる事が出来る。」
「ありがとう。イリス」
「もう泣かないとあの時決めたのに…このままじゃ俺…かっこ悪いな…」
ハイドラはイリスに体重を預けた。そして少しずつだが右腕もイリスの背中に回す。その右手を左手で無理やり掴んでイリスを抱きしめた。
「イリス『お前が欲しい』。俺と結婚してくれ。他は何もいらない。お前がいてくれれば良い」
「はい。」
「俺の生きる理由になってくれ…その代わりにお前の生きる理由になってみせる。」
「はい。」
イリスは泣きながらも満面の笑みでうなづく。
「だってわたしはあなたのモノで」
「俺はお前のモノだから。」
(例え今はこれがハイドラを引き留める手段だとしても…いつか必ず…)
「共に未来へ進もう。わたしは君を離さないから。」
お互いに強く抱きしめ合う。お互い種族は違うが生きている。だから温もりや互いの鼓動を感じる事が出来る。
今が偽りの幸せだとしても、いつか必ず本物の幸せを手に入れてみせる。
そう彼女は誓った。