16.勇者vs魔王の弟
「ふぅ…油断したわね…」
イリスは頬っぺたの傷から滲む血を掬い、それを舐めた。
(ナイフに毒は無いようね?彼女が近づいてくれたおかげで、間近で見て分かったけど…)
(あの首のブレスレットは魔宝具ね…かすかだけど禍々しい気配があった…)
「あの子は思った以上に強い…」
手加減をすればこちらが死ぬ。けれどハイドラの「傷つけるな」の頼みを無下には出来ない…
「気は抜けない…完全に無力化は難しそうね…」
*
「俺は…お前と戦うつもりはない…」
ハイドラは焦った様子でグリフィスに言う。
「じゃあさ…あの女を庇わないでくれよ?そうすりゃまだお前を信じるさ…」
グリフィスはかなり怒っている様子だ。自分を攻撃された上に、姉のイリスにまで無礼な態度を取っている。イリスが止めなければ、彼は冷静になれず容赦なく殺していただろう。
「お願いだ。俺は…どうなっても良い。だからあいつには手を出さないでくれ。」
「そう言って何人もの魔族が殺されてきた。お前らの狡猾さはもうコリゴリなんだよ!!だからその言葉は信じない。」
その言葉はグリフィスにとって地雷の言葉。仲間を失う言葉として聞き飽きていた。
「やるしか…ないのか?」
ハイドラが戦闘準備に移ろうとした。しかし彼の体は動かなかった。
「どうしてだ…体が…」
「俺は大気中の水分を操る事が出来る。つまりは熱を操るのと同義だ。」
グリフィスは大気中の温度を下げて、ハイドラの体を凍らせていた。更にはハイドラに飲ませたクスリのお陰で彼の体は想像以上に素早く自由に動かせなくなる。
「まぁお前の処分は後で下すさ。」
グリフィスはハイドラの制圧は完了したと思い込む。姉が認めた人間へのせめてもの敬意。
「氷流星」
グリフィスは先程の氷の槍とは思えない程の大きさの氷の槍を空中に何本も創造する。その槍はエクレールの方に向かっていた。
「や…め…ろ」
ハイドラは凍えていた。凍えている為、ゆっくりではあるが左手をポケットに入れる。
「さぁ…処刑の時間だ。」
グリフィスはエクレールに全弾命中させるために、魔力をしっかりと操作して狙いを定める。
「間に……あえ…」
ハイドラの左手がポケットの何かに触れた。
『|飾逆≪さかさかざり≫』
その瞬間、グリフィスの背筋を寒気が襲う。ハイドラの方から急に何か嫌な予感がしたのだ。
(なんだ…何をした?)
「だが…もう遅い…」
グリフィスは氷の槍をエクレールの方に飛ばす動作を行う。
しかし氷の槍はエクレールのいる向きとは逆の方向に飛んでいった。それは無数の流星群の様に…
「は?何をした…貴様?」
グリフィスは攻撃が全て当てられなかったことになり、ハイドラを睨む。
「さぁな?」
ハイドラの左手には宝石のような石が握られていた。
「それがお前の魔宝具かよ。2つも持っているんだな?」
グリフィスはハイドラの剣が彼の魔宝具だと思い込んでいた。だから彼が剣に手を伸ばさない限りは攻撃は行わないつもりだった。
しかしハイドラが魔宝具を出した事で、彼がグリフィスに戦意を向けた事とみなした。
「じゃあ…お前がやる気なら、仕方ないけどこっちもやるとしますか?」
そう言ってグリフィスはハイドラに向けて、空中に何本もの氷の槍を生成する。相手の力を伺う為に。
(恐らく勇者の|天恵≪ギフト≫は『全てを逆さ』に認識させる力…つまり俺が向ける攻撃は…)
グリフィスはハイドラに向けて氷の槍を飛ばす。全力ではなく、狙いはしっかりとは定めていない。予想をした結果が証明されればよいからだ。
結果はグリフィスの予想通り。ハイドラとは逆の方に向かって氷の槍は飛んだ。
だがグリフィスはハイドラの方に向かう。氷の槍を生成し携えて…
『|逆飾≪さかさかざり≫』
「あぁ…予想通りだ。」
今度はグリフィスがハイドラとは逆の方に向かう。認識の変化が再び変わったようだった。
先程の宙に浮かせた氷の槍は全力で動かしてはない。つまりコントロールはまだ出来る。グリフィスはハイドラに向かって氷の槍を飛ばすことが出来た。
グリフィスはハイドラから遠ざかるが構わなかった。
「ちっ…」
ハイドラは逆さにした認識を元に戻そうとするが、手遅れの様だった。
「弾けろ」
氷の槍はつぶてになり、雨や雹の様に降り注ぐ。ハイドラに必ず当たるように広範囲を攻撃する。
勿論ハイドラは避けきれなかった。その数は数えきれないほどだった。何個も…いや…何十ものつぶてが雹の様にハイドラに無慈悲に当たる。
「クソ…」
グリフィスのクスリの効果もあり、ハイドラの寒さへの感度は上がっている。そのせいか動きはだんだんと止まっていく。体温が奪われたことによってハイドラは完全に凍り付いた。
「勇者も…意外とあっけないものだな…」
グリフィスはハイドラに背を向ける。速くイリスの手助けをするために。
エクレールの処分はイリスに判断は委ねるつもりだが、姉が傷つかない様にサポートをするつもりだった。
とはいえグリフィスはハイドラと戦いながらも姉のサポートはすでにしていた。
彼は攻撃しながら周囲の温度を下げていた。氷の槍を様々な方向に飛ばした事で、現在周囲の地面は完全に凍りついている。
「姉上はあんな雑魚のどこが良いんだか?」
ハイドラはイリスが認める程の男では無かった。
「…呪え…」
凍りながらもハイドラは呟いた。
「何だ?」
グリフィスがハイドラを振り向く。先程感じた寒気がより強く感じられた。
ハイドラの全身には何か邪悪なオーラの様な物がまとわりついていた。
グリフィスが一瞬で『脅威』を感じるほどの…
「……何だよ…?その力は?」
寒気の正体…それは本能が感じる恐怖…こいつとはやり合ってはならないという、気持ち悪さがグリフィスに必死に伝えていた。
『|禍飾≪マガツカザリ≫』
ハイドラの左手の宝石を中心に、その邪気は全身を覆っていた。
彼の凍りついた体は再び熱を帯び始める。まるで寒さと遮断された空間にいるかのように…
「お前…勇者…なんだよな?」
(勇者ってのは…『超越者』とか『未来視』『|複写≪コピー≫』の|天恵≪ギフト≫を使って、正々堂々とやる奴の事だろ?アイツは…)
グリフィスの勇者のイメージとは真逆だった。ただただ本能が感じるハイドラのおぞましさ…
「……さぁな。」
「凍れ…凍れ…凍れ…」
グリフィスは大気の温度を瞬間的に奪っていく。広範囲程かかる時間は長くなる。だが範囲を限定し人一人分くらいならば5秒もかからない。
本当は限界の絶対零度まで下げるつもりはなかった。ただ本能がそうすべきと伝える。姉の為に彼を殺すべきだと本能が告げていた。
「捻じ曲げろ…」
ハイドラの周りの空間が歪んでいく。ハイドラの姿がグニャグニャしているように見えていた。熱を通さない…つまり別の空間が出来上がっているようだった。
(光をゆがめているのか?これは…いや…その力は…)
ハイドラが太陽からさす光を拒絶しているようだった。
(こいつの魔宝具の力は…空間さえ捻じ曲げている。)
グリフィスは一度一呼吸おき、冷静にハイドラを見る。
「俺が空間操作対策をしていないとでも思っているのか?」
グリフィスは|天恵≪ギフト≫を複数持っている。姉イリスと同じく『重力』を操作する力だ。本来魔族は複数のギフトは使いこなすには時間が必要だ。しかし彼は若くしながら、天性の才能によって擬似的な空間操作まで可能だ。
つまりその対策までは出来るレベルだった。
グリフィスの両手に氷の刃が出来上がる。空間をゆがめる為に、重力の力を纏わせている。これだけで人間の魔宝具に匹敵する武器を両手に持った。
更に大気中には氷の槍や剣、斧を浮かべていた。ハイドラへ確実に攻撃出来るように…
「悪いが…お前には加減はしない…」
グリフィスは本気でハイドラに向き合った。
まずは宙の無数の武器をハイドラに向けて飛ばし続ける。彼の視界を塞ぐ為に…
本命の氷の刃を当てる為に
無数の武器の陰に隠れながら、ハイドラに向かって斬りかかった。彼に纏わりつく不気味なオーラを無くすために…
彼に斬りかかり真っ二つにした。
「悪いな…」
『|夢幻≪むげん≫』
ハイドラはいつの間にかグリフィスの背後にいた。真っ二つにしたと思っていたハイドラに攻撃は全く当たっていなかった。
「別に攻撃が連続して出来ないわけじゃないんだよ!!」
重力操作…それにより体を動かす時は無重力に近づけ、真上から斬りかかる時は剣の重力を重くすればよい。
更に武器を飛ばして周囲の温度を下げ続ける。ハイドラの周囲の空間を斬った後に彼を凍らせる為に
『飾逆』
グリフィスの攻撃はハイドラとは逆の方向に向かう。ハイドラに背を向ける形で…
(油断した筈では無かったのに…いつの間に認識がずらされていた…)
「終わりだ…」
ハイドラは右手でグリフィスの首元に触れる。
その瞬間、グリフィスをとてつもない恐怖が襲った。これまで過ごした大切な日々を奪われるかのように…一瞬で全ての幸せが真っ黒に塗りつぶされる感覚だった…
グリフィスはその場に立ち尽くす。
「…………俺の…負けだ…」
「そうか…」
「俺を…殺すのか?」
「俺はアイツらを止めたいだけだ…」
ハイドラはグリフィスに微笑む。哀しそうな表情で…苦しそうな表情で…
(俺は負けた。こいつは…まだ本気じゃない…)
「完敗だ…」
グリフィスはハイドラに微笑んだ。不本意ではあるが…彼を認めた。
「強かった。さすがイリスの弟だ。」