プロローグ prelude
prelude
不思議な夜だった。
空には満月が煌々(こうこう)と光を放っているのにも関わらず、満天の、溢れんばかりの星々が広がっていた。
天満月といえば夜空いっぱいに広がる朗月を想像するかもしれないが、その夜浮かんでいた月はドス黒い血の様な紅い光を、妖しげに放っている天満月だった。
更に月の周りにはこれまたドス黒い月暈が掛かっており、月に漂う妖しげな雰囲気にいっそう拍車を掛けていた。
それに対して、星々はあんな光に呑まれまいと、その美しい輝きを力一杯放っていた。
そんな空の下に広がる草原に一つの、大きな樹がぽつんと立っていた。
見渡す限りその樹しか立っておらず、不思議なことに物音一つしない。
広い草原には夜空に一際明るく光る、妖しげな月の光でできた影が、ただただ伸びているだけだった。
そしてその樹の根本にはもう少年と呼ぶべきか青年と呼ぶべきかと迷う年頃の男の子が片膝を立て、樹に体を預け眠っていた。
少年の左手には、鞘に収まった一振りの剣が抱えられていた。
まるでそれだけが拠り所だと言わんばかりに、大切そうに抱えていた。
少年はその青銀に輝く純白の前髪を風に揺られ、頬を妖しげな月光に濡らし、穏やかに眠っていた。
少し時間が経つと徐々に少年の前髪を撫でる風が強くなっていった。
空に浮かぶ月には、注視しないと見つけられないほど小さな黒い点が現れる。
徐々にその黒点は大きくなっていき、草原に広がる樹の影は、段々とその影を薄めて行く。
徐々に大きくなる黒点は次第に翼を広げ、夜空を悠々と泳ぐ影へとなっていった。
少年目掛けて真っ直ぐ飛んでくるその影は更に尾を生やし、持ち上げた鎌首の先に頭部を、その頭部には角をと、その姿を顕にしていった。
少年へと鋭い眼光を放つその瞳は絳かった。
しかし蛇かの如く縦に切り裂いた様に細い瞳孔は、まるで靄がかかったかの様に黒く濁っており、一切の心情を映していなかった。
頬を濡らしていた月光が遮られたことに気づいた少年は、ゆっくりと瞼を開いた。
黒い瞳だった。
この世の全てに絶望した、そんな瞳だった。
月光に照らされたその瞳は、何処までも続く無限の闇が広がっているかの様に透き通ってはいるが光を映さず、無気力に、ただ自分と対峙する者と視線を交錯させた。
互いの瞳には一切の光も映っていなかった。
黒い瞳を視界に捕らえながらも、その絳い瞳を一切揺らさず徐に顎門を開くと、鋭い牙の並んだ口腔から熱線を放射した。
熱線は、その黒い瞳に迫る危険に対してもまるで興味がないかの様に身動きを一切取らない少年を、容赦なく焼いた。
一瞬で草原は火の海と化した。
絳い瞳は、樹が燃えていくのを視界の端に映しながらも、視線は少年の方を射抜いていた。
すると火の海の中で、人影がゆっくりと立ち上がった。
絳い瞳がそれを捉えると、再び顎門を開き、熱を集中させる。
更に集中していく熱の前と、翼の背後には、不可思議な紋様がゆっくりと編まれていった。
紋様が組み上げられていく様を、黒い瞳で力なく見つめていた少年は、ゆっくりと、右手を剣の柄へ運んでいった。
完成した模様に向かって吐かれた熱線は、模様を介した瞬間に先程の何千、何万倍にも凝縮され、少年へと放たれていった。
凝縮された熱線が直撃する直前、少年は熱線へと向かって地面を蹴った。
まるで一条の流星かの様に、少年は熱線を切り裂きながら夜空を一閃した。
二度、視線が交錯する。
黒い瞳は、相変わらず何処までも広がる、澄んだ無限の闇を湛えていた。
絳い瞳は、僅かに靄が晴れ、その心情を映していた。
刹那、紅い月を背景に、両者の影が重なる。
剣を振り抜いた状態で、少年は推進力を失い、剣を鞘に収めながら自由落下していく。
三度、視線が交錯した。
己の胴体が己と別の重力に引かれて落ちていくのを知覚したその絳い瞳は、微かに濁っているものの、はっきりと絳い光を放っていた。
このまま落ちれば己もただでは済まないことを、微塵も感じさせないその黒い瞳は、己を照らす絳い光に応える様に、薄らと、金色に輝いた。
三つの物体は衝突直前に速度を失いゆっくりと着地すると、少年はもう閉じてしまった絳い瞳に対して敬礼し、跪いた。
暫く祈ると少年は立ち上がり、地面に不思議な紋様を描いていった。
完成した模様はゆっくりと、今はもう見ることのできない絳い瞳をもった者を、ゆっくりと光の粒へと変えていく。
それは不思議な夜だった。
空には紅い満月が煌々と光を放っているのにも関わらず満天の、溢れんばかりの星々が広がっていた。
その夜空をゆっくりと、光の粒たちが天へと昇ってゆく。
それは400年に及ぶ人類と龍族の戦いの、最後の戦いの火蓋が切って落とされたことを告げる、開戦の狼煙となって夜空に消えていった。
この戦いを区切りに、星は新たな歴史を刻むこととなる動乱の、後に大戦時代と呼ばれる時代が今、幕を開けた。