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二つのカナシミ

作者: 西島地平

モモコは、家のドアを開けて、「ただいまー」と大きな声で言いました。

返事がないので、お母さん、いないのかなと思って、台所にいったら、お母さんが、奥の隅にうずくまって泣いていました。

「ただいま」

モモコが、小さな声でいったら、お母さんは、うしろを向いたまま、小さくこっくりとうなづきました。

モモコは、そっと後ずさりして、そこを離れました。

モモコは、二階の部屋の床にすわって、くちびるをかみしめました。

(おかあ、なくな、おかあ、なくな、わたしが、わたしが、・・)

 しばらくして、弟のユキオが帰ってきました。そして、同じようにそっと二階に上がってきました。二人は静かに待ちました。モモコは小学五年生、ユキオは三年生です。

 秋の夕暮れは、サッと暗くなります。部屋の電気もつけずにじっとしていると、下から「二人ともごはんよー」というお母さんの声がしました。いつもの元気な声でした。

「ハーイ」二人も、大きな声で返事をして立ち上がりました。

 お母さんは、となりのおじいさんのところに行って、帰ってくるといつも泣きました。おじいさんから怒られるのです。その様子を何度も見たことがありました。

 最初にモモコが気づいたとき、お母さんに聞きました。

「お母さん、どうして泣いてるの」

「かなしいからよ」

「何がかなしいの」

「よくわからない」

「わからないで、泣いてるの」

「そう、わからないで泣いてるの、でも、もう大丈夫」

 そう言って、ニッコリ笑いました。

 お父さんは、おじいさんとけんかして、一年半前に家を出ていきました。それっきり一度も帰ってきませんでした。ときどき、子どもたちに品物が送ってきました。差出人は、お父さんの名前ですが、住所はどこかの郵便局でした。鉛筆、色鉛筆、クレヨン、絵具、スケッチブック、筆箱。

 手紙は入っていませんが、子どもたちに会いたい、子どもたちに申し訳ないという気持ちがわかりました。

 ――その品物を選んでいるとき、どんなに胸がいっぱいになっているか。何も連絡しないのは、わたしがおじいさんに聞かれても、何も答えなくていいようにと考えてのことだとわかる。家を出て行くときも、何も言わなかったのも、同じ思いからだったんだ。

 お母さんは、二人が小さい頃から、よく絵本を読んであげました。

「カナシミは、がまんしなければいけないんよ」

お母さんは、二人にいつもそう言いました。そして、何度も何度も、自分に言い聞かせました。

 ――たくさんじゃない、これは一つのカナシミなんだ。多さではなく、このカナシミをがまんできるかどうかなんだ。このカナシミは、がまんしなければいけないんだ。その意味を理解して、乗り越えられるかどうかなんだ。

そう思えば、重たい足を一歩踏み出すことができました。

「悪いことをしたら、カナシミとはいえないんよ」

 お母さんは、二人にそう話しました。

『スーホの白い馬』は、何度も読んで聞かせました。モンゴルの民話で、スーホという男の子が、何の罪もないのに傷つけられ、そして立ち直る話です。理不尽なカナシミが胸を打ちました。

 休みの日には、おにぎりをつくって、野原や山や海に出かけました。朝早く、まだ人通りのない道を、三人で歩いていきました。

「自然を見なさい、花や木や動物、そして山や海や空、どんなに美しくすばらしいものか知りなさい。見えない人もいるんよ、見たくてもかなわない人がいるんよ、感謝して見なさい」

 ――わたしは、お金持ちの人たちに言ってやる、こんなにも美しい自然があるのに、あなたは出かけていかないのか、こんなにもすばらしい話があるのに、あなたは知ろうとしないのか、美しいものを、すばらしいことを、子どもに教えてあげないのか、と。

「二人とも、健康なからだをもらっているんだから、できるだけ動かしなさい、歩きなさい、走りなさい。疲れてもきついとか思わないで、喜びなさい。世界には、からだを動かしきらん人がいるんよ、歩きたくても歩けない人がいるんよ、その人たちのことを考えたら、どんなに幸せなことか」

お母さんは、二人に話しているんですが、最後はうつむいてしまいます。

 ――暑いぐらい、なんでもない、ひもじいぐらい、なんでもない。バカにされても、なんでもない。もう一つのカナシミにくらべれば・・。

 ユキオが、図画で賞状をもらってきました。

「お母さん、ほら」

 お母さんは、一目見て、「おう、すごいね、上手ね」と言いました。?海と砂浜の絵でした、手前にいろんな貝殻が大きく四つ描かれています。

「おじいちゃんに、見せてきなさい」

「あとで」

「いま、行ってきなさい」

「ハーイ」

 お母さんは、ひとりになって手を休めました。一目見て、絵の場所がわかったんです。そこは、お父さんがみんなをよく連れて行ってくれたところでした。

 お母さんは知っていました。ユキオがスケッチブックにお父さんの絵を描いているのを、そしてそれがとても上手で、それがかなしくて。お父さんのことを二人とも口に出しません、それもかわいそうで。お父さんが二人によく絵をかいてやっていました、いろんな動物やマンガの絵がとても上手でした。

 おじいさんの家に親戚が集まると、モモコとユキオは、いとこの子どもたちと比較されました。帰ってきてから、お母さんは二人に言いました。

「いいの、勉強ができなくてもいいの、二人とも、やさしい心をもっているからいいの」

 そして、必ず付け加えました。

「やさしい心は、お父さんが教えてくれたんだからね」

 ――わたしは、『東京大空襲』という番組を偶然テレビで見た。その最後の場面には、火から逃れようと、川に飛び込んで亡くなった人たちが映し出された。たくさんの人たちが川岸にくっつくように浮いていた。その中の、ひとりの学生さんにわたしは釘付けになった。その男の子は、学生服を着て、学生帽をかぶっていた。帽子のひもが首の下にとめられているんだろう、きれいにかぶっていた。そして、まっすぐ上を向いたその顔に、目を閉じたその顔に、ほほ笑みがあったんだ。

 死を前にして、死の最後の瞬間に、何を思ったのだろうか。わたしは、わからない。わたしは、そのカナシミをわからない。

 わたしは、まだ人間のカナシミを知らないんだろう、死に至る、死の前のカナシミを知らない。知ろうともしないで、のんきに遊んでいるんだろう。そして、そのカナシミのそばにあるシアワセも知らないでいるんだろう。

 わたしは、見ることができる、聞くことができる、歩くことができる、そして考えることができる。そのシアワセを、もっともっと知らないといけないんだ。

「モモコも、がまんしなさいね」

「でも、なぜ、お母さんばかり怒られるの、お母さんばかり、がまんしなければいけないの」

「他の人のことは、わからないよ」

 ――がまんしないと、本当の人間になれないと思う、生きる意味がわからないと思う。今のモモコには理解するのはむずかしいけれど、お母さんが、少しずつ教えてあげるね。

「お父さんは、えらかったんよ、がまんして、がまんして、そして自分が身をひいたんよ。お父さんの気持ちを考えたら、お母さんのがまんなんか、ヘノカッパよ」

「なーに、ヘノカッパって」モモコは、ちょっと笑いました。笑ってごまかしたんです。お母さんの話した意味がわかるようだったんです。そしてなにか怖いくらいだったんです。

 ――勘当されたら、お父さんは家族で家を出ただろう。でも、おじいさんはそうしなかった。お父さんは、おじいさんや兄弟から無視された。それはまだ子どもたちに話すときではない。

 モモコは、お父さんが家の前の井戸の横に、バラの木を植えているのを見ていました。お父さんが家を出てから、そのバラの木を見ると、お父さんを思い出しました。

 その細い幹と枝は、たおれそうに立っています。それが、モモコには、バラの木が、がんばっているように見えました。

 ――どうしてわたしが・・、と考えたら、そこで終わってしまう。どうしてわたしが・・、とは考えないようにする。

 つらい、きつい、とは考えていい。でも、そこで終わらないんだ、その中に生きる意味をみつけだそうと考えるんだ。暗中に、光はある。つらければつらいほど、きつければきついほど、すばらしい光をみることができるんだ。

 いま、世界中に貧しい人たちがいることを、いつも思い続ける。わたしは、できない。空腹の人の前で、自分だけ食べることはできない。凍えている人の前で、自分だけ暖をとることはできない。病んでいる人の前で、自分だけ体が丈夫で幸せだと思うことはできない。

 夜、モモコは二階の窓からイカ釣り船の灯りが見えてきれいだといいました。お父さんと見に行ったホタルの話も、よくしました。

 ――カナシミが多ければ多いほど、がまんすればするほど、死ぬことの恐れは少なくなると思う。

 死を前にして、そばに誰もかなしむ人がいなかったら、さびしいことだろう。もし、死ぬ前にそのことに気づいたらどう思うだろう。

 わたしは本当の幸せを知っている。お父さんがわたしのためにしてくれたことを知っている。そして、子どもたちのためにしてくれたことを知っている。自分を犠牲にして、わたしたちのためにしてくれたんだ。

 わたしは、お父さんが帰ってきたときに、何の連絡もなく、ひょっこり帰ってきたときに、(あの人は、たぶんそうするだろう。何日間でも前もって待たせることはしないだろう)わたしは、「お帰りなさい、待っていました」と笑顔で言えるように、元気でいる。いつその日であってもいいように、がんばって生きていく。

 夕食が終わって、モモコとユキオはまだ居間にいました。

「お母さん、カニはどうして横に歩くの」ユキオが聞きました。

「わからない」

「なんでかなー、・・お父さんだったらわかるかなー」

「お父さんだったら、わからなかったら調べてくるっさ」モモコが言いました。

「なによ、お母さんも調べてもいいよ」

「別に、よかよ」

 お母さんは、皿洗いを終わって、お膳の上に小さいケーキを置きました。二人は黙ってそれを見ています。

「二人とも覚えていたの」

二人はまだしんみりして、小さくうなづきました。

「はいっ、お父さん、誕生日おめでとう、どうぞ、元気でいてください。わたしたち三人も、元気でがんばっています」

 そう言いながら、ケーキを四つに切りました。

食べ終わって、お母さんはお父さんの分を二つに切って、二人の皿にのせました。

「はい、どうぞ」

お父さんは、甘いのは食べれんからと言って、お父さんがいるときから、そうしていました。

 ――『マッチ売りの女の子』は、家にも帰れず、空腹と寒さの中で死んだ。でも、アンデルセンは、雪の中によこたわった女の子の顔には、ほほ笑みがあったとかいている。

 アンデルセンは、実際にその女の子を見たんだと思う。そして、童話にして、そのカナシミを伝えようとしたんだ。

 たくさんのカナシミがある、わたしの知らないたくさんのカナシミがある。わたしは、かわいそうにと思うだけで、そんなカナシミを理解もできないし、受け入れることもできないだろう。

 でも、そう思って生きていこう、彼らのカナシミに比べたら、わたしのカナシミは雨粒ほどもないんだと、ヘノカッパだと。

 そして、いつの日か、理解できたら、わたしも死ぬるとき、ほほ笑みをうかべることができるだろうか。

 正月一日、夜になって冷たいみぞれが降り始めました。となりの家に行こうと、三人が外に出たとき、道路にうずくまっているおばあさんを見つけました。となりの家の中からは、親戚が集まって、賑やかな楽しそうな声が聞こえています。

「モモコ、おじいちゃんには、お母さんはちょっと友だちのところに行ってきます、と言ってね」   モモコは、「はいっ」と言って、お母さんがおばあさんを抱えるようにして歩いていくのを、じっと見ていました。

 風が吹くと、木々がゆれる、花が動く。いつもは動かない木や花が、わたしも生きているんだよーって、教えているようだ。


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