寒村 8
岩手県遠野市 環境科学研究機構 環境科学大学校遠野分校舎
「よーしよしよし、ぐっぼいぐっぼい!!」
学校に犬が乱入するというのは全ての授業が中断するくらいのビッグイベントだというのは言わずもがなの常識であるとはいえ、まさか天才揃いの大学校ですらそうだとすればちょっと問題ではなかろうかと思ったが、なるほど見に来てみれば騒ぎになるのも納得の事態だった。
専用の超常戦防護具を完全装備した『Wonderful One』が凛とした立ち姿でそこに立っていたのだ。
毛色と装具に付けられたワッペンからみて翁沢調査員の相棒のカニパン号で間違い無いだろう。今年の探知犬カレンダーでは表紙と三月のページを飾っていたからよく覚えている。
「でもカニパン号がなんで……?」
「かに……え?」
考えられるパターンとしては領域外でも今回の事態を察知して『機構』が展開しており、その中に含まれたカニパン号がなんらかの手法で境界線を超越してきたというものだろうが、それにしたって翁沢・カニパンコンビは探知犬センターでは警備課に属しており、今回のような業務で動員されるのは些か違和感がある。
「あ……なるほど、そういうことか!!」
「あのぉ……さっきから何がなんなんです?」
完全に置いてけぼり状態の梓ちゃんがちょっと声を強めて聞いてきた。
いくらカニパン号が可愛いからと言って彼とばっかりぐっぼいしていてはダメだね、ちゃんと情報は共有しておかないと!
「ごめんごめん! 多分この子は伝令犬だよ……このポケットに……ほらあった!」
そこにはしっかり封印の施されたアルミ製の防水ケースが入っていた。正式な伝令犬用の文書ケースである。
「伝令犬って探知犬となんか違うんですか?」
「違うわけじゃ無いけどね……探知犬の任務の一つが伝令業務って感じかな?」
ありとあらゆる事態に備えてありとあらゆる通信手段を確保する『機構』において準備される通信手段の一つである。
似たようなものでは伝書鳩やら狼煙といった古典的なものも制度上用意されているが、普段それらを使うことはないため、通信担当者や高度情報管理員以外からすると非常に馴染みが薄いものである。
そもそも制度自体が高度な通信システムが完全にダウンした場合、要するに超常戦における先制攻撃を受けた場合や事態が進行して通信インフラが壊滅的打撃を被った場合を想定したものなので中堅くらいの職員だと主要研究所の職員でも知らない者は意外と多い。
中級以上の超常戦課程や超常戦指揮課程及びそれに相当する各種の研修の中で学ぶことになるので梓ちゃんもそのうち勉強することになるだろう。
「とりあえずはちょっと事態が動いたね!」
何しろ完全に通信が途絶していた状態から原始的とはいえどうにか通信に成功したのである。
ケースは情報漏洩防止のために溶接で封印がなされているのですぐには開けられないが、さてどんな感じになっているのやら……
岩手県平泉市 旧藤原文庫 『アーカイブ』
任務部隊『迷子センター』が本部を平泉に置いたのはここにはありとあらゆる『機構』の知識が集約された施設があるからだ。
『旧藤原文庫』
現在は『アーカイブ』と呼ばれる施設である。
その歴史は古く、奥州藤原氏がこの地を根拠とした際に周辺に発生する『事案』に対する知識を収集した事に始まり、代々の武家政権に引き継がれた上でその広大な敷地を活かして東北地方の『事案』に関する知識が集められている。
旧軍の頃には施設を地下化、旧帝都地下坑道とともに帝国政府における『事案』知識を収集した最大の書庫の一つになっていた。
戦後『焚書の五年間』の頃に知識喪失を避けるための意図的な制御不能な事案漏出を引き起こすことで連合国による収奪を防ぎ、1960年代に当時の『機構』によって再び制御化に戻りそれから現在まで東北地方における対事案安全保障上重要な施設として鎮座している。
そのアーカイブ内の莫大な蔵書は、そのほとんどが電子化されていない。
それどころか経年劣化によって判読すら難しいものも多くなっている。
東北統合管理局と本部の事業として電子化作業は一応進められてはいるものの、そもそも上記したような非常にデリケートな状態の古文書ばかりであり、また替えの効かない重要な情報の記されたものばかりであるためその作業は遅々として進んでいない。
そのため必要な情報は人の手によって探し出す必要がある。
普段であればこの施設の専属の司書がその任にあたるのだが、今回のような急ぎの案件の場合研究室人員が駆り出されることは決して珍しいことではない。
ただ、多く駆け回っている3部系職員や茅野研究室スタッフは古文書の扱いにも探し方にも慣れているが、千人塚研究室の面々はそうではない。
何しろ彼らの上司は歩く古文書のようなものであり、その膨大な経験と知識は並大抵の『事案』対応においてアーカイブの知識に頼る必要すら生じさせないほどであるからだ。
だが、生憎と今回の案件において千人塚博士の力を頼ることはできない。
それ故に彼らは茅野博士と共に薄暗い地下室で無限にも思える量の古文書を漁るという業務に従事する羽目になっている。
「空調が効いてるのがせめてもの救いですが……私たち向きではないですね」
「まぁ……ははは……」
ひどく疲労した表情の川島調査員に猪狩医療研究員が曖昧に笑って返す。
研究職種職員や医療研究職種職員であればまだしもこの研究室の直協職種職員は極端に肉体派である。
「それにしても……手掛かりが出てきたのはいいですけど余計訳のわからないことになりましたね……」
それは予期せぬ事態の前進についてのことだ。
ダメもとで行ったあらゆる手段での通信手段の検討の段階で、多数の伝令犬・伝書鳩のうちのたった一頭の伝令犬のみが境界線を突破した事態
どのような理由で当該の伝令犬のみが境界線を突破し得たのか、その理由を伝承の方面から探り出すために彼らはアーカイブにやってきているのだ。
「せめて藤森が残ってくれていれば多少楽だったんですが」
「それに関してはまぁ……彼女にしかできない仕事がありますからね」
諏訪大社との有力なパイプである藤森調査員はかの大神の持つ知を求めて諏訪に戻っている。
古文書調査に関して言えば千人塚研究室随一の知識と技能を持つ彼女がいないのは彼らにとってかなりの痛手ではあるが、従事する業務の重要性を鑑みればそれも致し方ないことだとは思うが……
「まぁ……できる限りのことを進めていきましょう。どのみち私達駒要員にできることはこれぐらいでしょうから」
「そうですね……静代さん達が早く進めてくれるのを期待しましょう」
岩手県宮古市 国道340号線近傍 仮設OP340D
国道から少し離れた地点に設営された仮設OP施設、ここは先の領域侵入を果たした探知犬のケースから事態の再現性を検証するための施設だ。
現在この場所には本案件に割り当てられた特定調査員と各種の実験動物が集中投入されて各種の調査を行っている。
加えて六ヶ所村医療研究所からのチームを含めた大規模な医療チームが領域への侵入を行うことのできる生物とそうでないものの差異を徹底的に調査している。
『静代さん、そろそろ休憩にしましょう』
「……まだ大丈夫です。まだいけます!」
『あなたが大丈夫でもこっちが大丈夫じゃないの。次の実験の準備もあるから大人しく戻ってきてちょうだい』
「……わかりました」
茅野博士との通信を終えた佐伯静代は簡易的な防護シェルターの外に出た。
彼女の役割は精神エネルギー投射による被検体の超常変異の誘発と純粋な空間干渉による障壁への干渉実験である。
その業務の特性上精神エネルギーの大規模発振を伴うものであり、長時間継続してのこの種々の実験は彼女の心身に多大な負担を強いるものであった。
現代最強のPSIである彼女の力を持ってしても受容体の許容限界を超えた余剰エネルギーが粘膜を破壊して出血を伴う精神エネルギーによる自家中毒の様相を見せている。
既に限界を超えている彼女ではあるが、それでも無理を推してでも実験の継続を急ぐのは偏に遠野市に取り残された博士の身を案じてのものであった。
それは千人塚博士の過去を限定的にとはいえ知っているが故の思い
神々に、人に、敵に、味方を名乗る者に、裏切られ虜にされ、その悠久の人生の中で博士が幾度も経験したもの
状況こそその時とは幾分違ってはいるが、それでもESPによる高度な精神感応をもって『観た』が故に現状が博士にとってあまりにも耐え難いものであることは容易く想像できるのだ。
必死さと焦りが入り混じり、まるで幽鬼のような表情で歩く彼女の姿に他の職員達も避けるようにして道をあける。
そんな彼女の前に一人の研究員が立ち塞がった。
「静代さん、あんまり頑張りすぎると博士に怒られちゃいますよ?」
「え……小笠原さん……?」
「もう、ちゃんとメリハリつけた仕事をしないと! 博士がいつも言ってるじゃないですか」
自分を完全に棚に上げた発言をする彼女の同僚は呆れたような表情でそこに立っていた。
「な……なんで……」
「なんでも何もないわよ……私達がどれだけ言ったって静代さんいうこと聞いてくれないじゃない」
そこに茅野博士もやってきた。
「仕方ないから無理言って調布からわざわざきてもらったの」
「そういうことです!!」
果たして超過労働を諌めるのにこの人選は適正なのか……そのことに多大な疑義は生じるものの、それでも研究室の先輩であり良き友人でもある彼女の姿を目の前にして、肩の力が抜けていくような、そんな感覚を感じていた。
岩手県遠野市 環境科学大学校 遠野分校舎
カニパン号の来着は私達にとって事態の打開に向けた大きなヒントになったことは言うまでもない。
そもそも『マヨイガ』の伝承にしても『巨頭オ』のネットロアにしても当該の領域に迷い込んで出てきた人間がいるからこそそれぞれの話が残っているのだ。
出入りできる人物やらそれ以外の生物やらとそれ以外の差異を見つけ出すことができればこの領域に生じている超常的特性の機序の解明に役立つだろうし、仮にすぐにそれをなし得なかったとしても確実に出入りできる伝令要員を確保できるとなれば内外から事態の究明を進めるのにも役に立つだろう。
カニパン号が持っていた文書は『機構』の配置が記された国土地理院の地図と任務部隊『迷子センター』の編成や当面の方針などが入った可搬記憶媒体だった。
任務部隊のネーミングセンスに今更どうこう言うつもりは無いが、それでも名前からは予測もつかないほどの豪華な布陣である。
茅野博士がうちの子達を伴ってこちらに来ているというのは非常に不安ではあるが、それでも心強いことに変わりはない。
というわけで『巨頭村』にて過去に領域への侵入を果たした生物や人物についての調査を終えた私達と学生の一団は大学校に戻って今後の活動について話し合っていた。
みんな非常に熱意があってとてもよろしいが、無軌道な情熱は正直非常に疲れる。
一度休憩を挟んで会議室に戻ると疲労の種である三馬鹿トリオの姿が無くなっていた。いや、正直ありがたいとは思うがどうしたんだろう?
留守にするのならば今のうちに時間のかかりそうな話し合いは済ませてしまった方が良さそうだ。彼らがいたら三倍くらいは時間を取られてしまう。
「博士!! お時間よろしいでしょうか!!」
そんなことを考えていたバチが当たったのだろうか? 話し合いを始めようとした途端にこれだよ……
「よろしいわけないでしょうが……ほれ、参加すんならさっさと座る!」
何やらとんでもない量のケーブル類を台車に乗っけて引っ張ってきているようだが……
「今度は何を持ってきたのさ……」
「よくぞ聞いてくださいました!!」
あ、これ聞いちゃダメなやつだな……
「言うなればこれはイノベーションの最先端! 今までの3部系研究とは一線を画す新時代のアプローチです!!」
案の定全く中身のない修辞からはじまった大仰な説明だ。
しかしそのスタートがまるで太古の英雄叙事詩かの如く煌びやかな始まりを見せはしたものの、なるほどここまでのカリキュラムを優秀な成績で納めてきているのだという彼らのその才が本物であることはその内容からも十分にわかるほどに筋道だった、それでいて確かに現状を打破しうる可能性を感じさせるイノベーションであることはまず間違いがない。
「なるほどね……まあとりあえずはさっきのフィールドワークのデブリーフィングをするから片してもらおっか」
「そ……そんな……」
「博士ならわかって下さると……」
「よそう……俺たちの研究なんて……くっ……」
ああもう分かりやすく暑苦しいしとんでもなく早合点だ。少なくともコミュ力重視だという表の世界の研究職にはつけるタイプじゃなさそうだ。
「とりあえずちゃんと聞きたいからデブリーフィングが終わるまでに可能な限り準備を進めといて? どうせ突貫工事でやったんでしょ?」
「博士……!」
分かりやすく表情を華やがせた三人はそのまま台車を勢いよく押して去っていった。
クラッシュしたような音と悲鳴が聞こえたがまあ大丈夫だろう。
「さて、イノベーションはもちろん大事だけど一つ一つのデータを検討してくのも大事なお仕事だからね……こっちはこっちで始めよう!」




