祭祀 4
江戸を出でて再び私達が伊奈の山奥に身を隠したのは思えば懐古の情に突き動かされたが故なのだろう。
穏やかで満ち足りた春近での日々は私の心にも、彼らの心にも何事にも代え難い大切な思い出として残ってくれているのだ。
「どうなさいましたか?」
「ふふっ、いえ……少し思い出に浸っていました」
当代の彼は未だ年若くとも、胤社の記憶をかなり色濃く受け継いでいる。
そんな彼と出逢う事が出来たのはまさに僥倖と言って良いだろう。
この地で過ごした日々、隠善党の手で代々の胤社を集めていた頃ですら、当代の彼ほどの者はいなかった。
「懐かしい……それが正しい物言いなのかは分かりませんが、某も好ましく思っております」
「それはこの地が? それとも私が?」
彼の膝に手を置き、頭を肩に預ける。
顔を赤らめて慌てているのが愛らしい。
「いきなり何を……」
「ふふっ、若様があまりにお可愛らしいので」
これだけで、ただこうしていられるだけで……全てを投げ出しても良いとさえ思える。
「ねえ……若様」
「はい」
「私と逃げては下さいませんか?」
「逃げているではありませんか」
「ここではいずれ遠からず見つかってしまうでしょう。その前にもっともっと遠くへ……幕府も朝廷も手を出せぬほど遠くへ」
伝手や心当たりならばいくらでもある。
蝦夷、清、露西亜……少し遠いが天竺だって構わない。
彼がいてくれるのであればどこであれ私は……
だが、彼は首を横に振る。
「巫女様にそう言っていただけるのは嬉しく思いますが……某は胤社です。いくら今この時貴方と地の果てへ逃げたとて、いずれはこの地に戻ってしまう。それも大切な貴方を遠い地へ残したまま、たった一人で」
「ならば別れの度に迎えに参ります」
「今でさえ、隠善の手の者達が総出でようやくといった有様なのです。それはこの地で貴方や片切殿と過ごした日々も同じだったでしょう?」
優しく諭す様な声音
分かっている。彼の言葉は正しい。
それでも私は幕府の天文方番所の、彼は朝廷の陰陽寮の逃れ者である。
諸藩の脱藩浪人のように……というわけにはいかないのだ。
幕府は私の行方を追っているだろうし、陰陽寮とて事態を把握するのにそう時間はかからないだろう。
いくら隠善党が付いているとはいっても、公武の追っ手から逃れ切れるものとは到底思えない。
仮に、今何事も無かったかのようにそれぞれの日々に戻れば、仲の悪い天文方番所と陰陽寮によるよくある小競り合いということで終わるだろう。
足立舟山を斬り損ねた若様も、容易く虜になってしまった私も多少上役から小言を言われこそすれ大事になるような話ではない。
そうするのが最も正しい選択だということは分かっている。
「いやだ……もう独りにしないで……」
「まったく、これではあの時と真逆ではないですか……」
呆れた様に言いながらも彼は私を確とかい抱いた。
「幸い今は天下泰平の世、会いに参りますよ、何度でも」
陰陽寮の密偵である若様は約束を違える事なく何度も何度も江戸までやって来てくれた。
二月か三月に一度、鹿島神宮へと向かう道中の短い逢瀬はこの数年私の生き甲斐になっている。
二人で伊那へと逃れた日々は双方役儀上の不手際として内々に片付けられ、最早慰みの噂話にすら挙がることは無くなっていた。
そもそもが朝廷では名の知れた『火国惣夜比売』である。
今や御伽噺の類になってはいるものの、皇祖皇宗幾年幾代に渡っても終ぞ害する事の叶わなかった相手である。
同じく御伽噺の『胤社』とて、相手が悪かったと土御門家や帝も納得してくれたそうだ。
私の方はといえば、そもそも戦う力を持たないことは公方様から茂吉親分に至るまで皆知っているので、生還を喜ばれこそすれど叱責される様なことも無かった。
今や全て元通り
陰陽寮にて隠善党達密偵の元締めの役目に就く『胤社』
天文方番所の学者たる『足立舟山』
どちらもキナ臭さを纏ってきた世の中にあっても優秀で枢要な者達であるとされている。
まさかその二人が裏で通じているなどとは誰も思いもしないだろう。
片や累代片や永年尽くしてきたモノを裏切った理由が男女の色恋などという生臭いモノだなどと誰が気付けるだろうか?
「舟山先生、どうなさったんで?」
「どうって何がだい?」
「いや、女装なんぞして……気でも触れたんで?」
「親分、君は相変わらず失礼だね……」
いつの間にやら戸口に立っていた茂吉親分
「はっはっは、こいつぁ申し訳ねえ! 近頃ぁ舟山先生が板についてて忘れとりました」
「まったく……それでどうしたんだい?」
今日は互いに御役目は無いはずだ。
私はこの後若様に会う予定だし、親分は親分で一日賭場にいると聞いていたのだが……
「いや、町方連中と伊賀者が騒がしいもんで様子を見に来たんでさ」
「ありがたい気遣いだね、私の方は平気さ」
相変わらずの義理堅さである。
その性根は幕府が倒れた後も変わること無く、彼の葬儀にはとても多くの人が集っていた。
しかし、妙な話でもある。
捕り方役人はさておき伊賀者までというのはどういうことだろうか?
知れた事だ。そう、私は事の顛末を知っている。
これは記憶だ。まるでリアルタイムで経験しているかのように鮮明なモノではあるが、これは過去の記憶だ。
嫌な予感がする
その予感は当たっている
私は乱暴に短筒を懐に押し込むと親分の静止も聞かずに走り出していた。
当時の意識と現在の意識が並行に存在しているかのような感覚。
これは夢だ。自覚したところでまるで映画を観ているかのように進んでいく情景
大丈夫……大丈夫だ。ただの取り越し苦労にすぎないはずだ。
何年も無事に過ごして来たじゃないか
一時停止も出来なければ途中退出も許されない。
観たくない結末が待っている事を思えばこれは拷問にも等しい
それは酷い有り様だった。
辺り一面に傷を負った者達が転がっている。
息が無い者も十人やそこらでは効かないだろう。
何が起きているのか、この時の私は既に理解していた。
ただ、その答えを拒絶して望む答えがこの先にあるのだと自分に言い聞かせる様にただ歩を進めていっていたのだ。
やっているのは単なる現実逃避にすぎない。
途中誰何してくる捕り方に私の役儀を示す数珠のついたなえしを見せながらたどり着いた先にあったのは無残な姿で横たわる若様と隠善党の面々の亡骸だった。
彼の命を図らずも奪ってしまったのはこれで何度目だったろうか?
手に掛けたのはここにいる公儀の役人の誰かだろうが、その切欠を作ったのは他ならぬ私である。
膝から崩れ落ちるのをどうにか堪えてその場を後にする。
何で? どうして? 頭の中を埋め尽くす幾つもの問いはそのたった一つでさえも答えを得ることはない。
ただ揺らいだ感情の発揚に頭が追い付かない。
その事に思い至るのはもっと後、冷静にこの時の事を振り返る事が出来るようになって以降の事だ。
景色が切り替わる。
ここはレイスの隠れ家だ。
目覚めたという事だろう。
普段の寝起きを思えばとんでもなくスッキリとした目覚めである。
クリアな思考は嫌でも先の鮮明な夢を思い出させてくる。
正に最悪の目覚めだ。
「おいっ! レイスしっかりしろ!」
「セブン! 手を貸せ!」
ベッドの上で気が触れたかのように暴れまわる私とそれを必死に押さえ込もうとする見たことの無い男……声の感じからしてナインという奴だろう。
蹲るレイスの顔の下にはかなりの量の血だまり……セブンはそこに付きっきりのようだ。
私は未だ夢の中にいるのだろうか?
並行した二つの意識
片や狂乱のただ中にある意識
片やこの風景を俯瞰して観測している様な意識
さっきまで観ていた夢とよく似た演出である。
箍の外れた身体は思いもよらない程の力を発揮するもので、暴れる度に骨が折れ、折れた骨が肉を突き破り、激痛が狂乱に拍車をかける。
夢であるのならば、せめて痛みは感じないようにするのがマナーであり、常識というモノだろう。
「くそっ! ナインしっかり押さえといてくれ」
「何を……おい待て! クスリ抜いてる最中だろ!」
「言ってる場合か! こうなったらそのまま客に渡すしかねえだろ!」
セブンが片手に大振りのノコを、もう片一方の手には見覚えのある自動注射器をもって私の方に歩み寄る。
なるほど、何をしようというのか大体は予想がついた。
うん、痛みという情報は俯瞰で思考するこの意識にも共有されているから勘弁願いたいモノだが、生憎とこの意識には身体の制御に関する権限は無いようだ。
命乞いも交渉も出来ないのではどうにもならない。
せめて身体を支配している絶賛発狂中の意識が正気に戻ってくれれば良いのだが、そう上手くはいきそうも無い。
他人事の様に眺める風景と己が事として感じ取れる鈍い痛み
切断面に突き刺された注射器から流れ込んだ例の薬がその効果を発揮して私の意識を奪ってくれたのがせめてもの救いかーー
「起きたか?」
「ああ、済まない。迷惑をかけたね」
「気にすんなよ、お互い様だろ?」
「それで……状況は?」
「外に関しちゃ変化無し、例の博士は手が着けられなかったんでクスリを使わせて貰った」
「そうか……うん、最良の判断だと思う」
「クライアントが来るまでに目を覚ましてくれれば良いんだけどな」
「最悪そこは大丈夫だよ、あくまでも依頼内容は身柄の保護だ。五体満足で生きていれば文句も無いだろうさ」
「それなら安心だな」
「……なあ、セブン」
「どうした?」
「ありがとう、ここまで付き合ってくれて」
「水くせぇな、相棒」
「たまには口に出しておいた方が良いかなと思ってね」
「サダコ以来何回言われたかわかんねえけどな。まああれだ! 今回こそお姉さん見つかると良いな」
「見つけてみせるさ……もう私達姉妹だけの問題じゃ無いからね」
「あんまり気負うなよ?」
「気負いもするさ」
「ったく……まあいいか、明日は早いんだ。ちゃんと寝ておけよ?」
「ああ、そうさせて貰うよ。おやすみ、セブン」
「はいよ、おやすみ」
「だから海苔はマストなんだってば!! ん……?」
なんだろう……家系ラーメンについて激論を交わしていた様な気がするが、ここは……?
いや、違う。
ここはレイスの隠れ家だ。
だとするとあれは……夢?
ここ最近観続けてきた鮮明な過去の記憶では無いもっとボンヤリした取り留めの無い情報の羅列
本来あるべき形の夢
いつも通り最悪の寝起きも含めて元通りの目覚めだ。
うん、二度寝するか……いや、まずは目の前で目をまん丸くしている彼女から可能な限り情報を引き出すべきだろう。
そう、べきなのだ。
べきなのは分かっているのだ!
ただ、掛け布団の魔力というのは抗いがたい程に強力である。
朝の掛け布団の持つこの力は最早事案的特性と呼んでも過言では無いだろう。
飛び起きた拍子に撥ね除けてしまった掛け布団を再び身体に乗せている間に、件の女は大慌てで部屋を出て行ってしまった。
まあいい、想定内だ。
そもそもDS調査員でも無い私に上手いこと情報を引き出す技能なんて無いのだから、今はとりあえず流れに身を任せておくのが吉だろう。
うん、おとなしくお布団にくるまって状況を整理しよう。
見覚えの無い人間がこの部屋の中に居た理由について考えられるパターンは概ね三つ
一つはレイス一味の別の構成員というパターン
少なくとも10人はいるだろうあの一味の事を思えばありうる話だ。
私が認識しているレイス、セブン、エイト、ナイン以外の構成員は完全に未確認である。
一つは補充の人員というパターン
覚えている限りレイスはかなりのダメージを受けていた様なので、死なないまでも病院送りになっているのでは無いかという推測だ。
1つ目と概ね一緒ではあるが、こちらは多分にそうであってくれたら嬉しいなという希望的推測に満ちたものである。
テロリストの不幸みたいなもんはいくらあっても良いですからね!
この二つならば現状維持だ。嬉しくも無いが問題も無い。
最後の一つは『依頼主』への引き渡しが済んでいるというパターンだ。
セブンの口振りから考えてもこれが一番可能性が大きい様に思われる。
窓の外に見える植生からここが国内であることはほぼ確実だが『依頼主』の属する団体によっては海外に移送されてしまう可能性も十分にあり得る。
そうなれば『機構』も迂闊に手を出せなくなってしまうだろう。
可能な限りここに留まっていたいものだが……
考えるべき事を色々考えていると部屋の外が騒がしくなってきた。
まあ色々考え込んでいても仕方が無い。
なにせ情報があまりにも少ないのだ。
掛け布団を退けて半身を起こす。
『依頼主』にせよ、レイス一味にせよ、現状を理解するには情報収集をせねばなるまい!
ドアを開けて部屋に入ってきた一団、見るからに修羅場慣れしていそうな連中を確と見据える。
統一性の無い服装はレイス一味と同様だが、彼らのように溌溂とした雰囲気は無い。
何処となく薄暗狂気を宿した瞳……『依頼主』かな?
「お目覚めになられましたか? 火国惣夜姫命」
「あなたがこの件の首魁でしたか……玉名監理員」
前に出て来た玉名監理員の姿に聞こえよがしの溜息を吐く。
信頼できる仲間だと思っていた相手が裏切り者だとは……この件の私の選択は裏面にしか出ていない。本当に情けない。
「四宮にでも誑かされましたか?」
「そう思われるのも無理はありませんな……ただ我等久能氏族、貴方様への忠誠を無くしたことなど一度たりとも御座いません」
「久能……」
なるほど、そういうことか……
黴の生えた古い記憶の次は苔生した古い信仰ときなさったもんだ。
「火国惣夜姫命、お助けに参りました」




