祭祀 2
「巫女様!」
「ああ、若様……そんなに慌ててどうなさったのです? 転んでしまいますよ?」
山奥にある私の住まいに毎日足繁く通ってくれる。
それはとても幸せな事であると同時に、己の浅ましい生き方をまじまじと私に思い起こさせるものでもある。
今となってはそう思うことが出来るものの、当時の私はただ只管に、盲目的にその幸福と平穏に身を浸していた。
社を出で、数世を経てようやく手にしたこの日々は私の人生においては珍しく苦悩から解き放たれたよき日々であった。
それでも世は戦国乱世、芦原中国を覆うように垂れ込めた戦雲は未だ晴れ上がる気配すら微塵も感じさせない。
私が身を寄せている伊奈の国人の家も小笠原家の元で日々戦に明け暮れている。
いや、もとよりかの清和源氏の流れを汲む鎌倉御家人の一族である。乱世にこそ心躍らせるのは当然と言うべきかも知れない。
そんな武偏の者達であればこそ私が身を寄せる事も出来たのだが、今となっては代々見守ってきた可愛い孫の様な者達であり、同時に大切な友人達でもある。
一所懸命は結構な事だが、見守る身としては不安で仕方が無い。
「巫女様……戦になるというのは本当ですか……?」
「戦であればそこら中でおきておりますよ?」
「そうでは無く……! 小笠原様の治めるこの地に武田が来ると隠善とお屋形様が話しているのを聴いたのです!」
武田……甲斐源氏の惣領で国人衆を纏めているとは聞くが……
「生憎と世俗の事には疎いのです」
古くより奇病が蔓延し、まともに米も取れない甲斐の侍が豊かな信濃を欲するというのは有り得る話だ。
しかし、数多の国人衆がその牙を日々研ぎ澄ますこの信濃である。
いくら何でも一つの旗の元に纏まる様な土地柄では無い。
おまけに甲信の国境にはあの諏訪がある。
タケミナカタが人の営みに干渉する事は無いだろうが、大祝に率いられたあのあたりの地侍達の結束は固い。
武蔵やら常陸やら上野やらを背にして攻め上れるものとは到底思えない。
「ですが、ご安心下さい。いくら武田が恐ろしくともこの伊那谷まで来ることなどあり得ませんよ」
不安気な表情の彼を膝に座らせて頭を撫でてやる。
川向かいとの小競り合いこそ多いが、この地は概ね平穏である。
幼い彼が不安になるような事は起きようはずが無いだろう。
少なくとも、この時の私はそう思っていたーー
積み上げてきた平穏な日々は予期せず崩れ去るものだ。
今まで費やしてきた諸々等気にも留めず、無遠慮にそれはやって来る。
不条理だと世を恨めど、それが何を変えることすら無い。
弱さが、我が身の矮小さが罪だというのなら納得も出来よう。
ならば私は生来の咎人だ。
それ故数多の罰を受け、また新たな罰がこの身に降り掛かろうとしているのだ。
厭世の感を抱けども、朽ちぬ身をもっては単なる思索の遊びに過ぎない。
ならば小さく弱き身であれど何かしら大切な人々のために出来ないものであろうか?
「お顔を上げて下さい、源七郎様」
一帯を治める嫡流家の当主から知恵を借りたいと言われたものの、戦事にはとんと疎い身である。
力になりたいとは思えど、然したる案は浮かばない。
「大文字一揆の折、我等一族郎党をお救い下さったあなた様のお知恵を再びお授け下さい」
「私に言える事など……それこそ貴方達に少しでも長く健やかに生きて欲しいということしかありません」
「あなた様が我等を慈しんで下さっておることは重々承知しております。卜占をもって我等を守り育んで頂いておる事も……それと同じように我等は家祖為基公より受け継いで来たこの五郷を守って行かねばならぬのです」
所領は武家にとっては命にも等しい
いや、彼等にとってはそれ以上の価値がある。
先祖代々連綿と受け継がれてきた地縁はそれそのものが祖先に対する信仰と崇敬と呼ぶに値するほどに……
伊奈に身を寄せて流れた幾年の中で、この春近の地に新たな家という名の地縁が生まれた様を、私を快く受け入れてくれた彼等の顔を思い出す。
累代の当主、家人の皆、田畑を耕す百姓衆……
精悍な信濃人らしい気性の激しさこそあれど、皆気持ちの良い子達だった。
己の意思で一つところに留まり、己の意思で彼らとの縁を育んで来た今となっては彼らの気持ちはよくわかる。
思えばここまで他人のためになにかを成したいと思うのはこの芦原中国に大和の皇統が生まれ出でて以来無かったかもしれない。
「懐かしい……源八様……思えば為公様の頃よりあなた方と共にあるのですね……」
「我等にとっては貴女様は御諏訪様等より尊い大神様であると心得ております」
「まったく……源七郎様は幼い頃から変わりませんね……その様な不敬は言うものでは無いと何度申し上げたら分かって下さるのです?」
「はっはっは、いやはや敵いませぬなぁ……しかし久し振りに貴女様とお会いできて覚悟が決まり申した。この身が果てようとも甲斐の不敬者などこの地に近寄らせませぬ」
そう言って立ち上がった源七郎様は諦念にも似た覚悟を宿した瞳をしていた。
幾度も幾度も見てきた悲壮な瞳だ。
「これからどうなさるおつもりですか?」
「小笠原様のお城に籠り最後の一人になるまで戦い抜いてみせますとも」
「そう……ですか……」
家祖以来見守ってきた……幼い頃より見守り続けてきた。
知恵を借りたいと言って来たのも恐らくは方便
源七郎様は私に今生の別れの挨拶に来てくれたのだろう。
絶望的な合戦に望む度に、彼等はいつもこうして訪れてくれる。
その事が嬉しくもあり、こんなことになっているのが悲しくて仕方がない。
戦に赴く子を見送る母というのは皆こういう気持ちなのだろう。
「……そういえば、為公様の御家は甲斐源氏より分かれたのでしたね」
「ええ、そう伝え聞いておりますが……」
それならば……私は筆をとる。
武田の軍が迫り、信濃衆の意志が徹底抗戦に定まったのならば……
「その時はこの文をお読み下さい」
あくまで授けたのは方針
源七郎様の動きによっては数多の信濃の侍が死ぬことになる。
それでも、私にとって大切な彼らの命だけは……彼らにとって大切なこの春近の一所だけはきっと守り通せる事だろう。
畢竟、命そのものの価値など薄紙一枚にも満たないものだ。
多くの人々と出会い、同じく多く見送ってきたからこそ確信をもって言える。
今や誰一人覚えていない王の名、それぞれが超常の力を持ち国を導いた十一人の巫女、そこに咲いた徒花が齎した大いなる災禍……
今代の戦乱など及びもつかぬほどに混迷を極めたあの時代の事すら、誰一人覚えていないほどである。
なればこそ、吹けば飛ぶほどの人の命に価値を見出だすのもまた人なのだろう。
手前勝手な理屈、手前勝手な感情……
端から見れば何の価値も無い路傍の石ころであれ、それを至宝の如く愛おしむ者が居るのならば、当人にとってそれは紛れもない宝であろう。
一人であれば狂人の戯言とて、大衆の同意を以て受け入れられた価値観は即ち種の価値観そのものだ。
命、領地、銭……
皆等しく尊く、皆等しく賤しい
帰って行く源七郎様を見送りながら思う。
私の胸中にある決意は、そこに至った価値観はそのいずれであろうか、と
正しく人の物であろうか?
それとも狂人のそれであろうか?
「どちらであれ、構うことはありませんね……」
未だ揺れ動く心を押し固める様に口に出す。
そも、正しく人であろうとするにはこの身は些か道を踏み外し過ぎている。
私の心がどうあれ、私の宝は既に定まっている。
源七郎様を見送った後、若様と隠善の惣領と向かい合う。
あれから一刻ばかり時を置いたのは、未だ心が定まりきらなかったからだ。
なんとも情けない話だ。
これだけ長く生きてなお一つ事に執着してしまうなど年甲斐も何もあったものでは無い。
仏門に言う悟りとは程遠い場所にあるこの私は、かつて彼が評した様に物の怪なのだろう。
「若様、今日はお呼び立てしてしまい申し訳ありません。隠善もよくきてくれましたね」
「巫女様がお呼びであれば、我等一門唐天竺からであろうとすぐに馳せ参じる所存に御座いまする」
「わ、私もです!」
不安気な若様とは対照的に、隠善はいつも通りだ。
流石はと言うべきだろう。
「では、まず隠善」
「はっ」
「貴方達はこれよりこの子の……いえ、胤社の臣として仕えなさい」
「それは……巫女様の庇護なされる胤社のお世話を任せて頂く……と?」
「そうではありません。文字通り私では無く胤社に仕えよということです」
「……それが……それが……巫女様の……思し召しとあらば……」
隠善党……ずっと私に尽くしてくれた彼らである。
私との関係をそこまで惜しく思ってくれているというのはとても嬉しく思うし、忠義に報いる事が出来なかったのは申し訳なく思う。
彼等からすれば放逐にもひとしい私の言葉に従ってくれる。それはそれだけ彼らが私の言葉に重きを置いてくれていることの証左だろう。
「永きにわたり本当によく尽くしてくれました。これからは胤社を守りよく仕えるのですよ」
「……はっ」
本当にこんな私のために、私の望みを叶えるためによくぞここまでしてくれたものだ。
今や最後の臣となった彼らを手放し、ついに私は一人になろうとしている。
ああ、覚悟はしていたつもりだが、こんなにも心細いものなのだなぁ……
「それでは若様」
「はいっ!」
「お別れでございます」
「へ……?」
言えた。言ってしまった。
これで良い。これが最良なのだ。
「……遠からずこの地は戦禍に焼かれるでしょう。その前にここを去るのです」
巨頭として立たんとする武田である。
源七郎様に渡した策が嵌まろうが嵌まるまいが、この春近とても無事でいられる保証はない。
戦う術を持たぬ彼が残るには些か危険が過ぎる。
「なるほど……そういうことでございますか……なれば我等隠善党、身命に代えても若を……胤社を御守りいたしましょう」
「ええ……お願い致します。癪ではありますが神宮を頼るのが良いでしょう」
「ふむ……確かに……それに衰えたりとはいえ天子の元であればーー」
「おまちください!」
逃げるとしても実際に動くのは隠善党だ。
流石に偸盗の技に長け、影働きを生業とするだけあって彼の理解は早い。
「どうなさったのですか?」
「どうしたもこうしたもありませぬ! お別れとは……一体どういうことなのですか!」
だが、若様はそうではない。
普段は山中にある隠善党の隠れ里で暮らしてはいるものの、彼はかの氏族ではない。
乱破水破の業と蔑むつもりは更々無いが、そういったものとは一定の距離を開けて育ててきたつもりである。
それ故か、置き去りにしてしまっていたようだ。
いや、違うな……私が向き合うことを拒んでしまっていたからだ。
流石に自分の心の動きである。どれだけ誤魔化したとて本意は手に取るようにわかってしまうものだ。
「若様」
姿勢を正して彼に向き合う
「この地も安心して暮らせる土地では無くなりました。隠善達とともに安全なところへ逃げて下さいませ」
「……巫女様も、巫女様も一緒に行きましょう!」
彼の言葉に私は首を横に振って答える。
「何故ですか! この地が危ういというのならば巫女様もーー」
勝手に囲い込み、勝手にともにあり、勝手に放り出す。
浅ましい……私は彼が涙を浮かべてまで惜しまれるような女では無いというのに……
「私は些かこの地との縁が深くなりすぎました。どうなるにせよ、この地の行く末を見届けます。幸いこの身体で御座いますゆえ」
「ならば……ならば私もともに残ります!」
私に詰め寄る彼をそっと抱き締める。
かつて抱いた様な燃え上がるような恋慕の情とはまた違った、言うなれば穏やかに慈しむ様な心の動きは彼を育むうちに芽生えた情……
「若様、あなたは精一杯生きて下さいませ……今生で二度と見える事が叶わずとも、それでもいつか再び会えましょう。それまでどうか健やかに」
それを母性と片付けるには私と彼の間柄は複雑だ。
それでも全てを擲ったとしても彼の幸せな行く末を願う気持ちに偽りはない。
行く道が如何なものであれ、私の心は得難い温もりに満ち満ちていた。
「おいっす! 差し入れ持ってきたぞー!」
「おいおい……あんまり気軽に来るなよ、一応俺らは犯罪者なんだぜ?」
「湿気た事言うなって! ほれ、チューハイ!」
「お前……こんなときに酒って……」
「おおっ! 流石じゃないか! タンカレーを持ってきてくれるなんてわかっているね、ナイン!」
「おい……レイス……」
「大丈夫だって! ちょっとだけだから!」
まただ……またあの手の夢だ。
私らしくもない……もう過去は振り切ったはずなのに……
「おや、お目覚めかな?」
「おっと、じゃあ俺は荷物おいて失敬しよう! 人質様によろしくぅ!」
人の心にズケズケ入ってくるこの女……レイスが見せているのだろうか?
だとしてもそれで絆される様な呑気な人生は送ってきてはいない。
「何の話をしているんだい?」
「……勝手に考えを読んで何の話もあったものでは無いでしょう?」
「ぷっ……そりゃそうだ!」
「エイト、君は私の味方をしてくれないのかな?」
「これに関しちゃ俺は博士に同情するよ、あんたの超能力の風情の無さは身をもって知ってるからな」
心底どうでも良いやり取りだ。
煙草片手に心底リラックスしている様子なのは私をまったく脅威に感じていないからだろう。
それもまた腹立たしい。
「ふむ……ところで夢というのは?」
「話す必要がありますか?」
「いや、必要は無いが……君は夢など見ていなかったはずなんだけれどね」
「妙な事を……そんな嘘をついて何の情報を引き出そうとしているんです?」
そもそも知りたいことがあるのならば勝手に覗き見れば良いだけの話だ。
『機構』にとっての重要な記憶こそ静代さんとともに編み出した方法で防護してあるがそれ以外はこの女にとっては無防備同然であることははっきりしている。
今更無駄な抵抗する気なんて更々無い。
「疑われるのも無理は無いが……寝ている君からは一切の意識を感じ取れなかった。普通であれば本人が忘れてしまう夢の情報も見られるというのに、だ」
知ったことでは無いと思う反面、少し気になる話でもある。
だとすれば私の見たあれは何なのだろう?
いや、夢である事ははっきりしている。だが、それをこの女が読み取れなかった理由は何だ?
それがはっきりすればこいつらを出し抜くことだってできるんじゃ無いだろうか?
「いやはや、薮蛇になってしまったようだね……流石は『NERO』御自慢の現人神様と言ったところかな?」
勝手に余裕ぶっこいていればいい。
私はすこぶる機嫌が悪いのだ。
小さな反抗として脳内でいくつも弾道力学の計算をしてやる。
恐らくこの世界でもがっさん位しか耐えられない量の情報量である。
余裕綽々といった様子だったレイスが眉根を寄せて頭を抑える。
別にこの程度の事で逃れられる等とは思わないが、その様子は私の溜飲を少しばかり下げる程度の役には立ってくれた。




