初花
良かった───
そう言って、少女はほっと息をついた。
清しい春の朝、えんは少女と共に閻魔堂にいた。見上げれば、昨夜よりもわずかに数を増したかに見える桜花が、朝の風に揺れている。
日が昇るのを待ち兼ね、不安げな顔でやって来た少女に、昨夜の顛末を話し終えて、えんは小さく笑う。
「大丈夫だと言っただろう。」
そう言うと、少女は「ええ、でも───」と俯いた。
「心配しなくても、今頃は、どこかに生まれ変わってるだろうよ。」
女衒になるような一生なら、幸せとは云えないかも知れない。それでも、あのおとこなら本望だろう。
閻魔堂の前に立ち、えんは扉を開け放つ。
春の朝の白い光が差し込んだ堂内に入り、少女は、昨日手向けた花の水を替え、香に火をつけた。香の香りが静かに漂う中、少女は須弥檀の像にじっと手を合わせる。
しばらくじっと頭を垂れていた少女は、やがてゆっくりと顔を上げ、えんに向き直って言った。
「明日から、見世に出ます。」
少女の瞳が、真っ直ぐにえんを見ていた。
「───そうか」えんはそう云って頷く。
少女が、自分を売った家族やおとこを、恨む日が来るだろうか。
えんは少女の瞳を見つめながら考える。少女がこれから生業とする道は、辛いことも多いだろう。今はどうあれ、そんな日が来ないとも限らない。
「───丁度いい。」
そう、えんは云った。
「閻魔王からあんたに伝言だ───どんな道でも、誠を尽くせってさ」
───それが、生きていくこつだそうだ。
えんの云うのを聞いて、少女は須弥檀の像を見上げる。
「閻魔さまは、女将さんとおんなじ事を言う。」
少女はそう言ってくすくすと笑った。
「そうかい。」とそう答え、えんも笑いながら像を見上げる。見上げた木像は、どこか憮然とした表情で二人を見下ろしていた。
「いつかまた、此処へ来ます。」
そう言って、少女は娘らしく大人びた顔で、えんを見る。
「いつでもおいで。」と、そう答え、えんは閻魔堂の扉を閉めた。
「───ありがとうございました。」
そう言って、少女は閻魔堂とえんに背を向ける。えんは黙ってその背を見送った。
いつか此処へ来るとき、少女が恨み言を言いに来るか、感謝を伝えに来るかはわからない。ただ、日々の愚痴を言い連ねに来るのかも知れない。それも構わない。
何であれ、此処へ来てあの夜の事を、そして今日の日の事を思い出すなら、きっと少女はおとこが選んでやったあの街で、生きて行けるだろう。
まだ子供らしい弾むような足取りで、小道を辿る少女の背が遠くなる。
えんは手をかざして、空を見上げた。
高く上りかけた日が、暖かな陽射しを注いでいる。咲き始めた桜花は、すぐに満開になるだろう。
色づいていく桜を見上げ、えんはゆっくりと春の日差しの中を歩き出した。