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初花  作者: 皇 凪沙
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 半月に照らされ、咲き始めた桜花が闇に白く浮かんでいる。うつし世とは切り離されたような川のこちら側にも、花は分け隔てなく咲き、春の盛りを告げていた。

 昼の内に、時を盗むようにしてやって来た少女は、閻魔の像に香華を手向け、おとこの無事を祈って手を合わせると、明日また必ず来ますと言い置いてせわしなく戻って行った。

 ほの白い桜の花を仰ぎ、えんは(ほの)かな明かりを灯す閻魔堂の前に立つ。今日はおとこの七七日。四十九日の忌日(きじつ)だった。事の顛末(てんまつ)がどうなろうと、少女等にはそれを伝えてやらねばならないだろう。

───乗りかかった船だ。

 そう呟いて、えんは堂の扉に手を掛けた。

 薄暗い閻魔堂の堂内を蝋燭の光が照らしている。

 (しゃく)を取る閻魔王の錦の衣が、(ほのお)の色を映してきらきらと煌めく。

 倶生神(ぐしょうじん)が滑らかに光る鉄札(てっさつ)を手に取り、その(おもて)を覗く。

 精彩を帯びてゆく景色の中に目を凝らすと、揺れる業の秤の前に、赤青の獄卒鬼等が二人の亡者を引き据えていた───

「えんか、入れ。」

 響く声に促され、えんはそっと堂内に入る。

 閻魔王の前に、先日の女衒のおとこと、えんの見知らぬ男がひとり、引き据えられていた。

───誰だい。

 尋ねると、閻魔王は「ついでだ」と素っ気なく云った。

「さてそれよりも、まずはこのおとこだ。」

 そう言って、閻魔王は女衒のおとこを見下ろした。


 おとこは相変わらず形良く座って、閻魔王を見上げた。

 随分と長い時が過ぎたように思う。あの日から、つい先刻まで、おとこは地獄の隅に括られていた。繋がれている苦痛はそれほど感じなかったが、凄惨な地獄の責めを目の当たりにするのは辛いことだった。見知った男が、日に幾度も獄卒の鞭に打ち据えられ、苦しみに耐えかねて泣き叫ぶ様を見るのは、ことに辛かった。いずれ自分も同じように泣き叫ぶ事になるのかと思えば、恐ろしくもあった。

 おとこはそっと隣に座る男を見る。

 先刻、今日幾度目にか獄卒等が近づいて来たとき、おとこはまた、獄卒等が男を(なぶ)りに来たものと思った。男もまた、そう思ったのだろう。ようやく息を吹き返したばかりの身を震わせていた。

 だから、獄卒等がおとこの前に止まり、「閻魔王様よりのお呼び出しだ。」とそう言った時、男はほっと息を吐き、おとこはいよいよかと覚悟した。

 久方ぶりに鉄柱から解き放たれ、幾分蹌踉(よろ)めきながらおとこは立ち上がった。隣に括られたままの男が、物寂しげな笑みを浮かべておとこを見上げた。

 しかし獄卒等は、おとこの縛めを解くと「お前もだ」と、そう短く言って男の縛めをも解きはじめた。戸惑う男と共に獄卒等に引かれ、おとこは閻魔王の面前に引き据えられた。

 そうして今、その顔を見上げている。


 さて───

 と、そう言って、閻魔王はおとこの目の前に据えられた業の秤を指した。

「それを見よ」

 おとこは、目の前の業の秤に目を向ける。業の秤は、あの時のまま僅かに悪業の側に傾いていた。

「これより、倶生神の手にある鉄札を此処に加える。鉄札には、是迄(これまで)にあった追善も恨みの声も、全て余さず追記してある。その重さを加え、秤がどちらへ傾くものか、その目でとくと見るがいい。」

 そう云って、閻魔王が倶生神に頷く。

 倶生神が一礼し、鉄札を取った。

 黒々と光る鉄札が秤に掛けられ、業の秤が(きし)みを上げる。

 おとこは静かに項垂れ、目を伏せた。期待はしない、すべきではない。そう、覚悟を決めていたが、それでもその瞬間を見るのは怖ろしかった。

「顔を上げて、とくと見よ。」

 閻魔王の声と共に、青の獄卒鬼が手にした黒鉄(くろがね)の棒を延べ、おとこの顔を上げさせる。

 顔を上げ、おとこは恐る恐る秤に目を遣った。見れば、幾分傾いでいたそれは、今は平らに釣り合っていた。

「この者の善悪の業はこの通り、釣り合っております───なれば、地獄へ遣るのは無益な事で御座いましょう」

 倶生神が静かにそう言って、秤からおとこの鉄札を下ろす。

 えんはほっと息を吐く。

───大丈夫だよ。

 そう言ったのは誰だったか。

 当の自分が、息を詰めて成りゆきを見守っていた事に気がついて、えんは苦笑した。

「───そうか」

倶生神の言葉に、閻魔王が頷く。

「しかし、業の秤が釣り合ったからといって、罪が無いわけでは無い。悪業と善業が同じだけあったというだけのこと。事実、お前には、あの少女をはじめ多くの追善の供養があった。それでも、秤は釣り合うだけで善に傾く事は無い。それは、同じだけ罪を犯して来たという事だ───」

───それを、忘れるな。

 そう云って閻魔王はおとこを睨む。

 おとこは閻魔王をじっと見上げ、「はい───」と答えて肯いた。

「再び人の世に生まれれば、お前はまた女衒となるのだろうな。」

 眉根を寄せたまま、閻魔王が問う。

「───出来ればそうありたいと思います。」

 閻魔王を真っ直ぐに見上げて、おとこはそう言った。

「罪深い事だとは分かっています。」

 それでも───救える命があるならば、自分は再び女衒となりたい。

 おとこはそう云って、深く頭を垂れた。

「よかろう───」

 閻魔王が云う。

「───しかし、覚えておけ。人の命とは、本来値の付けられぬものだ。己の利に走ってそれを行う事があれば、秤は(たちま)ち悪業の側に傾く。心して置かねば、次には地獄へゆく事になるぞ。」

 それを忘れるなと釘を刺し、閻魔王はおとこの隣に座る男に目を向けた。


「次は、お前の番だ。」

 そう言われて、男は恐る恐る閻魔王を見上げる。男を睨み下ろす閻魔王の顔は、さっきにもまして険しい。

「少しは己の罪の重さが身にしみたか。」

 そう恫喝(どうかつ)され、男は震えながら項垂れた。

「おまえが金欲しさに売った娘は、酷い扱いに耐えかねて見世を逃げ出し、連れ戻されて打ち殺された。年端もいかず売られた者には、病に倒れて母を呼びつつ死んだ者も一人や二人ではない。お前は、地獄へ堕ちて当然のことをしてきたのだ。」

 男が、涙を溢す。

「お前が地獄に堕ちてから、間も無く二年になる。なぜ此処に呼ばれたか判るか。」

 問われて、男は項垂れた。

 死んだ日から四十九日目までに、亡者の行先は決まる。しかし、悪道に堕ちた者には、百日目、一年目、二年目に再審の機会があるという。だが、四十九日の忌日を待たず、直ぐさま地獄へと堕とされた男は、百日、一年の忌日にも呼び出されはしなかった。だからこれは、最後の機会なのだろう。

 男は、身を震わせた。

 隣に座るおとこでさえ、業の秤は釣り合うばかりで善に傾きはしなかった。自分の悪業は、きっと取り返しのつかぬ程に重いだろう。して来た事を思えば、地獄を出られる筈は無い。

 いつだったか、少しばかり買値が良いからと、評判の良くない見世に売った娘の顔が浮かぶ。飢饉の年に、ただ同然で引き取った幼い子ども等の、不安げに男を見上げる瞳が浮かぶ。熱く灼けた鉄の柱に繫れ、獄卒の鞭に際限も無く打ち据えられて、苦しみに耐え兼ね救いを求めて泣き叫ぶ己の姿が生々しく甦る。

「どうした。」

 みるみる青褪(あおざ)め俯く男に、閻魔王が冷たく尋ねる。

───お許し、下さい。

 細い声で、男が言った。

 閻魔王が正に烈火の如く怒るのを、えんは見た。

「赦されると思うのか!」

 叱りつけるその声の厳しさに、男は震え上がり、地面に小さく身を縮めて(うずくま)る。

「わたくしが、悪かったのです───」

 そうしてしかし、懸命に震える声を上げて、男は言った。

「赦されることではないと、分かっております。しかし、もう一度だけ人に生まれる事を、お許し下さい───」

 閻魔王が男を睨む。

「ひとに生まれて、なんとする。」

 男は顔を上げた。

「わたくしは、間違いを犯しました。もう一度人となり、今度こそ納得のいく女衒に成りたいのです。」

 閻魔王が呆れた顔で男を見下ろす。

「おまえは、自分が何を言っているのか分かっているのか?」

 男が頷く。

───愚か者め。

 閻魔王が吐き捨てるように言った。

「人を、人の命を、売り買いすることの罪深さが、まだ解らぬか。お前のような愚か者は、再び地獄へ立ち返り、永劫に獄卒の鞭に打ち据えられるがよい。」

 男は、項垂れる。

「───自分の愚かさは、分かっております。」

 己が愚かである事も、罪の重さも分かっている。地獄で鞭打たれるのが当然だなどという事は、当の自分が嫌という程分かっている。

「ひとの命に値を付ける事は罪でしょう。しかし、売る者があるのなら、値を付けねばなりません。そうしなくては生きて行けなくなる者も、人の世にはあるのです。わたしはそれを知っていながら、値の付けようを間違いました。命を活かす為ではなく、己の欲の為に、命を売り買いしてきました。」

 男の目から再び涙が溢れる。

「だから地獄へ堕ちて、獄卒の鞭に打たれるのは仕方がない。けれどもその度に、あの時にああしていればと後悔するのは、もう嫌でございます。ですからもう一度───」

───わたしは女衒に成りたいのです。

 そう言って、男は隣に形良く座るおとこに目を向けて、閻魔王に訴える。

「このひとは、決して自分の欲のために、人を売ったりはしないひとでした。それでいて、自分のしてきた事で地獄へ堕ちても、後悔はしないと言うのです。どうせなるなら、わたしはこういう女衒になりたい。次に地獄へ堕ちる時には、この身はどれほど苦しくても、後悔だけはしていないと、そう言えるように。ですから───」

───どうか、もう一度だけ。

 と、男はそう言って、地に顔を伏せた。握られた手が強く地を擦る。額を擦り付けるようにして、男は泣いていた。

 閻魔王は男をじっと見下ろしている。

 隣に座るおとこの目が、揺るがずじっと閻魔王を見上げていた。

 閻魔王がふっと息を吐き、傍らに控える倶生神を呼んだ。

「倶生神、この者の鉄札を業の秤に掛けてみよ。」

 しかし閻魔王の言葉に、倶生神は首を振る。

「秤に掛けるまでも御座いません。この二年、この者には追善は疎か、(ろく)に供養も届いては居りません。」

 男が涙に濡れた顔を上げ、力無く倶生神を見遣る。

「しかし───改悛の情は見える様で御座います。」

 と、倶生神は男に目を向けることなく、手に取った鉄札の面に目を落としたままでそう言った。

 閻魔王が厳しい顔で男を見下ろす。

「本心からか。」

さて、と倶生神は首を捻る。

「地獄の責め苦の怖ろしさに、罪人は皆、己の罪を悔いるものに御座います。心底改心したというその証は、人の世にて立てるよりほか御座いません。」

 うむと頷き、閻魔王は、

「───いいだろう。」

と、そう言った。

「もう一度、人の世に戻してやる。しかし、お前がそうなりたいというそのおとこでさえ、善悪の秤はようやく釣り合うのだ。おまえが人となり、女衒となって、やがて此処へ戻ってきた時には、(きっ)と地獄へ堕ちるものとそう思え。」

 男が驚いたように閻魔王を見上げる。

「不服か。」

 閻魔王が睨みつけると、男は首を横に振った。

「ありがとう、ございます───」

 男の目から、また涙が溢れ出すのをえんは見た。

「しかしひとつ、条件がある───」

 そう云って閻魔王は隣でほっと胸を撫で下ろすおとこに目を向けた。

───この者は、お前に預ける。

 不意にそう言い渡されて、おとこは戸惑ったように男を見る。

「おまえが預かれぬというなら、この男は地獄へと戻すが、どうする。」

 そう閻魔王に問われ、おとこはもう一度じっと男を見た。男は息を詰めて、黙ったままおとこを見つめている。「仕方がない───」そう言って泣いていた、男の姿が浮かぶ。

 おとこは閻魔王に向き直り、膝を正して手をついた。

「私で、宜しければ。しかし───」

───私よりもこのひとの方が、屹度(きっと)よい女衒になると思います。

 男がほっと息を吐き、おとこに深く頭を下げる。そのまま肩を震わせている男に、

「宜しくお願い致します。」

と、そう声を掛けて、おとこもゆっくりと頭を下げた。

───話は決まったようだな。

 閻魔王が二人を見下ろす。二人は膝の前に手をついて、閻魔王を見上げている。

「お前たちは、女衒は世に必要だと言う。ならば、言うだけの事をして見せるがいい。」

 閻魔王はそう言って、倶生神を見る。

 倶生神が心得顔で頷く。

「ひととして生まれ変わるに適当な先は、既に用意して御座います。」

 そう言って倶生神は、新たな鉄札を取った。

「ならば、お前はすぐにも生まれ変わるがいい。此方の男は、十五年程も遅れて生まれればよかろう。」

 二人を指して云う閻魔王に、倶生神が問う。

「十五年の間、此の者をいかが致しましょう。」

 うむ。と閻魔王は首を捻る。

「今更、地獄へ戻しても仕方があるまい。えん、人の世で滋養のあるものと言えば、なんだ。」

 問われてえんは笑って応える。

「さて。鯉だの(うなぎ)だの、(すっぽん)なんかもよかろうが───」

 そうか、と閻魔王が頷く。

「ならば、暫くはそうしたものにでも生まれ変わるがいい。ひとを食い物にしてきたのだ、人に喰われるのも仕方があるまい。地獄で獄卒の鞭に打ち殺されるよりは、随分ましな死に方であろう。」

 そう云って、閻魔王は倶生神を呼ぶ。

「遊里に近い池か淵でも探してやれ。そうすれば、遊女等の口にも入るかも知れぬ。」

 倶生神が微笑を浮かべ、「はい。」と答えて鉄札を取る。

 閻魔王は男を見下ろし「不服はあるまい。」と、睨んで見せる。

 地獄へ戻る事を思えば、それは大した事では無いのだろう。男は閻魔王を見上げ「ございません。」と肯いた。


 獄卒等に導かれ、二人がそれぞれに消えていくのを見送って、えんは堂の扉を開けた。深更(しんこう)の春の空に、高く昇った半月が白く光っている。

 須弥檀の端に立ってえんは、閻魔王を見上げた。物憂げにえんを見返す閻魔王に、えんは問う。

「こうなると、判ってたんだろう。」

 閻魔王は「まあな。」と答えて外に目を遣った。

「なら、どうして───」

 四十九日もおとこを地獄へ繋いだのかとそう問うと、閻魔王は微笑した。

「ひとの命を扱うのだ。戒めが必要であろう。」

 そう云って、閻魔王はえんを見る。

「女衒は道を誤り易い生業(なりわい)だ。なまじな覚悟では、次には地獄へ堕ちることにもなり兼ねまい。」

 えんは閻魔王を見上げる。

───女衒っていうのは、そんなに罪が重いのかい。

 問うと閻魔王は笑った。

「確かに女衒の地獄も、楼主の地獄も、女郎の地獄もある。だが、侍の地獄も坊主の地獄とてあるぞ。人は身分や生業故に地獄へ堕ちるのではない。悪心を抱く故に地獄へ堕ちるのだ。」

 そう云って、閻魔王は目を細める。

生業(なりわい)は罪ではないが、生業故に罪を犯す事はある。人に罪を犯させ易い生業というものもあるのだ。」

 だから釘を刺したと、閻魔王は笑みを浮かべてそう云った。

「よろしいことに、もうひとりも行く先が決まりました。」

 鉄札から目を上げて、倶生神が微笑する。それとても、判っていた筈だと、えんは思う。

 須弥檀に背を向け、えんは戸口から外へ出た。(あで)やかというにはまだ早く、枝先に身を寄せあうように咲く桜花が、月明かりに照らされていた。

 ゆっくりと、背にした閻魔堂が闇に沈んでいく。

「この間の娘に伝えて置け。」

 闇の中から閻魔王の声が言う。

───どのような生業にも、誠を尽くす道はあるものだ、と。

 閻魔王の声が静かに消え、辺りに静寂が満ちる。

「伝えておくよ───」

 振り返らずにそう云って、えんは闇に沈んだ閻魔堂を後にした。


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