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初花  作者: 皇 凪沙
6/8

痘痕


 土手際(どてぎわ)の雪もすっかり消え、桃の節句が近い。閻魔堂へ向かう小道はまだ泥濘(ぬかる)んでいたが、足を濡らす水は随分(ぬる)んでいる。

 あの後、おとこの亡骸は無事に拾い上げられ、簡素な葬いが出された。えんもそっと葬いに加わり、身寄りもなかったおとこは、年季の開ける前に死んだ遊女らと同じく、無縁墓に葬られた。

───ここなら、皆に手を合わせてもらえるだろうから。

 訪れる者もないまま朽ち果てるより、名のひとつも残らなくとも、折々に供養を受け、手を合わせて貰える無縁墓の方がいい。物馴れた様子でそう言って、無縁の遊女等を長年供養してきたらしい坊主は、穏やかに笑った。

 葬いに負けず劣らず簡素な位牌は、菊乃屋の奥の煤けた仏壇の隅に、ささやかな居場所を得たらしい。

「毎朝、神棚にお詣りしたあとに、お水を上げて、手を合わせるんです」

 久方ぶりに会った少女は、えんにそう言って微笑んだ。

 あの夜からひと月ばかりが過ぎていた。今日は、おとこの五七日の忌日で、少女はわずかばかりの香華(こうげ)を携え、赤前垂れの痘痕の女とともに閻魔堂を訪れている。あの日、幼い子供にしか見えなかった少女は、僅かな間に見違えて、すっかり大人びて見えた。見世に慣れるため、今は忙しい日々を過ごしているのだとそう言って、少女はなかなか来られなかった事をえんに詫びた。

───あの人は、どうしていますか。

 そう尋ねる少女に、えんは「さあね。」と答えた。

「女衒の地獄に居るんだろうが、行く先が決まるまでは、手荒な扱いを受けることはないだろう。心配は無いさ。」

 それでも、地獄の責め苦を受ける罪人の様など、見ていられる物ではない。まして、まもなくお前も同じ目にあうのだと言い渡されて、同罪の者が責められるのを見せられるのは、如何(いか)に覚悟ができているとはいえ、たまらないものだろう。

 そう思いながらも、心配そうに歪む少女の顔を見て、えんは「大丈夫だよ。」と笑って見せた。

「業の秤の傾きは、ほんの僅かだと倶生神(ぐしょうじん)も言っていただろう? 買われ、売られた当の本人達が感謝して、追善の供養をするというんだ。閻魔さまだって地獄へ落とそうにも、落とす理由が無いだろうさ」

 そうだよ、と赤前垂れの女が少女の肩をたたく。明るい陽の光の下で見れば、女はまだ娘と言っていい年頃だった。


 用意してきた手桶に、裏の小川の水を汲み、須弥壇(しゅみだん)の上を拭き上げて香華を手向けると、二人は壇上に並ぶ木像に揃って手を合わせた。少女の心には、あの夜の様が焼きついているのだろう。一心に手を合わせる様が憐れだった。

 一頻(ひとしき)り手を合わせ、三人は堂を出る。暖かく日が差す堂前に座って空を見上げると、春らしく(かすみ)のかかった薄青い空が広がっている。

「あんたも、感謝してる口かい?」

 何とはなしに尋ねると、赤前垂れの娘はえんの方を向いて、痘痕のひどい顔の左側を隠すように下ろしてあった髪をかき上げた。

「お見苦しいですか?」

 悪戯っぽく笑って、そう尋ねる娘にえんは、

「はじめて見れば、驚くかも知れないね。」

と、正直にそう言った。

「でも、これがわたしの顔ですからね。取り替えの効くものでもなし、他人より少しばかり覚えやすい顔だと思って、可愛がってやって下さい。」

───よろしくお願い致します。

 と、娘はそう言って頭を下げ、さらりと笑って髪を下ろした。

 その仕草と口上は物慣れていて、これまで幾度も繰り返されているのだと分かる。

「これからお世話にならなきゃならない人には、こう言ってご挨拶する事にしてるんです。」

───あの人に教えて貰ったんですよ。

と、娘は言った。


 わたしが身を売ったのは、十二の歳です。娘はそう言った。

 娘の生まれたのは、少女の村よりもさらに厳しい土地だった。凶作の年でなくとも、村の娘達は多くが町へ売られて行った。そんな土地だったから、幼い頃には娘は器量がいいと周囲に喜ばれていた。

───高く買ってもらえるから。

 それでも誇らしかったのだと、娘は少し複雑な顔で笑った。

 疱瘡(ほうそう)が襲ったのは、十になる年の事だった。器量が良いと褒められた顔は、ほんの数日で二目と見られなくなった。特に顔の左側は痘痕が酷く、左目は辛うじて残ったものの、ものの影を見分けるのさえ怪しくなった。

 それでも厳しい山里の暮らしでは家にこもっているわけにもいかず、片方の目は見えるのだからと、病が治ると外仕事にも出されるようになった。田に出て両親を手伝ったり、山へ焚き木を拾いに行ったりしている内に、娘は自分が化け物と罵られ、気味悪がられるのを知った。

 その年は疱瘡が猛威を振るい、ただでさえ暮らしの厳しい村では、多くの子供が命を失っていた。病にかかって生き延びた子は、娘を入れて幾らもいなかった。だからやっかみもあったのだろうと娘はそう言った。売り物にもならず、外へ出るのも嫌がる娘は、家の内でも厄介者になった。「いっそ死んでいたほうが、幸せだったかも知れない───」そう母が呟くのを、娘は一度ならず聞いた。

 

 寒い年でした。と、娘は言った。

 娘が十二になった年、ひどい飢饉が村を襲った。もう何年も不作の年が続いていた。ぎりぎりの生活を続けてきた村に、飢饉を乗り切る余力はない。名主の家の蔵にさえ、既に米はなかった。村に女衒が姿を見せはじめると、どちらにしろ早晩売られる筈だった娘達は、あっという間に売られていった。

 子のない女が、二親と夫の為に身を売り、十にもならない女の子等が二束三文で売られてゆき、売り物にならない男の子や幼子は、口減らしにと捨てるように女衒の手に渡された。

 娘の家でも、十五の長兄を残して、十と六つの妹達が売られ、まだ赤子だった弟はいつの間にやらいなくなった。それでも、娘が売られることはなかった。

───悔しかった。

 そう言って、娘は懐かしむように遠くを見た。二親が、彼女を妹たちと一緒に売ろうとした事を、娘は知っている。妹達を買った女衒が「見世物小屋に売るには芸がない。」と笑っていたと、母が父に口惜しげに話すのを、聞いてしまったからだ。

 もう、家にはいられない。そう思った。

 だから───

「買ってくれとお願いしにいったんです。買って貰えないなら死ぬつもりで。」

 さらりとそう言って、娘はえんをみた。

 白く濁った左目が笑みを湛え、えんに向けられる。わずかに怯んだえんを、娘はまるで気に留めず話し続ける。


 その頃は、もう女衒の姿を見ることも稀になっていた。売れる娘や子供など、もう村には殆ど残っていなかった。だから、そのおとこが村に来たのは、売れた娘等の半金を届けるためだった。多くの女衒は、足元につけこんで娘等を買い叩き、後金を持って来はしなかった。

───信用できる人かも知れない。

 娘は幼心にそう思った。だから、そっと身仕度をして、女衒のおとこのもとに出掛けて行った。買ってもらえなくとも、家に戻るつもりはなかった。

「買ってくれないなら死にますと、そう言いました。」

 娘は笑いながら、えんにそう言った。

───死にたいのなら、死んでしまった方がいい。

 おとこは娘にそう言った。

「買われてしまえば辛い思いもする。死んでもいいと思うようでは、耐えられない。散々辛い思いをした後で死ぬぐらいなら、今死んでしまった方がいい。私も後味の悪い思いをせずに済む───けれど、」と、おとこは云った。

「───けれど、生きたいのなら買う。死ぬ気で身を売るのと死んでもいいと思って身を売るのは違う。生き延びるために、死ぬ気で身を売るというのなら、買わせてもらう。」

 だから───

 どちらなのかはっきりしろと、おとこは娘にそう云った。

「───死にたくは、ありませんでした。」

 娘はそう言って笑った。

 死にたいのではない、生きたいのだ───生きる場所が欲しいのだとそう言うと、女衒のおとこは「分った。」と頷いた。

 女衒とともに家へ戻り、驚く家の者達に身を売りたいとそう言った。さほど高い値はつけられませんがとおとこが申し出た金額は、妹達の半分にも満たなかった。それでも、見世物小屋にも売れない娘を、買い取って貰うには十分だったようだ。娘はそうして、家を出た。

 おとこは、はじめから娘をあの女将の手に渡す心積もりであったらしい。幾つもの町を通り過ぎ、幾日も歩いて、娘はこの町に来た。

───道中、いろんなことを教わりました。

 娘はまた、懐かしそうに目を細めてそう云った。

 顔を上げて歩くこと。顔を見て驚かれるのに慣れること。他人に笑いかけること。心ない人はどこにでも居るものだから、恨まぬこと、(ひが)まぬこと、拗ねぬこと。そして、骨身を惜しまず働くこと。

 どうせ女郎に売れはしない。なら、器量の良し悪しよりも、気立ての良し悪しを売りにしろと、おとこは娘にそう言った。

 やがて菊乃屋にたどり着き、女将に引き合わされたとき───

「女将さんは、本当に言ったんですよ、『うちは見世物小屋じゃないんだよ』って。」

───だから。

「教えられた通りにご挨拶しました。さっきみたいに。」

 そう言って、娘は可笑しそうに声をたてて笑った。


 とりあえず、使ってみてから───

 そう女将は渋い顔で言ったが、娘はあれから三年ここで働いている。

「辛いことがなかったわけじゃありませんけど、思っていたより悪い人っていないものです。」

 そう云って、娘はえんを見る。

「残った家族はどうにか生き延びられたそうです。それに私は、生きられる場所をもらいました。」

 だから。

「感謝してます───」

 そう言って薄青く霞む空を見上げ、娘はぽつりと涙を溢した。

 少女が娘の顔を見上げ、涙をこぼす。

 これだけ思われていれば、おとこの行く末に心配はあるまい───そう思って、えんは笑みを浮かべて二人に云う。

───大丈夫だよ。と。


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