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初花  作者: 皇 凪沙
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遊里


 閻魔堂でおとこを見送った次の日、えんは少女と共に菊乃屋を訪ねた。

 季節が春に向かうことを思わせる、暖かい陽が射している。溶け残りの雪が見る間に小さくなっていくような、そんな日和だった。

 江戸吉原などとは比べるのも烏滸(おこ)がましいだろうが、それでもその通りのある一角は、遊廓(ゆうかく)の体をなしていた。尤も小さな町の小さな遊所では、人目もあるのだろう。昼日中の通りは白々として物寂しく、えんは舞台の裏手を(のぞ)いた様な、何か淋しい気持ちになった。

 ほんの短い通りの何軒かの遊女屋の中に、菊乃屋はあっさりと見つかった。見世の前には下げ髪の赤前垂(あかまえだ)れがひとり、箒を使っている。声を掛けると、赤前垂れは愛想良く返事をして顔を上げた。少女が思わず小さく息を呑む。まだ若いその顔は、半面に(ひど)痘痕(あばた)が浮かんでいる。よく見れば片目には星が入り、濁ってしまっていた。

「───あら、すみません。お見苦しくて。」

 そう云って女は屈託無(くったくな)く笑い、下ろした髪で痘痕を隠して見せると、えんに用向きを尋ねた。

 楼主に会いたいと告げ、簡単に経緯(ゆくたて)を説明すると、赤前垂れの女は見る間に青ざめ、奥へと走り込んでいった。間もなく、幾人かの男衆(おとこしゅ)を連れて、女将らしい女が出て来る。その顔は、さすがに赤前垂れほど青ざめてはいなかったが、慌てているのが手に取るように分かった。

「───あの人が死んだっていうのは本当かい?」

 そう云って、女将は気を落ち着かせようというのか、ひとつ大きく息を吐いた。

 そうして改めてえんに向かい、「取り乱して申し訳ありません」と、そう言った。

「いえ、此方(こちら)こそ急にこんな事をお知らせしてしまって───」

───もしや、お身内でしたか。

 えんが問うと、女将は少し落ち着いた様子で首を振った。

「いえ、あの人は身寄りは無いんです。」

 ただ───と女将は言った。

彼方此方(あちこち)回ってない時には、大抵この界隈におりましたので」

 そう言って、女将は滲んだ涙を指の先で拭う。その後ろで、痘痕の女が前垂れを顔に当てて泣き出した。

「すみません、この子もあの人に世話して貰った子なもんで。」

 女将は後ろを振り返ってそう言った。

「あの人が何処からか買って来たんです。買ってくれと言われた時は、あんまりひどいと思いましたよ。見世物小屋じゃあるまいしってね───」

───今じゃ、居てくれなくちゃ困ります。

 そう言って、女将は嗚咽する女の肩を抱いた。

 その言葉には慣れた響きがあって、嘘ではないと分かる。おとこが世話をする娘達は、皆腹の括り方が違っているのだろう。

 女の嗚咽が収まると、女将は袂で自分の涙を拭いた。そうして仕切り直すように、えんに詳しい事の次第を訊ねた。閻魔堂での事は省いて、えんは少女から聞いた話を女将に話す。少女は俯いて、黙って話を聞いていた。

「じゃあまだ、亡骸(なきがら)はそこにあるんだね。」

 問われて、少女は身を竦めて頷いた。

 すみませんと小さな声で言い掛ける少女を、女将が止める。

「仕方が無かったんだよ。あんたひとりで何が出来るもんか。無事で山を下りてきただけ上等さ。」

 そう言って、女将は少女の肩に手を置き「落ちたのは、何処だか分かるかい?」と、尋ねた。

 少女は頷いて東に見える山を指し、その場所の様子を細かく語った。

「それならきっと、分かりますよ。」

 男衆のひとりが請け合う。すぐに四、五人が連れ立って、男衆がおとこの亡骸を上げに出かけて行った。差し当たっての段取りをつけ、あれこれ周りの者等に言い付けると、女将はえんと少女を座敷に招き入れた。


「すみません、取り乱してしまって。」

 女将は熱いお茶を二人の前に置くと、改めてえんに詫びた。

 いいえと答えて、えんは熱い茶に手を伸ばした。これから、女衒の真似事をしなくてはならない。茶を少し口に含み、ゆっくりと喉を湿らす。少女は少し後ろに控えるようにして、小さく俯いている。

───あの、

 そう、えんが言いかけた時、女将はゆっくりと頷いた。

「大丈夫、置かせて頂きますよ。」

───あの人が連れて来る娘なら、間違いはないですからね。

 そう言って女将は少し悲しげに微笑んだ。

「女衒なんぞやってましたが、あの人も買われてきた子だったんです。」

 誰にともなく、女将は云う。

「国は何処だか知らないけれど、酷い飢饉の年だったそうです───」

 子供は余っていた。わずかな値さえも付かず、口減らしに女衒に渡された。そうでなければ、飢えて死んだ。

 女の子ならばともかくも、幼い男の子など売り先は限られている。おとこを買った女衒は、おとこを売り損なって、結局女衒の仕事を継がせた。その命にわずかな値さえ付かないまま、おとこは女衒となった。

 だからか、おとこは誠実だった。

「あたしらだって、こんな商売をしていても、いやこんな商売だからこそ、出来れば阿漕な真似はしたくない。あの人は、ほかの連中と違って、そういうことはしない人でした。」

 そう女将は言って、また涙を拭いた。

「大した事も出来ませんが、弔いは出させて頂きます。それから───落ち着いたら、この子の家に半金を届けさせます。」

 女将の言葉に、少女がようやくほっとした表情を見せた。


 おとこの亡骸が見つかったとの知らせがあったのは、夕刻の事だった。見世はすでに慌ただしい気配を漂わせ始めている。また明日にでもと言い置いて、えんはおとこの帰りを待たず、見世を辞した。

 一旦少女を連れて帰るつもりだったが、女将は置いて行けと言った。

「少しでも早く慣れた方が、いいだろう。」

 女将はそう言って少女に笑い、

───ここには、同じような子が居るから。

 そう、えんに(ささや)いた。

 送りに出た戸口で少女はえんに、「ありがとう、御座いました」とそう言って、丁寧に辞儀をした。そして、思わしげな顔を上げ、「必ずまた、あの閻魔堂に行きます───」と、えんの耳元に囁いて、小さな涙を零した。

「大丈夫だと言っただろう。」

 えんはそう言って笑うと、心細げに立つ少女に背を向けて見世を出た。


 外はいつの間にか薄暮(はくぼ)が迫り、空には白く月が掛っている。

 昼には白茶けて見えた通りも、遊所らしく(つや)めいて、見世表には明かりが入り始めていた。おとこの死にも少女の想いにも関わりなく、遊郭の夜はいつもの通り賑やかに過ぎるのだろう。

 えんはなんとなく哀しい思いで、そっと菊乃屋を振り返った。少女はすでに中に入ってしまったらしい。灯りの入った表とは裏腹に、いま出てきたばかりの見世裏は暗がりに沈んで見えた。

 ここで、これから少女は暮らして行く。

 それが不幸な事だとは思わなかったが、えんはほんの少し切ない想いを抱えたまま、次第に華やいでゆく通りを後にした。

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