苦果
低く垂れ込めた雲に覆われた空が、炎の色を映して灰紅色に染まっている。
地獄の大地はごつごつとして草木の影さえ見えず、熱く澱んだ大気は生臭い血の匂いがした。
獄卒等に引かれて地獄の門を潜り、女衒が堕とされるという地獄の一角に、おとこは繋がれた。
「しばらくは、此処に居るがよい。」
鉄の柱におとこを後ろ手に縛りつけて、赤青の獄卒鬼はそう云って嗤った。
「此処は女衒どもの堕ちる地獄。殊更に悪事は働かなかったとはいえ、その身に覚えがあるであろう。」
「追善の供養が足らねば、そのまま仲間に入るのだ。じっくりと見ておくがいい」
そう口々に嘲って、赤青の獄卒鬼が去って行くと、おとこは端座したまま、辺りをゆっくりと見渡した。
おとこが繋がれたのは、鞭打たれる罪人を繋ぐ為の鉄柱の一本だった。これが、女衒を生業とした者どもへの罰なのだろう。沢山ある柱の多くは高熱を持って紅く焼け、罪人は熱い柱を抱くように鎖で手足を繋がれて、背や尻を獄卒の鞭に打たれて泣き叫んでいた。
鞭ではなく、鋲を打った黒鉄の棒で打ち据えられている者は、余程阿漕な真似をしてきたのだろうか。打ち据えられた背から血を流し、鉄鋏みで舌を抜かれているのは、舌先三寸で若い娘を騙して売ったのかも知れない。焼けた鉄棒で尻を貫かれたまま鞭打たれている者は、商売物の娘達を摘み食いでもしていたに違いない───
酷い有様に、おとこは顔を顰める。それでも此れが、相応の報いなのだろう。女衒という生業は、それ自体が罪深いものだろうし、悪事を働こうと思えばそれも易い事はよく分かっていた。
落ち着いてよく見ると、辺りにはちらほらと見知った顔があった。彼奴はいつのまに死んでいたのか、あの男はやはり地獄へ落ちていたか───そう思いながら見回すと、おとこの近くで声がした。
「何故お前が───」
驚いたような声は、悲壮な響きを帯びている。見ると、幾度か顔を合わせたことのある男が、焼けた柱に括りつけられていた。それ程に悪どい男ではなかった筈だ。それでも、上玉を安く仕入れて高く売ったと、自慢げに話していた事があったと、おとこは思い出した。
「何故お前が此処にいる、お前も地獄へ落ちたのか。」
身を焼く熱さから少しでも逃れようと、鎖を鳴らして身を捩りながら、その男はそう言った。
おとこが曖昧に首を振って、
「まだ見習いのようだ。」
と云うと、男はほっとしたような顔をした。
「お前は、こんな所に来るような事はしなかった筈だ。お前が地獄ヘ堕ちるようなら───」
───俺たちなど、救いようがない。
そう云って、男は自嘲気味に笑った。
「何が可笑しい!」
男の笑う声を聞いたのだろう、不意に恐ろしげな声がした。
「他人を泣かせて来た者が、何を笑う。そうして笑っていられるところを見ると、まだ己の罪が判っていない様だ。」
血に濡れた太い鞭を下げたその獄卒は、二人を怖ろしい眼で睨み付けてそう云った。
男が恐怖に顔を歪ませて、獄卒を見上げる。
「お前が此れまで、どれだけの者を泣かせて来たか、思い出させてやろう。」
そう云って、獄卒は鞭を振り上げた。
びしりと重い音が響く。打たれた男の皮肉が裂け、血飛沫が散る。
おとこは、目を伏せた。その耳に、びしり、びしりと鞭が肉を打つ音と、男の上げる悲鳴が、続けざまに響く。助けてくれと泣き叫ぶ声が、塞ぐことも出来ないおとこの耳を打った。
やがて泣き叫ぶ声は、悲鳴に変わり、苦しげな呻き声になった。目を上げると、男は熱い柱に凭れるように崩れ落ちていた。背から尻にかけての皮膚は全て剥ぎ取られ、赤黒い肉が血を流している。身を焼く熱さから逃れようと、力無くもがく男の背を、獄卒の鞭が尚も容赦無く打ち据えた。
強かに尚も幾度か打ち据えられて、男はついに柱に凭れたまま動かなくなった。灼熱の柱に押しつけられた肩口から、細く煙が上がる。皮肉の焦げる、嫌な臭いがした。
男が動かなくなったのを確かめると、獄卒はおとこを睨み付け、また別の罪人を責立てるのか、二人のそばを離れて行った。
皮肉の焦げる嫌な臭いが漂う。男はしばらく、動かなかった。
しかしやがて、熱く澱んだ大気を裂いて一陣の涼風が吹き過ぎると、男は荒い息を吐きゆっくりと起き上がった。
「───仕方がない。」
そう言って男は、涙を流した。
「好きで女衒なんぞになったわけじゃないが、止めようとも思わなかった───」
───金が欲しくて、買い値は良いが女の扱いが良くないとわかっている見世に、わざわざ娘を売ったこともある。儲けるために、まだ幼い子どもを買い叩きもした───
「だから俺は自業自得だ。だが、お前は違う。」
そう涙を流して言う男に、「同じだろうよ」と、おとこは言った。
此処にいる者はみな同じだ。少しばかり悪どい事をしたかどうかの違いはあるが、していたことは皆変わらない。人を買って、人を売る。尊い人の命に値をつけることが既に罪なのだから、それを生業にする者は皆等しく罪人だ。
言い分はそれぞれにある。
子を売る親が悪いのだと叫んでいる者もいれば、買う女郎屋があるから売るのだと訴える者もある。売りたいというものを、買いたいという者に売っただけ。自分は悪くないと、いずれもが泣き叫びながら訴えている。
それはそれで道理だが、それでも自分達に、罪がない訳ではない。それぞれに負う罪が違うだけだ。子を売った親はその罪を、買った楼主はその罪を、女郎を買った男達はその罪を、それぞれに負い、それぞれに償わなくてはならない。そして命を売り買いした女衒は、理由はどうあれやはりその罪を負わねばならないだろう。
必要な仕事だと思ったし、救える命もあった。買った命が生きる売り先を、出来うる限り考えて売ったつもりだ。それでも命というものは、本来売り買いしてはならないものだ。だからきっと、自分は地獄へ堕ちるだろう。けれどおとこは、それを後悔してはいない。
そう言うと、「やっぱり、違う」と、男が云う。
「お前のように生きていたなら───」
───こんなに後悔はしなかったのに。
静かに涙を流したまま、男はそう云って項垂れた。