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初花  作者: 皇 凪沙
3/8

女衒

 凍るような風が時折吹き過ぎる。(おぼろ)な月はそれだけを見れば、春の風情を漂わせていたが、泥濘(ぬかる)む足元はところどころ凍りついて、足を濡らす水が切るように冷たい。

 朧月がわずかに照らす闇の中を、えんは閻魔堂へと向かっていた。

 あれからまた、長い時間をかけて少女はなんとか自分を取り戻した。その間にえんが聞きだしたのは、彼女を送り届けるべき女衒の死の有り様だった。

───逃げるつもりじゃ、なかったんです。

 彼女はそう云った。

 少女の生まれた村は、此処から三日程のところであるらしい。村の名にえんは聞き覚えがなかったし、少女自身も北から来たか南から来たかも覚束(おぼつか)ない様子だったから、その村が何処にあるかはわからない。三日という道程も、初めて旅をする少女の足に合わせたものだろうから、存外そこは近いのかも知れなかった。ともかく、女衒と少女とは、その村からこの町を目指した。

 一日目、二日目は無事に過ぎ、もう明日には見世に着くという時、少女はふと囲炉裏端の匂いをかいだ。道は寂しい山道に掛かっていて、近くには人家もない。炭焼きの煙の匂いでもあったのかも知れない。ただ、それはひどく鮮明で、少女にあの日の風景をはっきりと思い出させた。少女を送り出す為に、早くから(おこ)された炭の匂いと火の温もり。姿を見せなかったお父、膝立ちのまま泣いていたお母、奥できっと啜り泣いていた婆とそれを宥める兄の気配。もう姉ちゃんには会えないかも知れないことも知らず、無邪気に眠る弟妹達。

 何かが、少女の中で膨れ上がった。何か取り返しのつかない事をしている様な焦燥が、急に胸の中に弾けて、少女は咄嗟(とっさ)に振り返った。逃げ帰ろうと思ったわけではない。自分のすべき事は分かっているし、帰ったところで皆が困るだけだということも分かっている。ただ、ただもう一度、後ろを振り返って置きたかった。

 振り向けば、今越えたばかりの峰が見えた。少し戻れば見晴らしのいい場所がある。もちろん、家が見えるわけではない。ただ、この向こうに自分の家があるのだと、自分は確かにそこで生まれて育ったのだと、確かめたかった。

 しゃにむに戻りかけた少女の前に、驚いたように女衒の男が立った。少女は止められても振り切るつもりで、真っ直ぐに細い山道を駆け上がった。擦れ違いざま、肩に掛かった手を振り払う。男の身体が揺らぎ、一歩後ずさると見えたその時、男の姿が少女の視界から消えた───

───何が起こったのか、すぐには分かりませんでした。

 少女はえんにそう言った。

 そのまま駆け上がり掛けて、少女は足を止めた。細い山道には、まだ沢山の雪が残っていた。雪の張り出した山道は、道のように見えても(やぶ)が雪を被っているだけのことがある。その上を踏めば、踏み抜いて落ちてしまう。少女は慌てて道の下を覗き込んだ。

 黒い影が見えた。背丈よりも遥かに高い崖の下に、男と見えるその影は仰向けざまに横たわり、ぴくりとも動かなかった。頭の辺りからじわじわと赤いものが広がっていく。

 少女は男を呼び、夢中で崖下の沢に下りる道を探した。

 幾度も幾度も男を呼び、助けを呼び、幾度か薮を踏み抜いて自分も下へ落ちかけて、少女はとうとう諦めた。男は一度も応える事はなく、山中には通りかかる者もなかった。このまま此処(ここ)で夜を待つわけにはいかない。ともかく、山を降りようと少女は歩き出した。

 漸々(ようよう)山を下りたものの、少女は途方に暮れた。行くべき店の名は聞いていたものの、日の暮れた町には尋ねるべき人影もなく、時折通りかかる者たちは何処か恐ろしく思えて声をかける気になれなかった。次第に夜が更けていくと、不審に思われる事が怖くなり、人目を避けて行くうちに町を外れ、人気のないあの場所に辿り着いたのだと───少女はそう云った。

 行かなければと急く少女を宥め、えんは自分のねぐらに少女を連れて行った。どうにか食事と呼べるような夕飯を口にすると、少女は倒れるように眠り込んだ。寝ている少女を起こさないように、えんはそっと家を出てきたのだ。


 雲に隠れがちな朧月の合間を縫うようにして、えんは暗闇の道を急いだ。目を覚ましてえんがいなければ、不安に思うだろう。出来れば少女の寝ているうちに帰ってやりたかった。

 やがて、朧な月明かりに閻魔堂が浮かび上がる。堂には明かりが灯っていた。

 寒さをこらえ、足を早めて扉の前に立つ。わずかに開いた隙間から、堂内に灯る(ほの)かな明かりが漏れている。

 ふっと一つ息を吐いて、えんは扉の隙間から、そっと中を覗き込んだ。

 罪の重さを載せ、(ごう)(はかり)がゆらゆらと揺れている。

 赤青の獄卒鬼(ごくそつき)鉄棒(かなぼう)を手に足を踏みしめ、倶生神(ぐしょうじん)が重たげに鉄札(てっさつ)を取り上げる───

 浄玻璃の鏡の(おもて)が、ほの明かりを映して(きら)めく。

 冠の飾りを揺らし、閻魔王が顔をあげた───

「えん、入れ。」

 響く声に引かれるように、えんは扉を開け堂内へと滑りこむ。

 須弥壇の正面に、おとこが膝をついていた。おとこは振り向き、えんが何か云う前にもの慣れた仕草で頭を下げた。

「ご面倒をお掛け致しました。」

 そう言って、おとこは顔を上げる。思いの外実直そうな顔が、えんを見上げていた。

「申し訳ございませんが、掛かり合いついでに、あの娘を送り届けてやって下さい。」

 丁寧にそう言って、おとこはえんにもう一度深く頭を下げた。

「黙れ!」

 閻魔王の声が響く。

「我が面前で人の売り買いをするつもりか。恥を知れ!」

 睨み下ろす閻魔王を、おとこは静かな目で見上げる。

 とうに覚悟を決めている者の目だと、えんはそう思った。

「私は女衒を生業(なりわい)としております。褒められた仕事でないことは、百も承知しております。」

 落ち着いた様子で応じるおとこを、閻魔王が厳しい声で問い質す。

「ならばなぜ、その褒められぬ生業を続けてきたのだ。弱き者を売り買いすることは、人としての道義にもとる行いであろう。」

 おとこは項垂れもせず、じっと閻魔王を見上げた。

「買わねば無くなる命もあります。売って生きる命もある。ですから───」

───()(まで)続けて参りました。

 そう言って、おとこは静かに頭を垂れた。

 傍らに控える倶生神が、鉄札を取る。その面に目を走らせて、具生神は微かに小さな溜息を吐いた。

「申し上げます───」

 倶生神がそう言いかけた時に、声が響いた。

「待って下さい。」

 えんは、戸口を振り返る。そこに、置いてきた筈の少女がいた。

「───ついて来たのか。」

 そう呟いて、えんは閻魔王の顔をそっと見上げる。渋面が浮かんでいた。

「ともかく、お入り。」

 そう、声を掛ける。凍るような外よりは、今の堂内は幾らかましだろう。

 少女は中に入ると、真っ直ぐにおとこの方に歩いて行って、ぺたりとその横に膝をついた。

「すみません───」

 少女はおとこにそう言って、手を付いた。

「あたしのせいで───すみません」

 もう一度そう言って、少女は蹲る様に土間に頭を付け、そのまま泣き出した。

 誰も、何も云わないまま、暫く少女の泣き噦る声だけが、堂内に響いた。

「何か勘違いしているようだ。」

 やがて、おとこがそう言った。

「おまえが、私を突き落としたと思ってるなら、それは間違いだ。」

 そう言っておとこは、少女を起こした。

「見くびられたものだ。おまえに突き落とされるほど、柔じゃない。それに───」

───慣れている。

 そう、わざと憎々しげに聞こえるように言って、おとこはにやりと笑って見せる。

「逃げはしない、それぐらいは分かっていた。止めるつもりはなかったが、あまり突然だったので、崖から落ちでもしないかと思っただけだ。まあ、自分が落ちれば世話はないが。」

 少女はじっと濡れた目でおとこを見つめている。

「ほんの少し道を踏み外した。それだけだ。おまえのせいじゃない。」

───初めての道でもなし、なんの因果だろうな。

 少女にそう言って、おとこはちらりと須弥壇の上を見上げる。

───偶然に御座いましょう。

 倶生神が、そう小さく呟くのを、えんは聞いた。


「さて、倶生神───」

 閻魔王が傍らに声を掛ける。

「さぞかし、悪因も多かろう。この者の罪業を読み上げよ。」

 具生神が(かしこ)まり、鉄札を取る。

「申し上げます───」

 何か言いたげな少女を、おとこが手で制する。どの様な裁きも、罵りも、受ける覚悟が出来ているのだろう。それが、おとこの女衒としての矜持(きょうじ)なのだと、えんは思った。

「この者は、女衒を生業(なりわい)とし、人の売り買いをする事で、世過(よす)ぎをしてきた者に御座います。その生業は決して清いものとは言えませんが、それだけで御座います。」

 どういう事だと閻魔王が問う。

「そのままに御座います。女衒という仕事は生臭いもので御座いましょうが、それは生業とする者の、性根の善悪に関わるものではありますまい。この者は、決して悪心を持って人を売り買いしていたわけでは御座いません。売られた後に身を投げたり、首を括った者も居ないわけではありませんが、それはその者たちの事情。救われた者も多い様です。」

 そう言って鉄札から面を上げると、倶生神はおとこに目をやり、業の秤を指して云った。

「この者の善悪の業を秤に掛ければ、あの通りに御座います。」

 ゆらりと揺れた業の秤が、少しばかり悪業に振れて止まる。

 閻魔王が眉根を寄せた。

「さて、悪しきとは云えぬが、善きとも言えず。如何(どう)するか───」

「地獄の内には、女衒を()とす地獄が特に(しつら)えてあるほど。決して褒められた身すぎとは云えませぬ。悪心無きと言えども、あらぬ恨みも買って居りましょう。次の世に因果を持ち越さぬ為にも、一度は地獄へ堕とすもひとつの方策かと」

 倶生神が涼しい顔で応える。

「待って、待って下さい。」

 おとこの制止を振り切って、再び少女が叫んだ。

 閻魔王の目がぎろりと少女を睨みつける。少女は(ひる)まなかった。

「このお人は、地獄へ堕ちるような人じゃあありません。この人のお蔭で、家は───」

 そう言って少女はあの囲炉裏端を思い出す。お母が膝立ちになっているところではない、家族が集まっている囲炉裏端だ。婆が一番下のまだ赤ん坊の妹を抱いている。お父が正面に座り、兄と何か語らっている。夕飯の片付けをするお母を手伝いながら、少女は小さい弟妹達を揶揄(からか)う───

 ぽつんとひとつ涙を落として、少女は閻魔王を見上げる。

「あたしを買って貰えなかったら───」

───一番下の妹は、春までに返されていました。

 それが、間引かれるということだと、えんはしばらく考えて気がついた。

「もしかしたら、婆も春までは生きていられなかったかも知れません。」

 婆は年老いている。田作りの始まる忙しい時期に、出来るのは赤子の守りぐらいのものだ。赤子がいなくなれば、年寄りはただの足手纏いになる。自分で始末をつけるか、お父が手を貸すか───

「だから、あたしを買ってくれたこの人は、家にとっては生き神様です。」

 そう言って、少女はもう一度、おとこに「すみません」とそう言った。

「本当なら、山を下りてすぐにも、助けを呼ばなきゃならなかった。でも───」

 自分が突き落としたと知れれば、捕らえられるかも知れないと思った。捕らえられれば、この身を買っては貰えなくなる。見世に買い上げて貰うまでは、家族に渡るのは僅かな支度金だけだ。それさえも、少女の家には貴重な収入だったのだけれど。

「───どうせ、生きてはいなかった。」

 おとこが笑った。そうして、えんに向き直って言った。

「この娘は上玉とはいかないが、芯がある。家族のために、すべき事を弁えている。少しばかり器量がいい娘などより、買い得だ。決して見世に損はさせないと、そう云ってやって下さい。そして───」

───高く売ってやって下さい。

 えんは、ああ、と頷いた。

 百文でも二百文でも高く買って貰えれば、赤ん坊は返されずに済み、婆も自然にお迎えが来るまで、赤ん坊をあやし、身体の利かぬことを済まながりながらも、生きていられるかもしれない。

 だから───

「せいぜい高く買って貰うさ。」

 えんはそう云って、少女に頷いて見せる。閻魔王が溜息を吐いた。

「おまえがそのおとこに恩義を感じているのは分かった、だが───」

 そう云って閻魔王は、一同に渋面を向ける。

「それと、罪の有る無しはまた別のことだ。」

 閻魔王の言葉に、おとこは静かに頷いた。

「分かっております。人の命に値をつけて売り買いする、私のような者を見逃しては、示しがつかないでしょう。」

 覚悟は、出来ております───

 おとこはそう云って、始めと変わらず落ち着いた目で、閻魔王を見上げた。

 (そば)では、少女が泣き出しそうな顔で、これも閻魔王を見上げている。

「倶生神。」

 閻魔王の呼びかけに、倶生神がはっと畏まる。

「この者の功罪はその通り、間違いはないか。」

 業の秤を指して問う閻魔王に、はいと倶生神が応える。

「この通り、間違いは御座いません。」

───よかろう。

 そう云って頷くと、閻魔王はおとこを見下ろした。

「秤が悪の業の重きを示している以上、今この時の裁きではおまえを地獄へ堕とさねばならない。しかし───」

 おとこと少女が閻魔王を見上げる。

「おまえにその者が言うような徳があると言うなら、追善(ついぜん)の供養が有ろう。行く先を決める最終期限は死より四十九日目。それまで判決を猶予し、期限までに倶生神の持つ鉄札に刻まれた、追善、恨み、交々(こもごも)を併せて決を下す。それ迄は、お前の罪がどのようなものかを、その目で見ながら待つがいい。」

 よいな、と殊更(ことさら)に恐ろしげな顔で睨み下ろす閻魔王に静かに頷いて、おとこは不安げな様子の少女に言った。

「心配はない。私のために手を合わせてくれる者が、少なくともひとり、ここにいる。」

 少女が泣き出しそうな顔で頷く。おとこは少女に、にこりと笑って見せた。

「連れて行け。」

 閻魔王の命に赤青の獄卒鬼が応じ、おとこの肩に手を掛ける。おとこは黙って立ち上がると、獄卒鬼等に促されるままに奥の暗がりに消えていった。

 心細げに立ち尽くす少女の肩を抱き、えんは堂を出た。早春の朧な月が、凍り始めた泥濘の道を淡く照らしている。背後の閻魔堂はすでに灯りも消え、木彫りの像がただ静かに二人を見送っている筈だった。

───大丈夫さ。

 えんがそう云うと、少女は項垂れた顔を上げた。月明かりに浮かぶその顔には、涙の跡が残っていた。

「大丈夫だよ」

 もう一度そう云って笑って見せると、少女は僅かに安堵の表情を浮かべた。少女のまだ貧弱な背をそっと押して、えんは凍り始めた泥濘の道を歩き出した───


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