誕生日ケーキ
「……夏菜」
私はゆっくりと口を開く。
「お母さん……」
夏菜は不安そうに私を見つめた。
どうすればいいというのだろう。この子は、もう誰ともおしゃべりができず、友達にもなれない。それで、「生きている」と、言えるのだろうか? 本当に幸せになれるんだろうか?
「……ケーキを」
そんな思考を無理矢理断ち切るように、迷いを振り切るように、私は口を開いていた。
「……え?」
夏菜が訊き返す。
私の胸は、痛んでいる。不安が胸をむしばんでいるかのように。
だけど、ひとつの諦念と同時に、一つ、誓いがあった。言わなければいけないことがあった。
「ケーキよ」
私は言う。
「……」
夏菜は、わけが分からないという風に怪訝な顔をする。
「……さ。行きましょ」
私は夏菜の困惑などには構わず、そう言いながら夏菜の手を握った。
「え……ちょ、ちょっと」
困惑する夏菜を、店の中に連れていく。傍目には、私が何を連行しているのか全く分からないのだろう。
ケーキ屋内に入る。スポンジの柔らかそうな黄に、いちごの鮮やかな赤、生クリームの甘そうな白が、ずらっとショーケース内に並んでいた。なんだか、一つ一つ光って見えるようだ。
「夏菜は、どれを選ぶの?」
私は夏菜に訊ねる。
「…………こ、これ」
夏菜は戸惑いを抱えた様子のままで、それでもなんとか選び出した。夏菜が指さすケーキは、ビターな黒がシックなチョコレートケーキだった。
「チョコレートケーキね。……すみません、これ下さい」
私はお金を払う。そしてケーキを受け取る。
夏菜は困った様子で、私の隣でちょこまかしている。
「……帰りましょう」
私は夏菜と一緒に店を出る。そして家路に着く。
「……」
「……?」
夏菜が私の顔を見つめている。その瞳は、まるで私の意図を確かめようとするかのようだった。
私は、その目を見つめ返す。
お互いの目が合い、なんとなく気まずかった。夏菜は私から視線を外し、黙って私についてくる。
私は、ただケーキがぐちゃぐちゃにならないように慎重に持って帰ることだけに神経を集中することにした。
夕方。私たちはようやく家に帰る。夕ご飯を食べて、ついにケーキの時間がやってくる。
私はいつものテーブルで、例のチョコケーキを御披露目する。二人分のフォークと取り皿も用意してある。
「うわぁ……すご……」
夏菜は一時だけ私に対する恥を忘れたかのように、瞳を輝かせた。
私は、ただ静かにそれを見つめる。
「……あっ」
夏菜はやがて私が見ていることに気付き、一つ咳払いをして、興奮を収める。
「別に恥ずかしがらなくていいのよ」
私はそう言った。
「……………………」
夏菜は完全なるシカトを決め込む。
「……ふふ」
そんな夏菜の様子を見て、私は思わず笑ってしまった。
……いつも通りの夏菜の姿に、少し安心した。
夏菜はまたケーキに向き直る。ケーキに熱い視線を送る。
顔には絶対出さないが、早くケーキが食べたい、とその態度が示していた。
今日は、一年に一度の夏菜の誕生日。夏菜の選んだケーキを囲み、夏菜と言う女の子が生まれてきてくれたことを祝う日。家族団らんで過ごす、素敵な日。
そんな優しい時間が、この家に舞い降りて、私たちを包む。
「じゃあ、電気消すわよ」
「う、うん」
電気を消すと、光源はろうそく以外何一つない。頼りない光が一つ(さすがに17本もろうそくを立てることはできなかった)あるだけなので、部屋はほとんど真っ暗だった。
幽霊でも出てきそうな、恐ろしい暗闇だった。テーブルの上のろうそくの炎はゆらゆら揺らめいていて、たったひとつの光も何だか頼りない。
何も見えない暗闇の中で、夏菜の存在だけが唯一確かなものに感じられた。
「……じゃ、じゃあ、消すよ?」
私と同じように、不安をかき立てられてしまった様子の夏菜の声が、そう言った。
「ええ」
私はそう応えた。
「……」
私はふと、夏菜の姿を、闇の中に探そうとした。かすかに、夏菜の姿を闇の中に見つけることができる。ろうそくの光のおかげで、今はかろうじてその存在を感じられた。
でも。夏菜がろうそくを吹き消したなら。その頼りない灯火をかき消してしまったなら。
夏菜の姿は、通行人だけじゃなく、私にすら見えなくなって、そして、ろうそくの火があっさり消えてしまう時のように、あっけなく、切なく――消滅してしまうのではないか? ふと、そんな突拍子もない不安に駆られた。いや、突拍子もないということはない。なにせ、夏菜は幽霊なのだ。いつか、何かの拍子に、私の前から姿を消してしまうかもしれない。
そう思うと、また不安になってきて、どうしようもなくなる。
視界にある揺れる灯火が一度大きく風になびき、消えそうになるが、またすぐに元通りになる。
やがて夏菜が、火を吹き消そうと大きく息を吸って空気を胸にためた。
そしてろうそくに向かい、どうせそんなにない肺活量をめいっぱい使って、灯火を吹き消そうとする。
「――」
私は言葉にならない不安を、やはり言葉にしなかった。ただ黙って、夏菜が火を吹き消すのを見守るしかできない。ちっちゃな夏菜は、今にも消えてしまいそうなほど儚く、だから私は願うしかない。どうか、夏菜が消えてしまいませんように、と。
「……ふーーっ」
夏菜はろうそくに息を吹きかける。ろうそくは今までより一層強く揺らめいて、そしてやがて、消える。
部屋は、真っ暗になる。夏菜の姿も見えない。私の動揺は強くなっていく。早く電気をつけよう、と思った。そして、夏菜の姿をこの目に映して、そして安心したい、と。
私は立ち上がり、手探りで部屋の電気のひもを探す。やがて、その手にひもの先端の感触が当たる。私はひもを引き、スイッチを入れる――。
「……え……?」
目の前にいたはずの夏菜。だけど、今、目の前には人がいた気配すらなかった。
夏菜が消えた――?
そう思ったのもつかの間……
「……あれ……」
気が付くと、私は、自分が何をしていたのか分からなくなっていた。これまでの、記憶がない。
記憶喪失……? こんな突然に。いや、突然じゃない記憶喪失なんてないだろうが。しかし全ての記憶がなくなっているわけではない。
試しに、最近起きた出来事を、一つ一つ思い出してみる。
何日か前、夏菜が死んで、それで、病院を出ようとして、だけどやっぱり出なくて、夏菜の病室に向かって……一つ一つ記憶をたどってみた。だが、そこからがどうしても思い出せない。
私は今まで、何をしていたのだ? 夏菜が死んだあと、一体何があったのだ? 私は混乱する。一体どうなっているのか。今の日付は何日なのか。何も分からない……
そしてそんな混乱の中で私はふと、目の前にあるテーブルの、その向こう側を見た。
……何故なのか、私はこう感じていた。もう死んだはずの夏菜が、このテーブルの向かいで、自分と一緒に、
ケーキを食べようとしていたような……。
「……お、お母さん?」
その瞬間、テーブルの向こうには……死んだはずの、いや、幽霊の夏菜が、きょとんとして座り込んでいた。
「ど、どうしたの? 急に」
夏菜は少し心配そうに問いかける。
「か…………か、夏菜……」
私はその幽霊の姿を目にすることで、やっと記憶を取り戻した。
夏菜は死んだあと、成仏できずに幽霊として化けて出たのだ。そして、今は私と一緒にケーキを食べようとしている。やっと思い出せた。
何故忘れていたのだろうか。こんな大事なことを……こんな大切なことを。
あの時、私には夏菜が見えていなかった。ほとんど一瞬だったけど。そして夏菜が見えなくなった瞬間、私から幽霊の夏菜の記憶が抜け落ちたのだ。
あの時……夏菜は消えかかっていた? かってに成仏しかかっていた? そして、夏菜が成仏すると……夏菜が幽霊になってからの二人の思い出は、消えてなくなってしまう?
「……!」
そんなことが、あるのだろうか。そんな残酷なことがあるのだろうか。
私の心の中に、一つの恐怖が、忍び寄る。それはやがて大きくなっていく。
いやまさか、そんなこと、本当にあるわけがないだろう。確かな根拠があるわけではない。